「第一回移民渡来十週年」 『伯剌西爾時報』 大正7年6月21日
第一回移民渡来十週年(抄)
●忘れ難たない十年前の六月十八日
▲日章旗を翻へして入港した笠戸丸
船上の本邦移民七百九十三名
▽コレオ、パウリスターノ紙の激賞
▲何も歟も試験的な第一回移民
雨降つて地凝まれる今日の盛況
目 次
一、笠戸丸サントス港着
明治四十年十一月十日サンパウロ州政府と皇国殖民合資会社代表者水野龍との間に珈琲耕地の労働に従事せしむる為め日本移民三千名を三年間に輸入する契約が締結された。
此の契約に基き第一回の契約移民百六十五家族七百八十一名及び自由渡航者十二名合計七百九十三名は[、]上塚周平氏監督の下に東洋汽船株式会社所属船笠戸丸に乗じ[、]今を去る十年、明治四十一年四月二十八日神戸港を解纜し[、]新嘉坡に寄港し印度洋を横断してケープタウンに寄港し五十二日の長航海を無事に終へ六月十八日サントス港に到着した、其の翌十九日特別列車にて午後九時当市移民収容所に来着し
六名の通訳は何れも生れてより初めて八百人の世話をするので
正直正銘の百姓で御座ると看板を背負ふてゐた御百姓は
其の翌々日は人員点検と耕地契約であつたが[、]鈴木貞次郎君の係で新参の五人男は劔なき査公其儘の職務であつたから案外骨が折れず[、]上塚氏より大和や敷島を貰ひ二本三本続けざまに喫ふて移民を睨らむ[、]其の恰好は
一々人員点呼をすると、
自由渡航者
兵庫県(故)鞍谷半三郎同イノ (故)同誠一郎 山形県高桑治兵衛 長野県矢崎節夫 熊本県香山六郎 兵庫県飯田又一 高知県片岡治義 同秀於 同光章の諸氏及び其他二名合計十二名
契約移民
沖縄県 三百二十四人
鹿児島県 百七十二人
福島県 七十七人
宮城県 十人
熊本県 七十八人
東京府 三人
山口県 三十人
愛媛県 二十二人
高知県 十四人
新潟県 九人
広島県 四十二人
合計 七百八十一人
であつた、思ふより早く査公の役目が済むと直ぐ参観者の案内を命ぜられた、当時農商務長官カンデド、ロドリーゲス氏(今の州副統領)を初めとし新聞記者及び耕主連引きも切らず来るので下から二階へ二階より下へ廿日鼠の様に走り廻はる通訳こそ哀れな者[、]腹は北山に赴いても珈琲一杯腹の虫に当てがふ事の出来ない辛さは非常であつた、されど伯国人は新来の我移民に対し総て好感であつたのは嬉しかつた。今当市大新聞の一なるコレオ、パウリスターノに六月二十五日(四十一年)記者ソブラード氏が書いた記事を引出して見よう
▲欧字新聞の激賞
「第一回日本移民を輸送する笠戸丸は去る十八日サントス港に入港せり[。]同船は神戸港を出帆し新嘉坡及びケープタウンの二港に寄港し五十二日の航海を経て無事サントスに到着したるが[、]其の輸送移民総数は七百八十一名にして皇国殖民会社がサンパウロ州政府と契約せる三千名中の初航移民なり。
是等七百八十一名の移民は百六十五家族より成り[、]一家族平均四名半に相当し単独移民は僅かに三十七名に過ぎず、小児及び老人の数も亦甚だ少なく三歳以下八名、三歳以上六歳まで四名、六歳以上十二歳まで四名にして十二歳以上の者七百六十五名あり此等の者は農夫らしき頑丈なる手を有し明かに労働に慣れたるものなることを証示せり。
前記移民会社が勧誘したる契約移民の十二歳以上の者十一名六歳未満の小児一名合計十二名の自由渡航者あり此等の者は何れも旅費を自弁して渡来したるものなり。会社勧誘移民七百八十一名中読書力を有する者五百三十二名ありて総数の六割八歩を示し[、]残余の二百四十九名は無学なりと称するも全く文字を解せざるにあらずして皆多少の読書力を有すれば結局真の文盲者は全数の一割にも達せざるなり。
