サンパウロ市に於て発刊する邦字週刊の日伯新聞社長三浦鑿氏 

三浦鑿(1881-1945)は、愛媛県生まれ、新潟県柏崎 中学校嘱託教員、1908年(明治41)12月ブラジル海軍練習艦でブラジルに到着したとされ、ブラジル海軍の柔道教師などを経て、1919年(大正8)日伯新聞社を買収し社主となる。「へなぶり」という独特な文体で反権力・反骨の論陣を張り、在留邦人の間で人気を博した。しかし、その歯に衣着せぬ毒舌・批判は、在留邦人社会のなかで反感も買い、三浦を国外追放にしようとする工作が度々行われた。1939年(昭和14)5月ブラジル当局から日伯新聞が発禁処分を受け、同新聞社は閉鎖され、同年7月三浦自身も国外退去処分を受けた。三浦はヨーロッパを漫遊後、日本に戻るが、憲兵隊により度々拘引された。1945年(昭和20)5月頃にも収監され、終戦後10月10日GHQの人権指令により釈放されたが、獄中で体をこわし26日他界した。評伝として、前山隆著『風狂の記者−ブラジルの新聞人三浦鑿の生涯』御茶の水書房 2002がある。

画像『サンパウロ市に於て発刊する邦字週刊の日伯新聞社長三浦鑿氏 』