第3章 日本人集団地の建設(3)

移殖民会社の設立

伯剌西爾移民組合の結成と移民再開

1914年(大正3)サンパウロ州政府の渡航費補助打ち切りにより、ブラジル行移民は中断していた。1916年(大正5)3月、東洋移民会社、南米植民会社、森岡移民会社の3社は、伯剌西爾移民組合を結成し、東洋移民会社の神谷忠雄をサンパウロ州に派遣して移民再開の交渉に当たらせた。第一次大戦でヨーロッパからの移民が途絶えたことが手伝って、同年8月14日、神谷はサンパウロ州政府から渡航費補助を受けて、毎年4~5千人の移民を渡航させる協定を州政府から移民誘入の特権を付与されていたアンツーネス・ドス・サントス社との間で締結することに成功した。この協定により、1917年(大正6)から移民送出しが再開された。

海外興業株式会社の誕生

一方、日本国内では、寺内内閣が、1917年(大正6)7月、小資本の移民会社が無益に競争している状態を解消し、大資本により移殖民事業を国家の政策として助長発展させるため、国策会社の東洋拓殖株式会社が移民会社の株券や債券を引受けることを可能とする東洋拓殖株式会社法改正案を提出し成立を見た。
翌1918年(大正7)12月1日、同内閣の勝田主計大蔵大臣の斡旋により、東洋移民会社、南米植民会社、日本殖民会社、日東植民会社の4社の移民取扱業を買収し、海外興業株式会社(略称「海興」)が設立された。
同社は1919年(大正8)4月に伯剌西爾拓殖会社と合併し、イグアペ植民地経営を継承し、次いで1920年(大正9)11月に残る一社の森岡移民会社も買収した。この結果、海外興業は我が国唯一の移民会社となり、かつ植民地も経営する殖民会社ともなった。
海外興業には、1921年度(大正10)以降、内務省社会局から移殖民保護及奨励費10万円が下付されるようになり、全国にわたる印刷物の配付、活動写真班の巡回、農産物の陳列等、海外渡航の宣伝啓発に使用された。とはいえ、第一次大戦後の好景気で移民の応募者が減少し、移民に貸し付けた渡航費の回収もままならず、1924年度(大正13)に政府の渡航費全額補助による大量渡航がはじまるまで、同社の経営は苦しい状態が続いた。

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  • 画像『印度洋大運動会 芋拾ひ競争(シアトル丸船内) 大正6年7月13日』

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同化奨励策と日本人排斥法案

在外公館の施策

在留日本人の増加にあわせて1915年(大正4)にサンパウロに総領事館、1921年(大正10)にサンパウロ州北西部のノロエステ鉄道の起点であるバウルーに領事館がそれぞれ設置された。太平洋戦争開戦により日本とブラジルとの間の国交が断絶されるまで、ブラジル在留邦人社会は、移民の大半が日本国籍を有していたこともあり、ブラジル政府よりも、これらの日本政府の在外公館と密接な関係を有し、その指導・統制下にあった。
笠戸丸到着の際にサンパウロの新聞は日本移民を賞賛する記事を掲載したが、首都リオデジャネイロの新聞のなかには、日本人は同化しないでキスト(quisto 集団中の異分子の意味)を形成すると、受入に批判的な記事を掲載しているものがあった。
在外公館は、北米での失敗を教訓として、移民開始当初からブラジルにおける排日の動きに細心の注意を払い、それが大きくなることを未然に防ぐよう努めてきた。その手段として、日本移民のブラジル社会との摩擦の回避と同化の奨励が一貫した方針であった。
ブラジルがカトリック国であることに配慮して、カトリック以外の宣教師の渡航は厳重に制限し、また、折にふれ日本人の公共の場でのマナーにも注意を促した。

日本移民制限法案――レイス法案

しかし、こうした注意を払ってきたにもかかわらず、1923年(大正12)10月22日、米国での日本移民禁止への動きに影響を受けて、連邦議会下院にレイス(Fidélis Reis)議員(ミナス・ジェライス州選出)が、黒人種の入国を禁止し、黄色人種の入国を黄色人種の国内現在者の百分の三(同年12月、農工委員会で百分の五に修正)に制限する規定を含む法律案を提出した。この法案がきっかけとなり、日本移民の制限をめぐる賛否両論の意見がブラジルのポルトガル語紙上をにぎわした。日本大使館ではこの法案を廃案に追い込むため、連邦議会へのロビー活動を展開したが、1927年(昭和2)まで農工委員会、次いで財政委員会にかかり続けた。