此等の日本移民は東京、沖縄、愛媛、山口、広島、高知、新潟[、]福島、鹿児島、熊本、宮城、の一府十県より募集せしものにして[、]就中沖縄、鹿児島、福島及び熊本の四県は多数の移民を出せしなり。今移民総数に就きて見るに労働に適せざる者十六名あるも之れ僅かに全数の二歩に当り而かも此の最少なる労働不能者は老人若くは不具者にあらずして成人の後に皆一人前の農民となるべき小児なり、
移民は十九日午後二時上陸し同日サンパウロに到着したるが彼等を輸送せし笠戸丸の船室及び其他諸般の設備を見るに皆克く清潔を保ち居れり、之れに由て汽船会社が日本労働者に対する待遇法の一般を窺ふことを得るなり。されば日本船の三等船室は大西洋を往復する欧洲船の一等船室よりも清潔なりと評する者さへサントスに見受けたり、人或は之を聞きて疑を抱く者あらんも之れ決して皮相の観察にあらざることは左の事実を一読せば容易く首肯することを得べし、
移民は移民収容所に入るに際り秩序整然として列車より下り少しも混雑の模様なく又其の車中を検せしに
移民は男女共洋装にして男子は鳥打帽其他種々の帽子を冠り[、]女子は上衣と袴と連続せる洋服を着し胴締を用ゐ[、]極めて簡単なる婦人帽を被り装飾ある
男女何れも安価なる靴を穿ち且つ靴下を用ゐたり、彼等の中に三個の勲章を佩びたる者一名を見受けしが[、]其の一箇は金製にして日露戦役の勲功に依りて授けられたるものなりと、又真鍮の頭を附けたる竹軸の小旗を携へたる者多数ありしが此の旗は二
移民の着用せる洋服は皆日本の大工塲に於て調製せるものなりといふ、洋服は一般に日本全土に普及せるものの如く而して其の洋服たるや総べて移民が自費を以て購求せしものにして見るさへ心地よき新調服の揃ひなり又婦人は綿製の手袋を用ゐ居れり。
移民は食堂に交代食事をなし約一時間の後各自に定められたる室及び寝台を見るべく食堂を出でたるが驚く可し彼等の去りたる跡には一つの煙草の吸殻も吐唾もなかりしなり[。]若し他国移民なれば忽ちにして其の居所は蹂躙されたる煙草の殻或は吐唾を以て不潔化すべく清と不潔との差異に雲泥も
移民到着の翌日種痘を行ひたるが之れ又規律整粛、少しも臆し若くは忌避する様子なく腕を露して種痘を受けたり斯く一時に多数の種痘をなすに当りても何等騒擾なく沈静の裏に整然として終りしは未だ嘗て聞かざる所なり[。]殊に彼等の多くは既に日本に於て再三種痘を経たるものなり。彼等は喜んで当国の食物を喫し而かも胃膓を犯されたるものなく只感冒に起因する脳神経痛の軽症患者十数名を出せしに過ぎざりしなり。
日本移民は概して頭大に体躯偉なるも脚短かく十四歳前後の日本人は当国の八歳前後の児童の体格にして日本人の身長は当国人の丈け低き者にも及ばざるも往々にして当国人の中脊の者よりも高き者あり、而して特に吾人の注意を惹ける一事は彼等は敢て肥満せざるも頑強なる肉附と強健なる骨格と広き胸廓とを有すること之れなり、斯く言はば人或は驚嘆すべきも之れ決して虚言にあらざるなり。
日本人は男女とも頭髪漆黒にして婦人に於ては殊に其の然るを見る、男子は頭髪を短く刈り込み中央又は一方より分け丁寧に梳り然かも其の襟飾及び厚皮の手と其の対照を失はず。彼等は熱心に我が国語を学ばんとするの意を示し又食堂に於ては一粒の米、一滴の汁をも床上に落せしを認めざる程用意周到にして[、]食堂の床は食後と雖ども依然として清潔を保ち食前と毫も異なる所なし[。]若し夫れ稀に紙片若くは
又夫が妻を信用することは吾人の想像以外にして[、]夫が熱心に葡萄牙語の練習をなすを妨げざらんが為め[、]妻は夫に代はりて日本貨を伯貨に両替をなす[、]其の美徳は人をして羨望に堪えざらしめ、況んや各々十、二十、三十、四十、五十若くは百に垂々とする日本貨幣を携帯し来れるに於てをや。
