1867年第2回パリ万博

万博にも娯楽を

【コラム】渋沢栄一

渋沢栄一は明治・大正期における実業家のトップリーダーであり、当時を代表する財界の第一人者であるが、実は1867年第2回パリ万博に御勘定格陸軍附調役(会計係兼書記)として参加したことが一つの転機となっている。渋沢は1840年、埼玉県の豪農の長男として生まれたが、国事に熱中し、過激な尊王攘夷論者であった。高崎城をのっとり横浜を焼き討ちする攘夷行動を起こそうとしたが頓挫し、京都に出奔。間もなく水戸の一橋家に仕官し、一橋家の農兵編制、財政改革、殖産興業、軍制刷新などに才能を示したが、一橋慶喜の将軍職就任と共に幕臣となった。

1866(慶応2)年、フランス皇帝ナポレオン三世から幕府宛に、1867年にパリで開催する万博への出品要請と元首招請についての書簡が届いた。そこで、幕府は将軍慶喜の弟、徳川昭武を名代として派遣することとした。昭武は当時14歳で、異国でのこの幼君の警護役として水戸藩士7名が選出されたが、忠義心も強いが頑固な攘夷論者でもある彼らの取りまとめ役として随員に加えられたのが、かつて過激な尊王攘夷論者であった渋沢栄一である。その上、算数に明るく、理財の念に富んでおり、その有能な実業家的手腕も期待されていた。

渋沢は、担当の庶務及び会計について手腕を発揮した。経費削減につとめ、博覧会出品物の売却等も行った。そうした万博に関する使命を果たすかたわら、1年半ほどのパリ滞在中に、経済の理法、合本(株式会社)組織の実際、金融(銀行)の仕組みなどを調査、研究した。それらが、後に近代的企業の設立、租税制度や貨幣制度等の改正・改革へと繋がっており、また大財閥を形成した素地となっているのである。

渋沢は、パリ万博随行の際に『航西日記』を著しており、そこにはパリ万博の規模や世界各国の参加状況、展示会場の様子、その時期のパリ市中の模様、各国元首の動静などが詳細に書かれている。また、日記の至るところで、西欧文明の進歩に感嘆している心境が述べられており、渡欧の4年前まで過激な攘夷論者であった渋沢が、西欧文明に接してどのような変化をし、後の活躍へと繋がったのかを知ることができる。

参考文献:

渋沢華子 『渋沢栄一、パリ万博へ』 国書刊行会 1995 <GK128-E113>
高橋邦太郎 『花のパリへ少年使節』 三修社 1979 <D7-52>
日本史籍協会編 『渋沢栄一滞仏日記』 東京大学出版会 1967 <GB391-66>