第4章 国の保護奨励策の下での移民(2)

アマゾン開拓

日本移民のアマゾン誘入

アマゾンは19世紀末から1914年(大正3)までゴム景気にわいた。1897年(明治30)には、アマゾンのゴム採取に日本移民を誘入しようという話が駐日ブラジル公使の東京での講演で出された。このとき、在ブラジル日本公使館が、アマゾンは赤道直下の気候と疫病の点から見て、ブラジルでも最劣等の地域である上、ゴム採取労働は、炎暑に耐えて低湿地の泥土につかって行うものであり、原住民以外は誰も健康を維持することができないと、強硬な反対意見を具申している。
ブラジルへの移民が開始した後には、日本移民が甘言にのせられてゴム採取労働者とならないよう、在外公館は折にふれて注意を喚起した。

アマゾン下り

そんな中、1905年(明治38)(一説には1907年(明治40))頃、日本人がゴム採取のためアンデス山脈を越えてペルーからボリビアを横切り、初めてブラジル領アマゾンに入ったといわれる。この人たちは、「アマゾン下り」または「ペルー下り」と呼ばれ、1910年代後半までに400人から500人を数えたといわれる。彼らはアマゾンの各地で野菜を栽培したり、商店を営んだりした。
1922年(大正11)には米国から中南米諸国を巡ってきた柔道家の前田光世(コンデ・コマ)が、アマゾンのベレンに定住し、柔道師範として地元の名士となった。前田は、自身が培ったパラー州の要人との人脈により、その後の日本人によるアマゾン開発に重大な役割を果たすことになった。

州政府から外国への土地の無償譲与

アマゾンのゴム景気も長くは続かず、1910年代には、英国が1876年(明治9)にアマゾンから密かに持ち出した種子を使った南アジアと東南アジアのプランテーション産の天然ゴムが世界市場を席捲した。これによりアマゾンの天然林からのゴム樹脂採取にたよっていた地元経済は大打撃を受けた。
こうした中、パラーとアマゾニアの2州は、外国移民による開発に活路を見出し、各国に州有地のコンセッション(期日までに土地を調査し、指定の面積内で選定し、境界を確定することを条件とした無償譲与)を続々与えていった。米国のフォード社は、パラー州に150万haのコンセッションを確保して、1928年(昭和3)から開発事業を開始した。
一方、在ブラジル日本大使館は、サンパウロ州と近隣の州への日本移民の集中が日本人排斥の原因となると考え、日本人の発展をこれら以外の地域に求めるべきとして、1924年(大正13)田付七太大使は、野田良治書記官をアマゾンの調査に派遣した。

南米拓殖株式会社(パラー州)

福原八郎調査団

1925年(大正14)、農業視察を目的に外務省嘱託としてブラジルに渡った農学士芦沢安平は、鐘淵紡績株式会社(以下、鐘紡)の派遣留学生 仲野英夫とともに、ブラジル東北部地方の綿花栽培状況視察後、パラー州知事ベンテス(Dionysio Bentes)に対する田付七太大使の紹介状を持って、パラー州に入った。芦沢は、ベンテス知事から日本人集団地を設置するため、50万haの土地のコンセッション(1年以内の選定が条件)契約締結を申し出る旨の田付への返書を託された。
田付から電信を受けた政府は、資金を鐘紡に負担させて土地選定のための調査を行うことを決定し、1926年(大正15)5月から1927年(昭和2)にかけて鐘紡の取締役 福原八郎を団長として実地調査を行った。調査の結果、福原らは、アカラー(Acara)川流域に適地を発見し、州知事に面会して、約50万haの無償提供と州内の3地域の適地の選択について快諾を得た。

アカラ植民地の設立

1928年(昭和3)3月26日、田中義一首相兼外相は、アマゾンでの綿花栽培事業・移植民事業をめぐり経済界の有力者を外相官邸に招き懇談を行った。その結果、会社設立のための準備委員会が発足し、主に鐘紡の出資により、8月11日には南米拓殖株式会社が設立された(資本金1千万円)。
南米拓殖社長に選任された福原は、会社設立後、ただちに日本を立ち、10月ベレンに到着、12月個人名義で州政府からアカラー、モンテ・アレグレ、その他の州内の3箇所の州有地の譲与を受ける契約を結び、翌1929年(昭和4)1月にはブラジルに現地法人(株式会社コンパニア・ニッポニカ・デ・プランタソン・ド・ブラジル)を設立し、同社に契約を移転した。
アカラ植民地の本部は、トメアスーに置かれ、同年9月、第1回43家族、単身者9人計189人が入植した。

退耕者続出

南米拓殖は、開拓当初からカカオを主作物としたが、カカオは永年生作物で収穫が得られるのは種を蒔いてから4年目以降であるため、入植者は生活のために、ベレン市向けの野菜の栽培を始め、1931年(昭和6)にはアカラ野菜組合を結成し共同で出荷した。だが生活は苦しく最初の3年間に入植した202家族のうち、61家族が植民地を去った。
そして、期待していたカカオ栽培も熱帯農法の知識がなかったために失敗し、最後に活路を求めた鉱山事業も成功せず、南米拓殖は経営的に行き詰まり、1935年(昭和10)4月に事業を整理・縮小し、植民地経営から手を引き、福原社長も帰国した。以後、植民地の経営は移民たちの自治に委ねられ、アカラ野菜組合を改組したアカラ産業組合がその中心となった。1936年(昭和11)には悪性マラリアが蔓延し、毎年米の収穫期から年末にかけて退耕者が相次ぎ、1935~1942年の間に374家族2,104人が入植し、276家族1,603人の退耕者が出、残留したのは98家族(483人)にすぎなかった。

戦時中のアカラ植民地

1942年(昭和17)1月対日国交断絶が宣言されると、現地法人のコンパニア・ニッポニカおよびアカラ産業組合の資産は接収され、州政府の管理下に置かれた。アカラ植民地は、アマゾン地域の枢軸国人の抑留場所となり、アマゾン上流から日本人やドイツ人が送られてきた。これらの日本人たちは、道路工事などに従事させられた。

胡椒長者の出現

アカラ植民地は、終戦後も引続き州政府の管理下にあったが、青壮年層により結成されたアカラ農民同志会が州政府に対し運動し、1946年(昭和21)末には産業組合に商取引の直接行使権を返還させることに成功した。1949年(昭和24)9月アカラ植民地は、トメアスー(Tome-Acu)植民地と改称された。トメアスー産業組合の指導で、戦前に南米拓殖によりシンガポールから導入されたピメンタ(胡椒)栽培が1950年代に市販化学肥料と農薬を用いることで急速に普及した。インドネシアの独立で同国の黒胡椒農園が国内消費向けの稲田に転換された結果、1952年(昭和27)から黒胡椒の国際相場が高騰し始め、1953年(昭和28)から1954年(昭和29)にかけてはピークに達した。黒胡椒は黒ダイヤとも呼ばれ、胡椒長者も出現した。その後、1957年には胡椒価格が暴落したが、それでも1960年代初頭アマゾンの200数十戸の農家で世界の胡椒の7%を生産していた。