五通訳のうちのひとり加藤順之助の回想(邦字紙記事)

Reminiscências de Junnosuke Katō, um dos cinco intérpretes que acompanhou os imigrantes do Kasato-maru (artigo publicado em jornal de língua japonesa)

Reminiscences of Junnosuke Kato, one of the five interpreters (article published in a Japanese language newspaper)

皇国殖民会社が雇い、笠戸丸移民に付き添って各耕地に行った5人の通訳(いわゆる五通訳)が、ブラジルに到着するまでのいきさつを五通訳の1人である加藤順之助が回想したもの。一世は加藤の筆名。採録にあたり適宜、改行を加えた。

十年一昔

                     一世

(一)
 明治三十九年末に於て日本の人口は四千九百五十八万八千百〇一人であつた。之れを我が帝国の面積二万四千七百九十四里三町平方(台湾を含まず)に比すれば其の一平方の人口稠密度は二千人の割合を示してゐた[。]そして年々約四千万の増殖があつたので当時識者はこの人口膨張に対して備ふべく焦慮し初めた。曰く移殖民、曰く海外発展。此の声は甚だ高くなつた。而かも如何なる方面に移殖民すべき地を択ぶや、如何なる方向に世界の富源地を求めて発展伸張すべきかは時の緊急問題であつたのである。

 南洋諸島は天産に豊富であるけれども赤道以北の諸島は其面積余りに狭く、大々的の移殖民には適しない、赤道以南の諸島は面積広大なるも英国は我が国民の移殖を好まぬ、濠洲も亦然り、北米は門戸を閉ぢて我が同胞の移住を禁じた、加奈陀も大和民族の発展を喜んで迎えなかつた。此時に無尽蔵の天産を開放して我が民族の移殖を招呼したのは南米大陸である。南米諸国は人煙じんえん稀薄で、気候は順良であるから我が同胞の発展地として全くのパラダイスである。

 羅典亜米利加全土中、国広大にして天成の一大宝庫をかくする伯剌西爾は日本人の発展地として最も有望である事を予知して此国に開拓の新運を試みむとしたのは皇国殖民合資会社の水野龍さんであつた。水野さんは単身伯剌西爾へ二度来て実地踏査をした結果は水野さんの希望に一つの光を与へた。

 それに其の当時駐伯帝国公使杉村さんが熱心な尽力をしてくれたので勇気百倍せる皇国殖民会社の社長さんは珈琲産地として世界に有名なるサンパウロ州に瞳を走らせて微笑を頬に浮べた。帝国公使の強き後援をつた水野さんは日本の移民会社々長として当時公使館通訳官三浦荒次郎さんといふ腹の大きな気質の至極面白い人と共にサンパウロの各耕地を右から左へと巡視して、何処迄も唖者で徹し済し込んでゐた水野さんは大に図に当つて到る処に歓声を浴び到る処に歓迎を恣にしたのである。其の時不幸にも杉村公使は病魔の為めに他界の人となられたので日本移民輸入の大計画を心に画いてゐた水野さんは後任公使の援助を待つて其の謀を実行しようとしたのである。

 四十年内田定槌さんは駐伯帝国公使に任命されて其の五月渡伯したに遭ふた日本の移民会社の社長さんは穴賢あなかしこ、内田さんに依るに日蓮上人の聖法を以てし、兎も角も公使の賛成を得た。新来の公使を説服した社長さんもえらいが、又法華経の加護に依る処も多かつたのである。

 そこで水野さんは時のサンパウロ州の農商務長官ドトール、カルロス、ボテリヨさんに日本移民輸入を試むべく薦めた。之又妙験めうけん忽ち顕れてサンパウロ州政府は日本移民三千名を年々一千名宛三ヶ年に輸入することを四十年十一月十日皇国殖民合資会社代表者たる水野さんと契約調印したのである。

 移民契約書の交換が済むと直く水野社長さんは忽焉行李を整へてペトロポリスへ引上げ公使館に祝杯を挙げ、一方にて東京の本社へ打電して移民募集の準備に取掛らしめた。そして四十一年の初めに凱歌を奏して帰朝した。

