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第3章 大正デモクラシー

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c. 政党政治の時代

3-17 ロンドン海軍軍縮条約

ロンドン軍縮会議反対運動 昭和5年4月3日 『図説国民の歴史』15所収
ロンドン軍縮会議反対運動 昭和5年4月3日 『図説国民の歴史』15所収

浜口内閣の政策の二本柱は協調外交と緊縮財政であったが、その両政策の要となっていたのがロンドン海軍軍縮条約の締結であった。条約交渉の焦点は補助艦(巡洋艦、駆逐艦、潜水艦等)の保有量の制限にあったが、浜口内閣は、昭和4(1929)年11月26日に、補助艦総トン数対米7割、大型巡洋艦対米7割、潜水艦現有量78,000トンを要求することを閣議決定した。ただ、日本の主張に対してはアメリカの反対も強く、昭和5(1930)年4月22日に日本政府は大型巡洋艦では譲歩して総トン数約7割の妥協案での条約調印に踏み切った。幣原外相が牧野伸顕内大臣にあてた書翰に添付された書類にはこの間の交渉過程が記されている。

さて、一度は妥協案を受け入れたかに見えた加藤寛治軍令部長が、条約の内容に反対である旨の上奏を試みた。これをきっかけに、軍令部長の反対を押し切って行われた軍縮条約締結が天皇の統帥権を犯すものとして、軍令部、政友会、民間右翼などによる激しい政府攻撃が起こった(統帥権干犯問題)。しかし、元老、重臣、世論の支持を背景に議会を乗り切った浜口内閣は枢密院での審議を押し切り、10月2日に条約の批准に至った。

軍縮条約の審議をした際の枢密院議長であった倉富勇三郎が後年記した手記には統帥権干犯をめぐっての財部海軍大臣と枢密顧問官との応酬が詳細に描かれている。

倫敦会議ニ於ケル我最終態度決定ノ顛末

幣原喜重郎書翰 牧野伸顕宛

乞骸始末

『乞骸始末』
  • 昭和12年5月3日
  • 倉富勇三郎関係文書 34
  • 国立国会図書館
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