元熊本移民会社 井上敬次郎の回想

Reminiscências de Keijirō Inoue, antiga Companhia de Emigração de Kumamoto

Reminiscences of Keijiro Inoue, a former member of the Kumamoto Imin Kaisha (Kumamoto Emigration Company)

井上敬次郎は、1896年(明治29)熊本移民会社を設立しハワイ移民を取り扱い、東京鉄道株式会社専務取締役などを経て、東京市に入り、東京市電気局長、退職後は多摩川水力電気株式会社社長などを歴任。ここでは、雑誌『肥後』に連載された井上の回想録からハワイ移民関係の部分を抜粋した。採録にあたり適宜、改行を加えた。

自叙伝 波乱重畳の七十年(抄)

                  井上敬次郎

 

渡米二年の収穫と布哇移民
 ….二年間の渡米は私にとつて大きな開発を付与したものだ。

 此時に日向[注 日向(ひなた)輝武]と菅原[注 菅原伝]が手を着けたのが移民事業である。日本は人口が多く、殖える方も早いから今後は出来るだけ人を海外へ出して発展の途を講じなければならぬ、といふ所に根拠を置いて国家的見地から移民問題を取上げたわけである。日向は才智に富み英文も巧みであつた。此に着眼して菅原と相談し布哇移民の計画を立てたのである。

 菅原は、始めそうした目的ではなく全く政治的の結論を抱いて布哇へ行つたもので、亡命中の孫逸仙を援けて支那革命のために気を吐かうとした。それともう一つは、アメリカが余りに布哇を圧迫するので、それに対して蹶起する、布哇の志士を援けやうとしたのである。その志士と云ふのは英人と布哇人の混血児で予て菅原には相識の間柄であつた。さて日向と菅原が布哇で移民事業を起すことになつたのであるが当時布哇には官約移民なるものが日本から送られてゐた。之には斯うした経路があつた。

 由来布哇では労働者の不足に苦しみ、明治元年には砂糖工場主が、日本へ手を廻して各地から人を集め百五十人ばかりのものを殆んど瞞すやうにして連れ込んだ事実がある。明治十四年には、布哇のカラカウア王が世界周遊の途次、日本へ立寄られて移民の事を政府に請ひ、井上外相と相談されたこともある。越へて明治十七年、布哇政府は日本駐在のアービン公使に命じて更に移民の斡旋を、井上外相に請求されたので、十年間の約束で移民を送ることになつた。之が官約移民と名づけられたわけである。爾来十年間に謂ゆる官約移民として送られた数が二万九千人と統計は教へて居る。

 そこに日向は目をつけ、間もなく十年の官約期限が切れるその跡を引受けて民間事業としてやろうと考へたのである。この計画はうまく行つて日向、菅原の移民事業は大に成功した。私等も此の事業について相談をかけられた時には大に賛成して関係することになつたのであるが、当時の根本観念としては、誰も利益方面を考へたわけでなく全く移民事業の必要を痛感した結果であるが、実行して見ると意外の利益があがつて来たのである。松岡達三郎も加はつたが、要するに移民事業に於ける私どもの立場は傍系的の関係にあつたのである。

人口問題と海外発展策
 二年数ヶ月を桑港で過して私は明治廿四年の秋、帰朝して懐かしき祖国の姿に接したのであるが、星先生は私より先に帰国して居られた。移民事業の計画を話したら、すぐ賛成して呉れた。陸奥さんが外務大臣に就任したのは二十五年の八月であるが、星先生から移民会社の認可に就て話込んだのであるが、陸奥さんは以前の移民が、ひどい状態にあつたといふことを耳に挟んで居るので「国民を外国へやつて半奴隷の境遇に陥しいれることは同意出来ぬ」と反対されたものだ。そこで星先生は

「移民の境遇が悪いといふことは改害の途を講ずればよいわけで、将来の人口問題とか、海外発展策といふやうな点から考へて見れば兎に角、人を外へ出すことが先決ではないか、立派な契約を結ばせ、尚ほ領事館に命じて平生の監督をさせたら移民状態は心配がなくなるだらう」

と力説したので、陸奥さんも

「然らば良からう」

といふことになり、明治廿七年になると移民会社を認可するやうになつたのである。尤も本当に移民を出したのは、廿八年からであるが、その状態が数年間続いて居るうちに、明治卅一年には布哇がアメリカに合併され、三十三年からは米国の移民法が布哇にも適用されることになつたので、日本からの移民は一時中絶し私等の会社も消滅したわけである。其時までに各会社から布哇に送つた移民の総数は四万人以上になつてゐる。布哇の外アメリカに渡つた移民も頗る多かつたがそれを加へると、私等が事業を止めたころ既に十六万人の移民が海外に出て居たのである。私は移民会社に関係するやうになつてから十何遍か布哇に行つた。

熊本移民その他の会社
 扨て、日本移民の気受は何うかといふに、非常に評判がよく、移民なら日本に限ると歓待されたもので、又布哇は日本移民によつて発展したと云つてよい。支那人は労働には堪へるが、我利の念に強くて面白からず、葡萄牙人にしても独逸人にしても、移民としては、うまく行かなかった。斯ういふ機運に鑑み私は田中賢道、山口熊野、小山雄太郎等と共に熊本移民合資会社を起したのであるが、日向と菅原は広島移民会社を作り、森岡眞は個人で森岡移民会社を経営し倶に共に国民の移民熱を昂揚したものだつた。

 布哇移民については、会社は雇主から移民の渡航費を受取つが、船賃を支払ふと一人につき十円余りの余剰が出て余分の儲けになつた。之が多くの頭数にかかるので、巨額に上つたが、その代り、移民が布哇へ行つてから何か事が起ると世話をしてやらなければならず、必ずしも儲けることばかりを仕事にして居たわけではない。だが世間では一方ばかり見てひどく移民会社を攻撃したものであつた。少々くどくどしくなるが、当時の会社としては移民一人につき五十円位の帰国旅費を積立てねば政府が許さぬことになつてゐたから、移民を布哇へ送ると月々その手続をして二年か三年の間に五十円にしなければならなかつた。

 此の時分布哇に於ける移民の給料は平均一ヶ月十七八弗であつたが、帰国旅費の積立や個々人の貯金とか、郷里の送金など、すべて正金銀行に預けてゐたものである。そこで吾々の仲間で銀行を起し、移民の金を取扱はうといふことになり、出来たのが京浜銀行であるが、之が熊本、広島、森岡の三移民会社に関係して居るもので組織し、本店を東京に置き、明治三十一年の七月、ホノルルに支店を設けて、之等の会社で取扱つた移民の金を預かることにしたのである。

 之は余談であるが、会社時代に、私は山口と相談して南米の方面にも手を拡げやうと考へ自らメキシコに出張して石炭坑を視察したり、メキシコ政庁へ行つて交渉するなど相当に奔走して、その炭坑へ五六百人の労働者を送つたこともあるが、之は結局失敗に終つた。それといふのは、メキシコでは賃銀が一週間二弗か三弗であつたが、アメリカへ入ると倍額になるので自由労働として送つたそれらの移民は皆逃げ出した。それでメキシコへ拡げた事業は、すつかり損失になつたわけである。之を要するに移民事業に関しては、当時各会社に対する、いろいろの攻撃もあつたが、今から思へば日本人の海外発展について相当の貢献はなして居るのである。