 これより先き同期生の宮崎信造君は内田公使に随従して伯剌西爾の人となつた。宮崎君が長途の旅行に上るの時、伯国果して有望ならば共に彼国に生きんと互に語りて新橋停車場に別れを告げてから一年を経た四十一年の一月皇国殖民合資会社々長水野龍と封筒の裏面に麗々敷書いてある一書が余の茅屋に舞い込んで来た[。]

 余は水野龍なる人を知らなかつたので少しく不思議の念を起したが封を切つてひらけば伯剌西爾にゐた宮崎信造君から余に宛てた書面を托されて来た事、色々話したい事があるといふ意味であつたから余は直ちに水野さんを麹町区八重洲町の皇国殖民合資会社の事務所に訪ふた。名刺を通じて来意を告げて、二階の一室に案内さるるが儘に入ると無髯むせんの老紳士は微笑を泛えて余を迎えて呉れた。

 宮崎君の書翰てがみは余の肉を踊らしめ血を沸かさせ初めた――伯剌西爾に日本移民を輸入する契約が出来た[、]移民通訳が必要だ、移民通訳として伯剌西爾に来い、旅費はサンパウロ州政府が支弁する、同期生の大野基尚君にも渡伯を薦めよ――と書いてあつたからである。余は宮崎君が出発当時の一言をよく実行してくれた其の厚き友情に心より深く感謝した[。]

 水野さんは徐ろに口を開いて約一時間に亘り伯剌西爾の有望なること、青年の大発展地として他に其の類をもとめ難き国なること、志を立つるには正に伯剌西爾共和国、伯剌西爾の美人は日本青年を待つて蜜を甞めんとしてゐることを説いて余に伯剌西爾行を勧めた。権門富貴を意とせざりし一介の書生、窈窕えうてうたる美人の肉にあこがれざりし短袴の書生は思ふた――葢世の英傑となりしとて何んの甲斐ぞある、巨富の富を積みて何の役となす、文豪画聖となりし森羅万象を能く描写し得たりとて喜ぶに足りや、啻夫れ世の齷齪あくせくに蹂躙されずして生をとこしないに外国に貪り得ば幸と――直ちに伯剌西爾行を快諾したのである。

 宿年の目的を得、年来の希望を実現し得る機の到来したのを太く喜んだ余は事務所を辞して芝区赤羽根橋附近に居を構えてゐた大野基尚君を訪ひ幸を頒かたんとして走つた。目差した処に大野君は住むでゐなかつた。隣の八百屋に聞き向ふの荒物屋に尋ねたけれども暗として分らなかつたので交番所に査公を煩はしたが更らに同君の居所を突き止め得ずして其の日は家へ帰つてしまつた。

 其の翌日は日曜日であつたから朝より芝区の交番所を片端から尋ね廻はつて午後漸く海軍工廠の右手に大野君の下宿屋を探し出した。ベルを押して取次を乞ふと尻の脹れた赤い顔の下女が出て来て同君は不在だと云ふた。仕方なく名刺に渡伯の機会を与ふる所の神様が天降あまくだつたと書いて残して帰宅した。

 次の日大野君は欣然として余の草屋に訪ねて来たから伴ふて水野さんを事務所に訪問したのである[。]大野君も余の如く直ちに伯剌西爾行を約束してしまつた。

(二)
 第一回に輸送すべき一千名の移民には六名の通訳を採用する契約、六名の中一人は既に伯剌西爾にゐて日本移民の模範実例を示す為めテビリサ耕地に犠牲の汗水を流した鈴木貞次郎君が移民収容所の役員として勤務中で移民到着の上は鈴木君は通訳となり耕地へ赴任するから日本より新に行くべきは五名あればよかつた。

 余と大野君とは既に契約した、そこで残りの三名を得べく余は水野さんから依頼されたけれども当時西班牙語を学んだ者で内地に蟄居してゐる者は殆んど見当らなかつた故に水野さんは母校に依頼して修学中の平野運平、嶺昌、仁平高の三君を得た、これでやつと五人男は出来上つたのである。