移民は屡々沐浴するを以て身体甚だ清潔なり、又常に清潔なる衣服を着け歯磨粉、楊枝、舌掻、櫛、剃刀等を所有し居り[、]髯を剃るに石鹸を用ゐずして只水を以て面部を湿すを見たり。日本移民の携帯手荷物は決して少数にあらず[、]約八百の人数にて一千百個を有し其の多くは柳行李又はズツクの行李にして一見労働者の行李とは思はれず[、]我が国の労働者が用ゐるブリキ函、菰包の荷物と比較するときは霄壌の差あり、此等の行李中には歯磨粉、鑵詰、食物調理用醤油、薬草、被服、木枕、其他日用品、防寒用蒲団、大工道具、一二冊の書籍、書簡用箋入函、硯箱、箸、扁平なる小匙等を収め[、]日本服としては僅かに一小児の模様染キモノを認めたるのみなり、手荷物は斯くの如く多数なるにも拘らず関税を課すべきもの皆無にして税関吏は二日間に亘り厳密なる検査を行ひたるも亳も税関規定に違反せしと認むべきものを発見せざりしといふ。又税関吏の語る所に拠るに斯く多数の移民がよく秩序正しく静粛に其の手荷物の検査を受け一人として隠蔽する者なかりしは未だ嘗て見ざる所なりと。
此等移民の清潔なることは既に述べたる如くなれども(移民にして斯く清潔にして而かも規律正しきものは未曾有なり)従順なる事羊群の如くならばサンパウロ州の富源は彼等に依りて遺憾なく開発せられ将来当州の産業は日本人に負ふ所蓋し大なるべし。日本人種は伯国人種と大に異なれども決して伯人に劣れる人種にあらざるなり。余は今茲に日本人に対する観察を記したるに過ぎざれども彼等の活動如何は未だ知るに由なく、敢て論及し能はざれば他日を俟つて更らに報道する所あるべし」と激賞してゐる。
二、耕地行
手荷物の検査は済み耕地契約も済むだので耕地へ出発するばかりとなつた処が物好きな所長フラガ氏は移民に市内を見物させると云ひ出した[。]逃げるに逃げられず困り切つた通訳連は移民に付き添はねばならぬ[。]
独り歩きするさへ笑はれはせぬかと気遣ふ二十男は小さつぱりとはしてゐるが臍緒を切つて以来初めて洋服を着た恰好の悪い御百姓、男の靴を穿いた女、手に入墨のある琉球女、思ひ切つて出した
(一)デユーモン耕地(モヂアナ線)
五十一家族、二百十人
福島県七七人 熊本県七八人
鹿児島県四二人 宮城県一〇人
東京府三人
(二)サンマルテーニヨ耕地(パウリスタ線)
通訳鈴木貞次郎君
二十七家族 百〇一人
鹿児島県百〇一人
(三)ガタバラ耕地(元パウリスタ線)
通訳平野運平君
二十四家族 八十八人
鹿児島県六七人 高知県一二人
新潟県九人
(四)カナーン耕地(モヂアナ線)
通訳嶺昌君
二十四家族 百五十一人
沖縄県百五十一人
(五)フロレスタ耕地(イツアナ線)
通訳大野基尚君
二十四家族 百七十三人
沖縄県百七十三人
(六)ソプラード耕地(ソロカバナ線)
通訳仁平高君
十五家族 四十九人
山口県二八人 愛媛県二一人
と順次耕地へ向け出発した[。]そして職工移民九名(鹿児島県五名、山口県二名、高知県二名)はサンパウロ市に在住することとなつた。これより悲劇か喜劇か第一回移民の耕地に於ける状態を粉飾せずして述べよう。
(イ)デユーモン耕地
余は移民到着前にデユーモン耕地へ視察の為め出張を命ぜられ、同耕地に十五日滞在して珈琲の摘み方、篩の用ゐ方、枝葉を取除けること、俵の枡目をキチンとすることや採収日傭監督法や至極簡単明瞭で小供にも出来る仕事を伯人監督より委曲教示を受け耕地監督一通りの業務を見覚えて帰聖したが[、]第一余をして失望せしめたは珈琲の着果殆んど皆無であつた事である、尤も此の年は一般に不作であつた[。]
殊にデユーモン耕地の五十年、六十年の老木は疲労の色を見せて実がなつてゐない事夥多しく、伊太利人四人家族の一日の採収高は三俵半より四俵であつた。一人一日三俵、三人家族にて九俵を容易に採収し得る筈の移民会社のお題目とは大なる差がある、来るべき第一回の移民は三人家族にて一日九俵を採収し一俵一ミルレース合計九ミルレース(当時の為替相塲にて五円四十銭)を儲け得ると呑み込んで来るに違ひない、さては難問題は必らず之れより
