第一章 江戸博物誌の歩み

自然へのあついまなざし―18世紀

描かれた動物・植物―江戸時代の博物誌―

1. 将軍徳川吉宗の物産政策

江戸時代に入ると、おびただしい量の薬物や砂糖などが輸入され、その代金として莫大な額の金銀が海外に流出するようになりました。そこで吉宗は、国内で自給が可能な体制を整えようと、いくつかの方策を実行し、それが全国的に動植物への関心を高めました。吉宗の物産政策として以下の4点が挙げられます。

①採薬使の派遣

国内で産出する薬物や有用品の探索と採取を目的として、幕府は各地へ採薬使を派遣し、併せて地元の人々に何が役立つかを教えました。これが、それぞれの地域で、動植物への関心を高めることになりました。

『植村政勝薬草御用書留』

植村政勝著 宝暦4(1754)成 白井光太郎写 明治43(1910)1冊 <特1-2728>

これは資料の冒頭部です。享保5(1720)年から宝暦3(1753:「元年」は誤り)年まで延べ34年間、毎年「百四五十日より百八九十日余」諸国に出た‥‥と採薬行の大要を記しています。次頁からは、個々の出立月日・採薬地・江戸帰着月日の記録が続きます。政勝は吉宗に信頼され、採薬使派遣は30回近くに達し、駒場薬園の園監や江戸城吹上添奉行格も務めました。

『諸州採薬記』(植村政勝諸州採薬記原稿)

植村政勝著 享保14(1729)成 白井光太郎写 明治43(1910)1冊 <特1-659>

享保14(1729)年3~8月に伊賀・大和・紀伊で採薬した際の日誌(転写本)で、この個所は4月9日の項です。神末こうずえ(現在の奈良県宇陀郡の東端)では竹節人参ちくせつにんじんやカタクリを採取して、江戸へ送っています。採薬は動植物の調査とともに、特定品の採取も目的としていました。政勝は採薬ごとに詳しい日誌を残しましたが、転写を含めて、現存するものは稀です。

②全国的な動植物調査

享保元文全国産物調査―享保20~元文3(1735~38)年に行われた調査です。幕府は各藩に対し、産出する動植物の品名を、利用の有無にかかわらず報告させました。

『信濃国諏訪領諏訪郡筑摩郡之内産物絵図帳』

山中三太夫編 写本 1冊 <W373-34>

各藩から産物調査の報告書が提出されたとき、品名だけでは実体がわからない場合は、あらためて図や詳しい説明を求めました。この個所はその一例で、「いさご」が何か不明だったので図を描かせたものです。この図から、「いさご」は、ツリフネソウ(釣船草)の方言と判明します。

(説明文)

(図)

③海外産動植物の調査

漢名で記されている動植物が和産のどの品に当たるか、日本にもある品かない品かなどの疑問を解くために、実物を取り寄せての調査も行われました。

『丹羽正伯物産日記』

丹羽正伯著 写本 1冊 <特1-2086>

吉宗政権は対馬藩を介して朝鮮から薬草などを取り寄せて実体を確かめましたが、この図の黄芩おうごん(コガネヤナギ:日本には産しない)もその一つで、後に江戸城で花が咲き、実をつけました。正伯は幕医で、動植鉱物の調査を担当し、前項の享保元文全国産物調査も正伯の指令によるものです。本資料は丹羽正伯著『九淵遺珠きゅうえんいしゅ』(杏雨書屋・岩瀬文庫蔵)の抄写本です。

④海外産植物の国産化

国内に自生しない薬草や有用植物は、移植を目指しました。朝鮮人参やサトウキビがその例で、前者は十数年かけて大成功をおさめ、後者もやがて実を結びます。

『人参耕作記』

田村藍水著 寛延元(1748)序刊 1冊 <特1-2983>

江戸の博物家田村藍水は、元文2(1737)年に幕府から朝鮮人参の実を与えられて試作します。その成果をまとめたのが本書で、右の「朝鮮人参三椏之図」は、種子を蒔いてから5年目に果実が実った状態を描いています。本書は火災で版木が失われ、伝本は多くはありません。流布しているのはのちの増訂版『朝鮮人参耕作記』です。