 愈々出発準備をなす段取となつた。旅装の新調が誠に振つてゐた、洋服は山崎服洋店に、靴は鞆屋に、山高帽子は信盛堂に、鞄はズツク製が便利、シヤツは白に限る、襟飾ねくたいは派手な物、越中褌は不用、猿股は痳病患者が用ゐるもの、一寸大の蚊を防ぐ為めに畳めばチンチン音がする赤い縁の付いた青い蚊帳、悪虫の襲来を防禦する為めに頭から被つて寝る白木錦の大袋は二枚是非必要[、]寝巻はネル地が適当と何れも水野さんの指揮の下に調ととのへた。

 処が此処に一問題が起つた[。]即ち妻帯問題で、之れは会社の土井権太さんの提案であつた、家族移民の通訳たり監督たる五人の俄ハイカラは妻を娶るべく盛んに勧められた。道理至極真也。この目出度い土井さんの主張に従ふて妻帯したのは大野君と仁平君とで随分忙がしかつたらしい、平野、嶺の両君と余とは真平御免を蒙つてしまつた。通訳妻帯問題は会社の予防策であつて、移民の娘の進水式者となる勿れの暗示だが土嗅い事に其の考が到らなかつたのは噴飯の沙汰と云ふてよい。

 通訳は移民がサントス港に上陸する前少くとも一ヶ月前に渡伯して移民到着に対する諸般の準備をなす義務があつたから、ハイカラに化けた五人男は四十一年三月二十七日東京を出発してみちを西伯利亜に採つた。三十日浦塩斯徳うらじおすとつくに上陸して同地の杉浦商会に務めて居られた嶺君の兄さんにえらい世話になり、露西亜料理の馳走にもなつて西伯利亜鉄道旅行に就いての色々な注意事項を聞いた。汽車の食堂で毎回食事をすると非常に金がる、料理も余り上等でないから馴れた旅行者は食料品を携へて手料理をして食堂の厄介になら[ん]といふ事であるから其の妙案に則りて二組半の野次喜多は五人前の茶碗、ナイフ、種々な鑵詰、燻し鮭[、]砂糖、茶、それに白湯を貰ふ為め大きな薬鑵を一つ何んでも御座れの杉浦商会の番頭さんに安く買ふて貰ひ、柳のかごに詰め込んだ其の命の親を舁ぎ三十一日西伯利亜鉄道に乗り込んだのである。

 福島将軍の単騎西伯利亜横断記を読むで他日天保銭を胸間にきらめかさんと願ふた少年は長じて移民を指揮する職にあり付き無剣の士官となり鼻下に怪しき八の字髯を蓄えて同じ西伯利亜に狼群らうぐんの襲撃を思はず安んじて贅沢な長椅子に露西亜煙草をスパツスパツと喫いながら未だ堅くして解けざるがい々たる雪を車窓に眺め座して一直線に鉄の上を走つていた。バイカル湖には大きな汽船が幾艘も氷漬となつてゐた。音に声にしウラル山も高からず、一貧寡婦の為めに暖炉を自から築けるトルストイ、一貧困者の為めにみずから藁屋根の葺き換をしてやつた露の大文豪は余等の一行を迎えなかつたけれどもマキシム、ゴルギーが荷揚人足の群に身を投じて苦しい日を送つたあのブオルガ大河に掛かつてある長い鉄橋を無事に渡つて四月十一日モスコに着いた。此処で旅中大層親切な世話をしてくれた横浜原商店の岡田源吉さんと別れ又河野通九郎さんの厄介になつて五人のチツク党は伯林さして出発した。

 伯林では東亜の主筆老川茂信さんから沢山馳走を受け諸処を見物して海面より低い和蘭を抜け英京倫敦に到着したのは四月十五日であつた。伯剌西爾へ急ぐ五人は落着いて名所旧跡を探るべき余日を有たなかつたのでやつと三日の滞在に素通り見物をして十七日サウザンプトン港から英船アラガヤに乗込みサビヤが鳴くパルメーラの国へと向ふた。

(三)
 大西洋は頗る平穏で未来の貧乏人に余り苦痛を与へなかつた。リスボン、マデーラ島、ペルナンプーコ、バイヤ[、]リオ、デ、ジヤネーロに寄港して五月五日サントス港に到着した。日本を出発するときサントスに着すれば州政府は楽隊を以て歓迎すると水野さんに喜ばされた余等は出迎ふ筈の楽隊の影も形も埠頭に見出し得なかつた。

