長岡藩士の子に生まれ、江戸・備中・長崎に遊学し、慶応3(1867)年家老となる。慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦い後、中立を唱えたが、江戸経由で長岡に戻り奥羽越列藩同盟に参加。5月19日に長岡城が落城したが奪回、しかし再び落城し、負傷して没した。