2. 生きものへの関心の拡がり

特定のグループを扱う専書(モノグラフ)や養禽書(鳥類飼育書)、異国産動植物の博物誌が登場します。俳人のための図鑑なども刊行されます。

『諸禽万益集』

左馬之助著 享保2(1717)成 写本 3冊のうち巻3 <特1-465>

初期の養禽書でもっとも充実しており、和産の鳥125品の飼育法を詳述します。全3巻のうち、1巻を鳥の猟法に充てているのが特色です。この個所は「網ノ張様、追人ノクバリ様之図」で、多くの網が張りめぐらされており、左頁には「天気伝」として天候との関係、「地形伝」として望ましい地形などが記されています。その他の猟法も20以上を説明しています。

『日東魚譜 巻1-5』

神田玄泉著 元文6(1741)序 写本 5冊のうち冊1 <特7-197>

この個所には「関東ではナマズを見かけなかったが、大洪水後に江戸にも棲むようになった」旨を記しています。ただし、「十四年」は誤記で洪水は享保13(1728)年です。『日東魚譜』は本邦最初の魚譜で、享保4(1719)年の作成ですが、のち3回改訂され、内容がみな異なっています。本書は元文6(1741)年序の最終改訂本で、魚介類338品を図説しています。著者は江戸の町医者ですが、経歴などは不明です。

六鯨之図りくげいのず

著者未詳 米鵞写 弘化4(1847)1軸 <特7-731>

江戸時代には多くの鯨図譜が作られましたが、将軍家綱時代(1651~80)作成のものに由来する図が最良です。本資料はその系統の転写本の一つで、クジラ・イルカ類11品を描いています。この個所はセミクジラの解体図です。江戸時代には動物の解剖図はほとんど描かれませんでしたが、鯨は例外でした。鯨は捕獲・解体して隅々まで利用しましたから、詳しい観察が行われていたのです。

勇魚取絵詞いさなとりえことば

著者未詳 文政12(1829)跋 写本 2帖のうち帖1<特7-651>

江戸時代には全国各地に捕鯨基地があって、沿岸に寄る鯨の漁が盛んでしたが、これは肥前国生月島ひぜんのくにいきつきじまの捕鯨を描いた図説です。日本の捕鯨は網で鯨をからめる独特の漁法でした。この図には、網で自由を失ったクジラをモリで刺す様子が描かれています。鯨は鯨ヒゲや骨まで、余すところなく利用され、捨てる部分は何一つありませんでした。

東莠南畝讖とうゆうなんぼしん

毘留舎那谷びるしゃなや著 享保16(1731)序 写本 3冊のうち巻1<特1-217>

左頁上方の「錦蝶」は、日本特産種ギフチョウの最古、かつ江戸時代でもっとも正確な図です。朱筆は後年に小野蘭山が書き入れたものです。本書は美濃養老の僧侶が描いた動物90品・植物377品のスケッチ集で、この個所のように多数の動植物が入り混じっており、大半の品で特徴をよくつかんでいます。図の年記は享保8(1723)年から寛延元(1748)年に及びます。

草木弄葩抄そうもくろうはしょう上巻』

菊池成胤著 享保20(1735)序刊 1冊 <特1-2485>

見出しは右から「雪もち草、いかり草、葉ぼたん、から松草」で、ハボタン(葉牡丹)の名が初めて現われています。「雪もち草」の文にあるウラシマソウ(浦島草)の名も初出のようです。本書は稀本で、知られざる園芸植物書刊本です。図はありませんが、記述は詳細です。また上巻の草類(209項)だけの出版らしいのですが、当時の園芸品についての好資料といえます。

『百花鳥図』

余 曽三画 写本 2帖のうち帖1 <寄別10-1>

これは「金銭雞」(ハイイロコクジャク:灰色小孔雀)の図です。海南島からインドにかけて分布し、清船が元文元年(1736)に持ち渡った記録があります。本書は清・康煕帝こうきていの命で余曽三が100種の鳥を描いたものです。元文2(1737)年に伝来し、『百鳥図』とも呼ばれて中国産鳥類の図鑑として珍重されましたが、色彩などが不正確な図もあります。伝本が少なく、中国には残存しないといわれます。

