榎本武揚の殖民論

As teses de Takeaki Enomoto acerca da colonização

Takeaki Enomoto's colonization doctrine

1891年(明治24)外務大臣に就任した榎本武揚は外務省に移民課を設置した。この記事は、榎本から聞いた話という体裁がとられているが、榎本自身の意見。語句に若干異同はあるが、各紙に同内容の記事が掲載された。採録にあたり句読点、濁点、改行を適宜補った。

移民課設置に関する外務大臣の意見


榎本外務大臣は、夙に殖民論を以て今日の一大急務となし、外務大臣たらざる以前に在りても熱心に之れを主張し、其の実行の策を研究して怠らざりしが、いよいよ外務大臣となるに及び、益々其素志を貫かんとするの念を起し、遂に外務省官房に移民課を置くに至れり。是れ本社の既に報道せし所なり。今ま同大臣が移民課を設くる所以の意見を聞くことを得たれば、特に左に掲載して読者の瀏覧りうらんに供すべし。但だ一応の聞書きに止まり、充分に大臣の意を伝ふるに足たざるものあるべし請ふ之を諒せよ。

 海外殖民の事業は目下内外に対する一大急務なりとす。蓋し外に在ては国民の品位を改良し内に在ては社会の生計を補助するは、此事業を措て他に其比を見ざるが故なり。然るに此事業に対し早く已に異喙を容るる者あるを以て、其理由を事実に徴して左に開陳するに先ち、彼の殖民なる称呼に就き簡単に弁明を下して一般の疑惑を排除せんと欲するなり。

 近頃世間の論者が一たび殖民局新設の風評を聞き、之に反対の論鋒を向けんとする所以は、概ね皆な殖民の字義に拘泥して其意の有る所を解せざるに坐するが如し。蓋し世の所謂殖民なるものは、海外に属地を求むるの意なるを以て、同局新設の挙を評して或は漫に軽躁無謀とする者あり、又は外交上他国の感情を損害して大事を醸成すべしと杞憂する者あるに至れり。然るに元来殖民なる語は、必ずしも人民を他国に移遷し而して後ち其地を挙て之を其本国に隷属せしむるの謂のみには限らずして、海外未開の地方に於て永住の目的を以て開拓殖産に従事する為め移植する者、即ち英語にてはSettled emigrant(定住移民)とも唱ふべきものに此語を適用する事其例少なからず。而して当局者の意も亦之に外ならざるなり。之を要するに殖民なる語は、彼の内国の貧民が外人の資本に依頼して労働の期限を定約し渡航移住する輩即ち Contract emigrant(定約移民)に対して区別したる名称と解釈すべきなり。

 殖民の解釈此の如くなれば、使用上毫も忌憚す然に足らずと雖も、従来の因襲又或は誤解なきを保せざるが故、暫らく定住移民の称を仮りて之に代用し、目下其方法を講究するの万已むを得ざる理由を論ぜん。抑も布哇移民の挙起りて以来、我国民には始て海外出稼の利益を知り、而して国内生計の途は日に益々壅塞するを以て移民の募集に応ぜんとする者四方に起れり。然れども布哇の渡航には規約あり。又其需求に定限あるを以て、彼等は遂に米国桑港を始として英領閣龍比亜[注 コロンビア]の如き凡そ航路の開通せる地方へは渡航麕集せざる事なく、而して此輩の中には無智の賎民市井の無頼少なからずして、固より之に方向を示し之に常務を授くる者なきに由り、三々五々或は童僕役夫となり又は博徒兇漢に変じて流寓漂泊、到る処官民の厭悪を来すの報道は、爾来日に益々頻繁を加ふ。

