第2部 近現代

第6章 教育家

津田梅子(つだ うめこ) 1864-1929

津田梅子肖像明治・大正期の女子教育家。8歳のとき、日本初の女子留学生として山川(大山)捨松ら4人の少女とともにアメリカに留学。帰国後、華族女学校教授、女子高等師範学校教授などを経て、明治33(1900)年に女子英学塾(のちの津田塾大学)を麹町に設立した。 日本YWCA初代会長でもある。

73 津田梅子書簡 明治29(1896)年12月8日【牧野伸顕関係文書(書簡の部)588】「津田梅子書簡」の封筒

華族女学校教授に在任していた津田が当時の文部次官牧野伸顕に宛てた礼状。牧野への依頼の内容は定かではないが、「万事好都合に相運び」「当人にも…深く喜び居り候」とあり、本件に関する牧野の尽力への感謝を伝えている。牧野は大久保利通の次男で、地方官、外交官などを経て文部大臣、外務大臣等の要職を歴任。のちには内大臣として、昭和天皇の重臣の役割を担った。

「津田梅子書簡」「津田梅子書簡」の封筒

下田歌子(しもだ うたこ) 1854-1936

下田歌子肖像明治から昭和期の女子教育家、歌人。宮内省に勤め、皇后から歌才にちなみ歌子の名を受けた。退官後、上流子女教育を目的とした桃夭女塾とうようじょじゅくの創立をはじめ、華族女学校及び実践女学校(のちの実践女子大学)の創立に関わった。

74 下田歌子書簡 明治19(1886)年12月16日【三島通庸関係文書318-6】「下田歌子書簡」の封筒

華族女学校教授の任にあった下田が、警視総監三島通庸に宛てた書簡。三島の後ろ盾を得るため、自身が編纂した道徳教科書『国のすがた』(74関連資料)の写しを刊行前に提出する旨を伝え、著者の名義などについても相談している。下田はこの時期伊藤博文はじめ政府上層部への人脈を通じて、『国のすがた』の普及を策していた。『国のすがた』は翌年3月に大蔵大臣松方正義の序文を付し、三島の名で刊行された。なお、これ以前に下田は、『和文教科書』『小学読本』などの教科書も刊行している。

「下田歌子書簡」の3コマ目

「下田歌子書簡」の4コマ目
「下田歌子書簡」の翻刻

74関連資料:国のすがた 明治19(1886)年【三島通庸関係文書551-1(イ)】『国のすがた』の拡大画像

『国のすがた』

嘉納治五郎(かのう じごろう) 1860-1938

嘉納治五郎肖像明治から昭和期の教育家、柔道家。東京大学卒業後に講道館を開き、柔術を発展させて柔道を創始、研究と普及に尽力した。日本人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となるなど、広く日本のスポーツの発展に貢献した。

75 嘉納治五郎書簡 昭和13(1938)年4月4日【下村宏関係文書(その1)256-1】「嘉納治五郎書簡」の封筒

昭和11(1936)年7月、ベルリンでのIOC総会において、昭和15(1940)年の東京での夏季オリンピック開催が決定したが、その後の日中戦争の長期化により、開催は危うくなった。しかし昭和13(1938)年3月のIOCカイロ総会では、ひとまず東京開催の方向に落ち着いた。IOC委員としてオリンピック招致活動に尽力してきた嘉納は、総会参加後、日本体育協会会長の下村宏に宛てたこの書簡の中で、依然山積する問題に苦慮している旨を伝えた。このひと月後、嘉納は帰路の船中で肺炎により亡くなり、同年7月には東京のオリンピック返上が決定した。

「嘉納治五郎書簡」