『随観写真』

後藤梨春著 宝暦7(1757)序 安政5(1858)写 6冊のうち巻6 <123-29>

右頁「琉球身無貝りゅうきゅうみなしがい」は、熱帯産ヤシガイの類で珍品です。著者後藤梨春は江戸の町医で、晩年には医学教育機関の躋寿館せいじゅかんで都講(教頭)をつとめました。本書は動植物全体を収めた図譜ですが、流布しているのは魚部(288品)と介部(=貝部68品)だけで、本資料もその一つです。左頁は、動植物を好んだ大名の一人、信濃須坂藩主だった堀直格なおただの識語です。

『奇観名話』

清璣せいき著 宝暦8(1758)刊 1冊 <W395-4>

右はキュウカンチョウ(九官鳥)、左はオウム(鸚鵡)です。宝暦8(1758)年夏に大坂の道頓堀でインコ4品やキンケイ(金鷄)など、故高槻藩主永井直行侯の愛禽だった外国産の珍鳥8羽の見世物があり、空前の大当たりとなりました。秋には江戸に廻り、またもや大評判でした。外来の鳥10品を図説した本書は、それに目を付けた出版の一つと思われます。著者は京都の医者です。

『文会録』

戸田旭山編 宝暦10(1760)刊 1冊 <特1-3409>

薬品会やくひんえは、平賀源内の提唱・田村藍水の主催で宝暦7(1757)年に江戸で始まった動植鉱物展示会です。好評を博して、早くも同10年には大坂で、11年には京都でも開かれました。しかも、大坂では出品記録として本書が刊行されました。左頁は、大和国の森野薬園が出品したブッポウソウ(仏法僧)の図と解説ですが、左の「雌」はブッポウソウではなく他種のように思われます。

『琉球産物志』

田村藍水著 明和7(1770)自筆本 5冊のうち巻3 <寄別11-6>

江戸時代には薩摩藩を通して琉球や薩南諸島の産物が流入しましたが、18世紀後半にそれを対象とする著作が現われはじめます。本書もその一つで、720品ほどの植物を収めています。この個所はバナナ(甘蕉)を描いた図としてかなり早いものです。右側に名がみえる坂上さかのうえのぼりは、江戸の博物家・医師田村藍水の別称です。善之は藍水の長男で、同じく医師・博物家です。

唐鳥秘伝からどりひでん百千鳥ももちどり

城西山人著 安永2(1773)刊 2冊のうち下巻 <特1-2303>

刊行された唯一の外国産鳥類飼育書で、この刊本は他に所蔵の報告がありません。この個所は孔雀の飼育法で、成鳥の飼育だけではなく、卵を生ませ雛も育てていたとわかります。この頃までに多数の海外種が飼育されていたらしく、本書の所収品は計65品にも達します。城西山人は、旗本で西丸御書院番だった大久保甚四郎で、浮世絵師鈴木春信の有力な後援者として有名です。

養鼠ヨウソ玉のかけはし』

春帆堂主人述 安永4(1775)刊 2冊のうち下巻 <W395-5>

明和年間(1764~71)に愛玩用鼠の飼育が上方から流行しはじめ、図に示されているように、斑入ふいりや鹿斑などさまざまな変異がすでに出ていました。本書はその鼠飼育書刊本の第一号です。著者は浪華の人、本名は不明です。本書末尾に「大坂鼠売買所」として5名の住所が載せられていますが、そのうちの一人かも知れません。

聚芳図説ジュホウズセツ

著者未詳 安永9(1780)頃成 写本 3冊のうち下巻 <特1-513>

これは1本の木に5種の柑橘類を接木した盆栽で、安永5(1776)年の写生です。「上野宮様ヨリ」「御成 将軍様江御上ヶ」と記すので、大名・宮家などに出入りする江戸の植木屋の著作かと思われます。斑入ふいり草木が約160品も描かれており、18世紀後半にはすでに斑入ふいり植物が流行していたこともわかります。園芸植物図譜の集大成を目指したらしいのですが、未完成に終わったようです。他に伝本は知られていません。

誹諧名知折はいかいなのしおり

谷 素外編・北尾重政画 安永10(1781)刊 2冊のうち上巻 <195-19>

俳句には動植物がいろいろ詠まれるので、俳人のために作られた図鑑です。右頁は「綿の花」と「午時花ゴジカ」の図、左頁は例句の一部です。所収数は全162品と多くはありませんが、描写は的確で、例句も各品ほぼ1つずつ挙げられています。