 皐月かうづきの五日は男の節句、半空に翻々音をなす八幡太郎義家、加藤主計頭清正の幟、風を孕む五間の真鯉[、]三間の鯡鯉、三色の吹き流しはサントスになくて、港内に碇泊してゐた幾多の外国汽船は檣頭高く商船旗を掲げてゐた。税関の検査はいと易く黄い五人は上陸して樫葉餅をマカロンに代へて無事到着を祝したのである。此の日は実にサンパウロ州政府の補助に依り伯剌西爾に渡航すべき一千名の先発隊がサントスに上陸した日で、伯剌西爾に於ける日本移民史の第一頁を彩るべき日である。

 余等は上陸すると直ぐサンパウロの鈴木貞次郎君に打電して到着を報じた。鈴木君は即日サントスへ来て呉れたので五ツの高帽子は鈴木君に伴はれて其夜サンパウロに着いた。翌日移民収容所に出頭して所長ブラガさん(現今サンタ、エルネス・テナ耕地支配人)に面会し、土地労働局長フエラスさん(今の収容所長)に握手した、そして州政府に総務局長エウジニオレフエーブレさんを訪ひ到着届を済した。

 此日五人は移民収容所勤務を命ぜられ其の次の日から三人交代で隔日に出勤する呑気さ、難有さ、何んでも伯剌西爾に限る、月給は二百ミル、結構な事、朝九時に出勤して十一時迄執務午後は一時から四時迄仕事は煙草を吸ふこと、官給の珈琲を飲む事であつた。こんな都合のよい役所は世界にあらうか新来の腰弁は喜んだ、そして移民船は成る丈後れて着けばよいと祈つた、出来得へくんば一年後れてくれれば更らに妙と思ふた。収容所から帰る鈴木君の案内で毎日市内を散歩した、信盛堂で新調した山高帽は最新流行であると水野さんが撰んで呉れたのではあつたがサンパウロでは時世後れ、日本の流行帽を被つた五人は列をなして市内を潤歩くわつぽした、行く者来る者皆妙な視線を余等に注くに気が付いたとき、山高帽子は壁に高く吊されて麦藁帽子は余等五人をブラジルニザードしたのである、

 光陰矢如といふが余は光陰如弾丸と云ひたい、もう満十年になる、柿八年より遅い、余はやつと独り歩きが出来る様になつた、伯剌西爾に生れて十歳になつた髭のいた童子はこれから中々忙はしくなる、あれもせねばならぬこれもやらねばならぬ丸で盆と正月とを一所に背負ふて走り廻るのだと思ふと余りよい気持はせんけれども社会は遠慮会釈なく余に鞭を加へてゐる、たれると痛いから走る、走れば何物かにち当る、打ち当れば噛み付く、もう既に噛み付いた人々もある、

 余等が到着当時の遊び仲間であつた藤崎商会の後藤武夫君は野間さんから貰ふた紀念の二十二形の銀側時計を振り廻してゐたが今はリオの藤崎商会に司と崇められ可愛い坊やのパパイとなつてしまつた。酔へば陶然として台所に隠れ洒落た浴衣に身を包んで頭にざるを被り濃い髭に箸一本を通しペッピリ腰をして「アー丹波の奥の笹山―にドッコイシヨと出て来るドゼウ掬ひの名人明穂梅吉君は移民会社リベイロン、プレト出張所長となつて納りきつてゐる。

 真面目なクリスチヤンで恋愛神聖論者であつた鈴木貞次郎君は移民の活神様いきがみさまと謳はれた上塚周平さんとノロエステに殖民地を経営中である。独語、仏語、英語、支那語、西語、葡語に精しい宮崎君は献身児童教育に従事してゐる、平野君は殖民地創設者の嚆矢としてフレシデンテ、ヘンナに将来を期してゐる。嶺君は九百万円の海外興業株式会社の出張所になくてはならぬ人物となつた。大野君はミナス州に孤独城廓を築いて金剛石や金の光を見張つてゐる。仁平君は不幸にも病を得て帰朝した現今は華の都の東京に青い酒、赤い酒を味ひながらサンパウロ州の地図を編製中であるとかである。