第1部 歴史をたどる

本展示会では、江戸時代における日蘭交流から主なテーマを選び、それに関する当館所蔵資料を第2部で紹介している。ここではまず日蘭交流の全体像がつかめるよう、交流の歴史を概観する。

1. 日蘭交流の始まり

(1)リーフデ号の日本漂着

日本とオランダの400年にわたる交流は、慶長5年(1600)に始まる。この年の3月(1600.4)、豊後国臼杵(現大分県臼杵市)の海岸に1隻の外国船が漂着した。これが、日本に到着した最初のオランダ船リーフデ号である。リーフデ号を含む5隻のオランダ船は、1598年6月、東洋を目指しロッテルダムを出港した。船団は南アメリカ南端を回って太平洋に入るコースをとったが、嵐やスペイン・ポルトガル船の襲撃にあい、東洋までたどりついたのはリーフデ号のみであった。少数の生存者の中に、船長クワケルナック、高級船員ヤン・ヨーステン、イギリス人航海士のウィリアム・アダムスらがいた。彼らは、政治の実権を握っていた徳川家康の命で大坂に召し出され、その知識により重用されることになる。ヤン・ヨーステンは朱印状を与えられ貿易に活躍、江戸の居住地はその名をとって「八重洲河岸」と呼ばれるようになった。アダムスは家康に信任され、外交顧問としても活動、与えられた知行地と水先案内の職務により、「三浦按針」と称された。

(2)オランダ人への通商許可、平戸商館の設置

当時日本との交易に携わっていたのは主にポルトガル人であった。家康は彼らに対抗する勢力として、日本との貿易を許可する朱印状をクワケルナックらに与えた。これを受けてオランダ東インド会社の船が慶長14年(1609)九州平戸に到着、オランダ総督マウリッツからの家康への親書と献上品をもたらす。家康は使節を駿府に迎え、書状と通航許可の朱印状を託した。これによりオランダ商館が平戸に設立され、ここに日蘭の貿易が開始された。

当時のオランダは、1568年に新教徒がスペインへの反乱を起こし、1581年に独立を宣言したばかりの新興国であった。スペイン船による貿易に頼れなくなったオランダは、その存立のため積極的に海外に進出した。オランダ東インド会社(Vereenigde Oost-Indische Compagnie, 略称VOC)はいくつかの商社を統合して1602年に設立され、喜望峰以東の貿易独占権や外国との条約締結権など広範な権力行使を政府から認可されていた。ジャワ島のバタビア(現ジャカルタ)に本拠を置き、東インド総督が駐在していた。日本の商館もその指揮下にあった。

(3)台湾事件

日蘭貿易には当初なんら制限はなかったが、元和2年(1616)明船以外の外国船の入港が平戸と長崎に限定され、さらに貿易をめぐる紛争のため一時中断する。

オランダは、スペイン、ポルトガルに対抗し中国の生糸を入手するため、1622年台湾に拠点として商館と要塞(ゼーランディア城)を設けた。現地での貿易独占を目指すオランダ人と日本の商人との間に紛争を生じ、バタビア政庁は台湾に赴任する長官ヌイツに解決にあたらせた。しかし、ヌイツは1628年朱印船船長浜田弥兵衛と争い、浜田は数名のオランダ人を人質として日本に連れ去った。浜田らの訴えにより、オランダとの貿易は全面的に停止され、ヌイツは責任者として日本側に引き渡され、人質と交換に幽閉された(1636年解放)。これにより解決が図られ、寛永10年(1633)貿易が再開される。貿易許可の「御礼」としての商館長の江戸参府は、このとき義務付けられ定例となった。

  • 浜田弥兵衛がヌイツを拘禁する図「万国新話」

    浜田弥兵衛がヌイツを拘禁する図
    「万国新話」

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