『[俳諧季寄]これこれ草』

加藤正得著 嘉永6(1853)刊 2冊のうち上巻 <特1-2209>

図のゲゲバナはレンゲです。前項の資料から数十年後の著作で、図だけではなく、方言・形状・花期などを記しています。しかし、草類・農産物計62品に留まり、肝心の俳句を一つも挙げていません。筆者は備中岡田藩の加藤良左衛門正得です。薬効を記しているので医者かもしれません。

『[誹諧季寄]これこれ草・二編』

加藤正得著 嘉永5(1852)序 自筆本 2冊のうち上巻 <244-369>

図示個所に筆者名とナズナ図があります。前項に続く二編の稿本で、61品の図がありますが、刊行されませんでした。これも俳句抜きの俳書です。

万国管闚ばんこくかんき

志筑しづき忠雄ただお著 天明2(1782)序 小野蘭山写 1冊(財団法人東洋文庫蔵)

左頁(↓)の「ロイアールト」は原猿のスローロリス、同頁末の「ダジ」(↓)は「鼉児」でワニの子のことです。それぞれ、安永8(1779)年と同9年に持ち渡ったと記します。本書は、蘭学者志筑忠雄(中野柳圃)が蘭書・漢書を抜粋し、長崎への鳥獣渡来も記録したものです。本資料はその抄録で、小野蘭山の自筆です。

万国管闚

(財団法人東洋文庫蔵)

蚕養図会画本宝能縷えほんたからのいと

勝川春章・北尾重政画 天明6(1786)刊 1冊 <寄別5-6-4-13>

右頁はまゆ集め(勝川春章画)、左頁は種紙への産卵(北尾重政画)です。本書は養蚕錦絵の逸品で、12枚の錦絵によって蚕の飼育から反物が出来上がるまでを示しています。多少趣は異なりますが、数年後に喜多川歌麿の有名な三部作『画本虫撰』『百千鳥』『潮干のつと』が世に出るなど、動植物を扱った色刷木版画の刊行が天明年間(1781~88)の後半以降に相次ぎます。

『蝦夷草木図』

小林源之助原画 寛政4(1792)成 写本 1冊 <亥-215>

蝦夷植物図譜の嚆矢で、寛政4(1792)年の蝦夷地探索における幕臣小林源之助の写生58品を収載します。本資料は幕医栗本丹洲の転写本で、この図はカラフト(サハリン)のツンナイ産ハマナシ(ハマナス)です。墨書は小林の記載、朱筆が丹洲の注記、左上の文はのちに幕医さか丹邱たんきゅうが書き入れたものです。国立国会図書館は、幕医桂川国瑞(甫周)による転写本<寄別11-2>も所蔵しています。

『観文介譜』

堀田正敦まさあつ著 18世紀末頃成 小野蘭山写 1冊(財団法人東洋文庫蔵)

本書は介類(貝類)213品の記事を諸書から集録したものです。上段書き込みのように、『夫木和歌抄ふぼくわかしょう』や『万葉集』をはじめ、さまざまな歌集から和歌を引くことが多いのが特色。本書は幕府の若年寄で博物家でもあった堀田正敦の著作です。正敦は『観文禽譜』『観文獣譜』『堀田禽譜』も残しましたが、この『観文介譜』は唯一の伝本のようです。本資料は、小野蘭山の自筆転写本です。

観文介譜

『北越物産写真』

亀井協従きょうじゅう輯 寛政12(1800)自筆本 2冊のうち坤巻 <W373-35>

「ホウナガ」は現和名ウケクチウグイで、おそらく最古の図です。本種は1960年代に新種と判明されますが、土地の人々は古くから別種と気付いていたのです。著者亀井協従は江戸渋谷宮益町の名主でした。寛政12(1800)年、幕臣金沢瀬兵衛に随行して越後に赴いた際に記録した植物60品・動物5品・石類2品の図説が本書です。

3. 高松藩主松平頼恭の著作

18世紀中頃の大名で博物誌の著作が多いのは、熊本藩主の細川重賢しげかたと、高松藩主の松平頼恭よりたかですが、ここでは後者頼恭の図譜からの転写図譜を3点挙げます。

松平頼恭が編集した図譜は『衆鱗図』『衆禽画譜』『写生画帖』『衆芳画譜』の4点が現存します(香川県歴史博物館保管)が、もっとも有名なのは『衆鱗図』(652品)です。その図は、次に示す栗本丹洲の魚介譜に数多く転写され、それが再転写・再々転写されて広まりました。