 然り而して米国政府は近頃移民渡航を制限するの条例を発布せり。盖し其起因する所は下等白人種か亜細亜低格の労働者放逐論に外ならずと雖とも、従来米人が一般に在外下等の支那人を嫌悪せしは彼等が単身独行流寓常なくして、所請恒産恒心なきに出たる者にして、此問題たる一国の経済と社会の風儀に容易ならざる関係あるが故に、独り米国下民のみならず上流の人士も猶ほ放逐論を主張して已まざる者は多年の事実に明徴して知るべきなり。今や在米の我邦人は殆んど此等支那人と同地位に立つの状況なきに非ざるを以て他日一様の排斥を蒙るに至らば、独り彼等自己の不幸に止らずして我全国の汚辱たるべきは論を竢たざるべし。当局者豈に一日も速に之に処するの便法を講ぜずして可ならんや。

 我邦近来人口は年々に繁殖し、而して国内之に供するの産業乏しきは世人の普ねく知る所なり。然るに海外出稼の要地たる対岸の米国は此等貧民の為めに既に其門戸を鎖し、而して布哇も亦程なく二万に垂んとするの移民にて殆んと供給の余地なきが如し。此時に当り、彼等の為めに謀る者は、先づ以て墨斯哥[注 メキシコ]を始め、「ニカラガ」等の中央米洲又は「ブラジル」地方の如きは、盖し移住着手に適当の地たらん歟。抑も此等の地方に着眼する者は、敢て土地広漠居民鮮少の一理のみにあらずして、他日「ニカラガ」の地峡一旦疎通し若くは「テフアンテペク」鉄道竣功するに至らば、太平洋沿岸の貿易は勿論農工百般の事業凡て面目を一新すべきを以なり。

 偖我下民を此等地方に移住せしむるに当り、今日に於て取るべき所の方法は大別二途ありとす。一は定約移民にして、布哇の如く他人の資本に依頼して単に年限を約し服役せしむるか又は定住移民にして外国の一地を購求若くは借用して我資本と労力を注入し以て此等の下民に恒産を授与するに在る者とす。此論点は区域頗る広濶にして一言の能く弁明すべき所に非らずと雖とも、既に前陳の如く亜細亜人種の北米合衆国に於て擯斥せらるるは風俗宗教政略等種々の原因あるべしと雖とも、恒産恒心なきの一項は抑も亦擯斥箇条中の重要部分を占むるに似たり。故に今我人民を墨国等の新天地に移すも、若し之をして恒産恒心なき流寓落魄の労働者たらしめば、是又早晩米国と一様の嫌忌擯斥を蒙る可きや明らかなり。

 既に我布哇移民の如き、両国政府が特別保護の下に於て、十二分に権利特典を享有すべき資格を定めたるものと雖ども、猶ほ外人をして日本人は傭奴人種に外ならずと空想せしむるの嫌なきにあらず。况んや彼の胡人か水草を逐て移転する如く、到る処千百群を為すもの尽く外人の指呼に奔走する者たらしめば、移民事業の拡張は徒らに外人の軽侮心を増進するの資料たらんのみ。又単に之れのみならず、近頃世間の一問題たる在外日本醜業婦人の如きも、畢竟するに是又恒産なきより生ずる所の悪弊に帰せざるを得ず。

 故に設し海外の殖民地に於て女子にも相当の産業を授け以て誘腋勧奨に尽力する者あらば、此等醜業者は仮令ひ一掃に至らざるも漸次減却すべきは疑を容れざるべし。之を要するに殖民即ち定住移民の事業たる前記の如く、外に在ては国民の品位を改良し、内に在ては社会の生計を補助する現今の一大急務にして、則ち移民課の新設万已むを得ざる所以なりとす。

 今夫れ殖民事業は内外に対し如此急務なりと雖ども、其果して能く成効の目的あるや否やの一点に至りては、固より十分に講究すべきは論を俟たざるが故に、茲に其概要を弁ぜん。抑も事業の新異に属する者は、其論理如何に精確なるも、其計画如何に緻密なるも、之が利益を予め確証するの前例なきに於ては、資力ある者は一概に看て以て冒険投機の事業となし、之に反対駁撃を試むるにあらざれば、姑らく袖手傍観するを以て一般の常情なりとす。

