女子英学塾(後の津田塾大学)在学中から青鞜社に参加。大正3(1914)年東京日日新聞記者となる。その後社会主義思想に接近するが、5年恋愛関係のもつれから大杉栄を刺傷して(葉山日蔭茶屋事件)、懲役2年の刑を受ける。出所後は『女人芸術』、『婦人文芸』の創刊に参加、評論活動を行った。戦後昭和22(1947)年民主婦人協会の設立に参加。28年日本社会党(左派)から衆議院議員に当選、1回の落選をはさんで44年まで務め、売春防止法の制定等に尽力した。