画家。父は法衣商。国学・儒学・仏典を修め、歌人太田垣蓮月に学ぶ。明治元(1868)年から各所の神社の宮司を務め、神社復興に尽力。14年以降は京都に戻り、学問と画業に専念し、南画壇の重鎮となった。大正6(1917)年に帝室技芸員、8年に帝国美術院会員。最晩年まで盛んな制作活動を行い、独自の画境を築きあげた。
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