 而して我が所謂殖民事業も亦此常情の範囲を免れずして、爾来反対の弁駁を被ること少なからず。就中其一二を挙れば、曰く殖民論者が主張する所の墨斯哥等は、気候炎熱瘴毒人に逼り、雨量も亦太だ少なくして、種芸に通せず、曰く中央及び南部亜米利加若くは、南洋群島の如きも白人種が今日迄放棄したる地方たるに、遺利の収拾すべき者あるべき理なし。縦令ひ之れあるも着手上、葢し損益償はざるの事実なきに非ざるを得んやと。然るに此等の批難に対しては所謂論より証拠なる前例歴々目前にあるを以て、左に之を開陳して論者の迷を解かん。

 抑も布哇移民の事たるや局外者より多少の攻撃を蒙り、曾て世論の一問題たりしにも拘はらず、事跡上に於ては異常の好結果を奏したるは明白なる者にして、即ち其着手以来の状況を回顧すれば、僅々七ヶ年に満たずと雖とも、移民渡航の数は歳々増加、遂に今日に在ては一万五千有余人の多きに達し、而して彼等が爾来労働上所得の金額にして在郷の家族等に寄送の分と及び我政府へ貯存を托する者とを合計すれば、殆んど百三十万弗にして其過半は我邦に輸入せし者なるが故に、一ヶ年間貨幣の山口、広島其他、熊本等の諸県に分送せられたる者は平均十有余万弗の割合たりとす。(素より彼地に食みて)盖し開国以来我邦人が赤手此巨額を海外より輸入したるは独り此眇々たる移民のみにて、豪商大家も企て及ばざる所たりとす。

 夫此の如く鴻益大利の移民事業も、当時に在ては之に反対の論説内外に紛起し、幾度か当局者をして之が着手を躊躇せしめたりき。今其所説を概挙すれば、曰く布哇は熱帯地にして蛮烟瘴霧我邦人の居住すべき所に非ざるなりと、曰く布哇の雇主は多く米人にして黒奴使傭の習慣あるが故に、支那人猶ほ其命に堪へざるより遂に我邦人を懇望するに及びしならん、然らずんば供給無限の支那人を措て、縁故疎遠なる日本入を求むるの理あらんやと。

 此等の諸説は現今墨国殖民の計画を駁するの反対論と全く一轍に出るが如くなりし。然るに布政府は百万懇請して已まず。而して我当局者も物議に動かされず、断然決行して「ホノルル」府に領事を新置し、又之に外交官を兼任せしめして、日布両国間の交誼を厚ふすると同時に我移民の保護を謀らしめたるに、内外の措弁其宜きを得しより、当初多少の葛藤も何時か消滅して彼の移民を求むる年々に増加し、而して我の之に応ずるものは大旱の雲霓も啻ならず。之を中国に募集すれば九州怨み、之を九州に募れば中国怨むの状況あるに至れり。而して其所謂蛮畑瘴霧なるものも、全く一片の想像説に過きずして、其実境に入れば虎列刺[注 コレラ]は勿論、亜細亜特性の悪疫、一として流行なき一点に於ても、移民安生の程度如何を知るに足らん。

 扨又支那人を措て日本人を求めたるは、当時布哇人が米人の感情に化せられたるを第一とし低格の賃銀を第二としたる為めにして、深く怪むに足らざるなり。固より以上の反対説は今日に在りては取るに足らざるの俗論として、一笑に附するの外なきも、当時に於ては甲唱へ乙和し殆んど与論を醸成するの勢ありき。是により之を観れば、今日世人が墨国等に対し懸念の情あるは、豈に往日布国を想像せしと一般の杷憂たらざるを得んや。然らば則ち殖民に有志の徒は、先以て近く布哇の前例に徴し、決して今日区々の物議に拘はらす、益々進んで其計画に従事すべきなり。云々。