国立国会図書館には『写生画帖』の転写本もあります。

『魚譜』

栗本丹洲画 自筆本 2軸のうち軸1 <寄別10-38>

全2巻で128品を収載します。図を示した「カンダイ」はイラで、『衆鱗図』に由来する転写図です。その最大の特徴は、魚の腹鰭2枚を併せて「く」の字型に描く点です。丹洲の魚介譜には、この『衆鱗図』からの転写図が多数含まれており、次の資料もその一例です。

蛸水月烏賊類図巻たこくらげいかるいずかん』(海月蛸烏賊類図巻)

栗本丹洲画 自筆本 1軸 <本別10-20>

ヒクラゲ(火海月)は瀬戸内海や北九州の海に産し、触手の毒が強く、刺されると火傷のように痛むので、この名で呼ばれ、現在も標準和名となっています。この図は『衆鱗図』の忠実な転写です。本書は前項と同じく栗本丹洲の著作で25点を収載しますが、そのうち19点が『衆鱗図』に由来するものです。

『植物写生図帖』

松平頼恭編 写本 2帖のうち帖1 <W991-69>

本資料は頼恭編『写生画帖』の転写本で175品を収めています。①の図は竹、②の図はツツジなどで、そのなかには花弁が細くなったツツジも含まれています。高松藩は原本を長崎に送り、幕臣の漢学者平沢元愷げんがいを介して植物名を清人に問いあわせましたが、その問いと返答も写されています。画譜の赤札が元愷げんがいの質問、その脇に記された漢文が清人の返答です。

植物写生図帖

植物写生図帖:url:https://dl.ndl.go.jp/pid/8942738/1/7

4. 小野蘭山関係資料

小野蘭山は江戸時代屈指の本草家・博物家といわれますが、国立国会図書館は先年、その自筆資料などを御子孫からご寄贈いただきました。それらを中心に、自筆の日記・書簡・講義用覚書・随筆草稿・書幅などを以下に集めました。

『蘭山翁画像』

谷 文晁画 文化6(1809)自筆 1軸 <WA21-29>

小野蘭山は享保14(1729)年に生まれ、松岡玄達に師事し、宝暦3(1753)年に京都で私塾衆芳軒を開きました。やがて名声が高まり、寛政11(1799)年には幕府の要請で江戸に出、文化7(1810)年に82歳で没するまで幕府医学館で教えました。弟子は1,000人といわれ、本草家・博物家に江戸時代で最大の影響を与えました。この絵は没する前年に門人の文晁に描かせたものです。

『小野蘭山寛政七年書簡下書』

小野蘭山自筆 寛政7(1795)1枚 <WA1-10-6>

日付は寛政7(1795)年5月24日。宛先はありませんが、文面から能登の弟子村松標左衛門の可能性が高いと思われます。蘭山が師事した松岡玄達は弟子を採集に連れ出さず、秘説とした事項が多かったのですが、蘭山は実地教育を重視し、秘説はなるべく無くす方針であるなど、玄達と蘭山の違いが伺えます。また、玄達に入門したのは、師の没する5年前だったとの新事実も判明しました。

本草綱目草稿 小野蘭山寛政七年書簡下書

本草綱目草稿 小野蘭山寛政七年書簡下書

本草綱目草稿 小野蘭山寛政七年書簡下書

『誓盟状』

木村蒹葭けんか堂自筆 天明4(1784)1軸 <WB9-9>

大坂の文人で博物家の木村蒹葭堂は、安永8(1779)年以前に小野蘭山に入門していたらしいのですが、この資料は天明4(1784)年3月に内門(特別研究生)を許された時の誓約書です。講義の記録を他人に見せないこと、自分の著作も許しを得ずには出版しないことなど、いろいろと厳しい規制があった様子がわかります。

『本草綱目草稿』

小野蘭山著 自筆 4冊 <WB9-10>

小野蘭山が『本草綱目』の講義に用いたもので、全4冊です。余白部分は朱筆・墨筆の書き込みで埋め尽くされており、また、袋綴じの折り目を切って裏面まで使用しています。この講義稿は安永末(1780)年頃までに作成され、補充・訂正を重ねて没するまで使用したことが、内容の検討からわかります。本資料の構成は非常に複雑です。各冊の構成内容については『参考書誌研究』第64号(2006.3)をご覧ください。

