第3章 家元制度 趣味としての和算

(1) 家元制度とシステム

江戸時代後半期の文化面での興味深い話題は、数多くの趣味領域で家元制が組織されたことでした。茶道や華道のように室町時代から続いている伝統的な芸道の他にも、俳句や和算などで愛好者集団を統制する家元制(あるいは師匠を頂点とする門弟集団)が立ち上がりました。現代的な高等教育機関や公共文化施設のようなものが無かった時代ですから、それぞれの趣味を嗜む人たちは私的なサークルにその長(家元)を立てて、入門者から家元に至るピラミッド状の組織のもとで活動を進めました。

和算の場合は、全国各地に大小様々な家元の流派が乱立しましたが、江戸を拠点として最も大きな組織を誇ったのが関孝和(?-1708)を元祖と仰ぐ関流でした。1760年代頃から、関孝和から数えて4代目の弟子にあたる山路主住(1704-1772)という和算家が、関の没後に進展した成果も取り入れて関流の確立に貢献しました。彼のもとには数多くの門弟が集まり、さらにその中から全国的に門人を集める塾が成立しました。関流の場合は、全国から参勤交代で江戸にやってきた侍身分の者たちが多数入門したことが、その全国的普及に一役買いました。

塾の運営の仕方はそれぞれ多様だったようですが、一例を挙げると、初等的な算術を学んだ者たちは次の段階に上がると、実際に数学の問題を出題し、解答するという実践を積むことでステップアップを図るという塾もありました。決められた日時に門人たちが塾に集まり、二組に分かれて出題側と解答側に回ります。その出題・解答の応酬によって点数を付け、高得点の者から上の段階に進めるというシステムです。

全国各地の和算の流派に集まる人たちは、パズルを解くような感覚で数学の問題に打ち興じていた側面がありました。彼らは段階を踏むカリキュラムによって、一定の修得技能が認められると家元から免許皆伝を与えられました。彼らの上昇志向が家元制を支えていたともいえます。

(2) 成果の発信

その一方で、家元組織は流派の外に向けて積極的な発信を絶えず行っていました。算額の奉納はその一例です。

算額とは、数学の問題と解答を絵馬に仕立てて神社仏閣の絵馬堂に奉納したものを指しますが、これが家元組織の成果公開法として確立し、全国各地の主な寺社にこれが掲げられることになりました。算額奉納は、印刷物を刊行するよりも手軽に衆人の目を引くやり方でした。そのため、数学の問題も人目を引く複雑な幾何学的問題や、派手に彩色された図形などが選ばれていたようです。

江戸時代の後半には数学や暦学の書を専門に刊行する書店も現れました。先に述べた京都の書店、天王寺屋市郎兵衛の水玉堂は、関流の和算書を数多く出版し、その普及を手助けしました。幕末になると江戸の北林堂がやはり関流の和算書を多数刊行します。書籍の普及によって、さらに和算の愛好者は数を増やしていったはずです。

(3) 多様化

私塾ばかりではなく、19世紀になると有力な藩の藩校でも算術を教授する例が散見されるようになります。仙台藩がその筆頭になります。仙台藩藩校養賢堂には算術師範が複数名設置され、40名程の藩士学生に算術を指導していたことが当時の記録からうかがえます。とはいえ藩校教育の場合は、遊びというよりも実践・実学に重点を置いた数学が教えられていたようです。

また、流派の乱立というと、18世紀末に起きた関流と最上流の論争が有名な事件です。最上流は出羽出身の和算家会田安明(1747-1817)が江戸で立ち上げた一流派ですが、そもそも流派立ち上げの発端は、会田が関流への入門を拒絶されたからという、今から見れば取るに足らない理由からでした。会田自身はそのときは初心者ではなく、一通りの数学を知った上での関流入門を考えていたわけで、プライドを傷つけられたというのが流派立ち上げの裏にあった事情のようです。それはともかくとして、関流と最上流の数名の和算家たちは、何点かの数学書を刊行して互いに非難を浴びせ、数学論、感情論を戦わせました。実りのある論争とはいえませんでしたが、当時の趣味集団であった流派意識を見る上では格好の素材であることは間違いありません。

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