処が三浦氏は案外平気で、馴るれば一日一人三俵位摘むのは何んでもないさと楽観的机上論者であつた、馴れた伊太利人家族でさへ三人家族で三俵半か四俵を摘むが関の山であるに新しい日本移民は未だ珈琲の樹、珈琲の実はどんな物であるか知らない、
理か非か、
移民一同は臨時収容所といふた格の家屋に
余は五十一家族全部を一箇所に住居せしむる為め他国移民を他に移して貰ふことに
家屋が決定すると寝台を作るべく山に木材を伐り湿地に蒲を取り、食料品及び採収用梯子、布、篩、袋、水入等の買入れをなすに三日を費し四日目より愈々労働を開始する運びとなつた、就業時間は午前六時である、然し畑の遠近により起床時間は一定せぬ、遠き処に採収をなすときは四時に起きねばならぬ、
仕事始めの日は威勢よく勢揃ひせよとばかりに皆三時に起き、梯子を舁ぐ男、乳呑児を脊負ふた女、弁当を
日本に於て募集人が三人家族にて一日平均九俵を
所が昔しも今と同じ、耕地に就業契約をなして入耕し更に転耕するは決して容易な事ではない、転耕するには転耕する丈の正しく且つ強い理由がなくてはならぬ、単に思はしくない、イヤだと云ふ丈では正当の理由とならん、況して当耕地は移民が要求する物を惜気もなく貸与して呉れて居るに於てをやである、然し実情を咀嚼してゐる余は何等かの方法を採らねばならなかつた、
そこで一応会社の代理人たる上塚氏の意見を聴き相当の処置をなすべき旨を総代の(故)佐伯国次郎、目黒静、佐藤信次郎、中村直松の四名に告げ[、]余は直ちに上塚氏に打電して打合せの為め来耕を乞ふた。
此の耕地にイヤ気を持つた移民連は又色々なことを云ひ出した、足に虫が這入つた、腹が痛い、風を引いた、頭が重いと云つて仕事に怠り勝ちとなつた、本部ばかりにて毎日三十名内外の急性患者(?)が出たが親切なハツトマンてふ独逸人医は叮寧に診察し薬を呉れてゐた、余は朝六時に畑に移民の仕事を定め八時に病室兼薬局に詰めて病人の通訳をなし十時に再び畑に出掛け午後の六時迄餓えたる痩犬の如く広い畑にお百度を踏んで監督するのであつた、
そして余が病室に患者の病態を医者に通ずる為め畑に在らざる時は移民は大禁制を犯して棒で珈琲の樹を
本部より遠く離れたる広島県四十二人は英人監督の下に労働してゐたけれども英人監督は手に合はぬとて総支配人を通じて余に日々出張を催促する、コロニヤ、アルベルテーナには馬でなければ行けん、而かも四十分は如何に走らせても
福島、熊本、宮城、東京の二「コロニヤ」でさへ余独りで手が廻はり兼ねる程多忙で、到底毎日馬上四十分の往復はして居られん、出張せざれば気儘勝手な英人監督は広島県の人々が食料を請求するも
デービー総支配人は以ての外の不機嫌「日本移民は甚だ不経済である、通訳一名に月給二百ミルレース年俸二コント四百ミルレースを支払ふてゐる、其の上又下監督を置くは断じて許さぬ、コロニヤ、アルベルテーナには立派な監督がゐる、移民は何故に万事監督に
「月俸二百ミルレースを耕地が支払ふのは当然である、見よ、余は今回六耕地に配付せられたる移民中の最大数の家族の通訳である、ソプラード耕地は僅かに十五家族四十九名を入耕せしめたるに過ぎざれども其の通訳は二百ミルレースの月給を受け又ガタパラ耕地は二十四家族八十八名を入耕せしめたるも通訳は同じく月末に於て二百ミルレースを受領するのである、而かも六耕地の情況を綜合するに他耕地の通訳は孰れも好遇を受け、馬具を付けたる馬迄貸与されてゐる、然るに余は如何ん、他耕地に比し二倍より三倍の多数移民を引き受けてゐる、そして甚だ冷遇されてゐる、貴下にして常識と公平なる眼とを有すとせばかかる明白なる事を総支配人たる貴下は了解せざる筈がない、余が正当に要求せんか二倍或は三倍の多数なる人員を操縦する故に二百ミルは愚か四百ミル乃至六百ミルの給料を受くべきである、而かも余は自己の利益の為めに下監督の傭入を要求するのではなく、一つは耕地の利益となり一つは移民の便宜となるからである、然れども貴下が下監督採用を許さざれば詮方なし只貴下に願ふ一事は余をして下監督を採用せしめ、余の俸給を