『博物名譜』

小野蘭山著 自筆 3冊のうち冊1(財団法人東洋文庫蔵)

方言集で、前項の『本草綱目草稿』と対になる資料です。これは第1冊(虫・禽・獣の部)で、イロハ順に方言が記してあります。朱筆部分は古語(万葉仮名)と追加項。講義に用いたらしく、享和元(1801)年より前に清書し、以後も追加し続けたようです。

博物名譜

(財団法人東洋文庫蔵)

『本草綱目啓蒙』

小野蘭山述 初版 享和3(1803)~文化2(1805)刊 27冊のうち冊1 <特1-109>

小野蘭山の江戸での『本草綱目』講義を、孫の小野職孝もとたかが記録・編集したものです。単なる解説ではなく、『本草綱目』を軸とした日本の博物誌という方が正確でしょう。これは、その巻頭部です。享和3(1803)年に刊行を始め、文化2(1805)年暮に27冊48巻を配布し終わりましたが、不運にも翌3年3月4日の江戸大火で版木が失われてしまいました。蘭山の没後に職孝が再版しますが、その版木もまた火事で灰と化してしまいます。

『重修本草綱目啓蒙』

小野蘭山述・かけはし南洋校・増訂 天保15(1844)刊 36冊のうち冊33 <118-38>

2度の火災で初版・再版の版木が失われた後、重修版・重訂版の2版が刊行されました。ここに示したのは重修版で、木活字本であることと、増補がかなりあることが特色です。図では左頁2行目の「增」からが増補個所で、文政3(1820)年夏、阿波国那賀郡(現徳島県阿南市辺)に鵜鶘(ペリカン)が飛来しましたが、徳島藩主の命で殺さずに窺天鏡(望遠鏡)で観察したことが記されています。

『衆芳軒随筆』

小野蘭山著 自筆草稿 1冊のうち最初の2丁 <W391-N28>

衆芳軒は小野蘭山の私塾です。見出しの「鶆ノ鳥」はライチョウ(雷鳥)です。訂正があって読みにくいのですが、↓で示した行に「余、嘗テ白立ノ両岳ニ遊シ」とあり、蘭山も白山と立山で採薬したとわかります。京都大火で衆芳軒が焼失した天明8(1788)年、11月10日の執筆です。蘭山の随筆には『水火魚禽考書』と『南楼随筆』もあり、東洋文庫に自筆本が残っています。

衆芳軒随筆

衆芳軒随筆

『小野蘭山公勤日記』

小野蘭山著 自筆 3冊のうち冊1・冊3 <W221-N32>

蘭山は幕府の要請により、寛政11(1799)年3月11日に京都を出立して江戸に向かいましたが、①はその日の日記の個所で、多くの人々に見送られて京都を離れたことが記されています。②は日記の末尾で、文化7(1810)年の正月2日の個所です。「二日 依所労不致登城 諸家年礼皆不相勤」と記されています。蘭山はその月の27日に、82歳で没しました。なお、展示した個所はたまたま両方とも漢文ですが、日記の大半は和文で綴られています。

①[小野蘭山公勤日記]

②[小野蘭山公勤日記]

『小野蘭山書』

『大父之書』小野蘭山自筆 1軸

小野蘭山は文化7(1810)年1月27日に82歳で没しました。「八十二翁蘭山書」とあるので、亡くなった年の年初の書かと思われます。文は「夫済世之道莫大於医 去疾之功莫先於薬」、朱印は「蘭山」です。

『蘭山書』小野蘭山自筆 1軸

「七十四翁蘭山書」と記すので、享和2(1802)年の作成です。文は「方可恃者藥也」。 「高山長水」白印が文頭に、「蘭山」白印、4行文の朱印が文末に捺されています。

『蘭山先生書』小野蘭山自筆 1軸

作成年は不明です。文は「草緑三春雨楓丹一夜霜」。「蘭山居士」朱印と「人中第一愚人」白印を捺しています。白井光太郎によると、「人中第一愚人」印は出来の良いものに蘭山が用いたということです。

大父之書

蘭山書

蘭山先生書

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