此の談判は余の勝利となりて耕地は其の翌日より而かも二名の下監督を採用した、本部直属として仏語を多少解する熊本県人佐藤信次郎、コロニヤ、アルベルテーナには北米より転航したる広島県人中村直松を選び両名に日給二ミルレースを給与することになつた、
余は幼少の時よりアングロサクソン人種は嘘を云はぬ、正直の模範は英人にありと教えられてゐたが、見ると聞くとは大なる差があるデユーモン耕地総支配人デービー氏は大の
けれども卑劣な人間は更らに卑劣である、三浦、上塚の両氏が耕地に視察に来たりし時余をコロニヤ、アルベルテーナに出張せしめて両人と面会をなさしめず又神谷忠雄氏が来耕したるときも余の居らざるを計りて移民家屋に或は畑に案内した。余は
二名の下監督は仕事にかなり馴れた、余が居らざるとて業務に
総支配人は余を見ると直ちにコロニヤ、アルベルテーナに出張せよと命じた、余は徐ろに口を開いたのである「貴下はワシントンの桜木の話を知つてゐますか」「知つてゐるとも、ワシントンは正直の典型として英米人の家庭に於て頗る崇拝されてゐる」「ワシントンを崇拝する家庭に生れた貴下は甚だしき
総支配人は黙して一言も発せなかつた、傍に座つたデーリー総監督は「君、何にか気に障つたのか、総支配人に対して用ゆべき言語ではない。静かに考へなければいかん」、「余は今云ひし如く、蓄妾にのみ心を奪はれ職務を
すると平素親切な医者のハツトマン氏は余を
上塚氏は余が辞職したるに依り当時リオ市より来聖中なりし友人宮崎信造君を煩はし移民全部が転耕する運(はこび)に至る迄耕地に滞在して貰ふとて両氏同道して来耕された、又通訳官三浦氏はリオ市に開催せる内国博覧会に於て日本花火打揚げの受負をなすべく又々渡伯した社長の水野龍氏と共にデユーモン耕地の形勢非なるの報に接し鎮撫せんとして来耕された、実地を見た両氏は悲惨だ、転耕させると決定し州政府に交渉せんが為め其の次の日帰聖することとなり余も二氏に随伴してサンパウロに帰へることとなつたので荷物を整へレストランテの勘定を済まさんと娘を呼んだ。「あんた、サンパウロへ行くの、何時又来るの、わたしね、お父さんに話してよ、結婚してもよいつていふたわ」、「莫迦!結婚どころの騒ぎか」
水野[、]三浦の両氏に付随してサンパウロへと出発した余はルスの停車場に藤崎商会の(故)佐藤徳治君及び後藤武夫君の出迎へを受けた、「君、痩せたね、黒くなつたな、随分苦労しただらうね」と後藤君が余の黒く焼け頬骨が現はれた痩せ衰へた顔を見て云ふた、瓢軽な三浦氏は「アハハ加藤君が痩せたのは珈琲の
三浦通訳官は州政府にデユーモン耕地の日本移民を全部転耕せしむべく引揚げの交渉を開始したが総務官長レフエーブレ氏は前例なきとて却々(なかなか)許可せぬ十数回種々の理由を陳述して迫まつたけれども政府は頑として容れぬのであつた、三浦氏は多年外人に接触しゐてよく呼吸を呑み込んでゐた、頑固一天張のレフエーブレも遂に三浦氏に負け「英国人の会社」で脆くも旗を巻きて移民全部引揚を承諾し土地労働局長フエラス氏をデユーモン耕地に急行せしめた、万歳フエラス氏の処置又巧妙にして首を縊ると泣いた移民は借金全部を耕地の損失となし移民は一文をも支払はずして引揚げ来て再び収容所に収容されたのであつた。
転耕を哀願して漸く容れられサンパウロへ逆戻りしたデユーモン耕地の移民は三々伍々に分れて再び耕地に這入つたが中には耕地行を拒み弁天小僧を発揮したる者も可なりあつた、此等の我儘なる移民に自由行動を取らしめた家庭奉公に住み込む若者もあれば市中に留まりて野菜園を経営しかけた者もあり、又熊本県人四家族は子供と荷物とを天秤棒にかけ飲まず食はず徒歩にて三十日以上を費やしリオ市へ赴いた。
これにてデユーモン耕地問題は落着したのである。
(以下 略)