竹村殖民商館

Sociedade Colonizadora Takemura & Cia.

Takemura Colonization Commercial House

有磯逸郎は、ルポルタージュ『日本之下層社会』などで知られるジャーナリスト 横山源之助(1871-1915)の筆名。富豪史の研究者でもある横山による高知の富豪 竹村与右衛門の興味深い紹介。本稿は『横山源之助全集 第7巻 殖民(一)』立花雄一編 法政大学出版局 2005でも読むことができる。

不審議なる竹村商館==外務省伯国移民を助く

                         有磯漁郎


▲倉の中の古金銀、保証金に古金の提出 ▲能登沖の漁船と、マンガン礦山
▲今回は特に一百人の自由渡航者を許す ▲外務省も珍らしく助力せんとす

◎有名なる旧舗が危険な新事業を始む

 濛々漠々として何等の活動だも見なかつた移殖民界に、巨資を擁せる一大事業家が現はれた。土佐の竹村殖民商館が即ち其れである。

 竹村殖民商館!竹村殖民商館の名は極めて新らしい名である。移民業に通じてゐる者でも、おそらく竹村商館の名を知ってゐる者は、たんと有るまい。けれど、高知市木屋橋の木屋といへば、南海有数の巨富で、仮令三井三菱の名を知らない者でも、高知の木屋といへば、土佐人の間には旭日のやうに輝いてゐる。然かも木屋の名は、必らずしも華麗はでな名ではない。菜園場町の同店に出掛けて見るど、色の褪めた紺暖簾がぶら下がつてゐる旧時代の金物屋である。故に店前の光景を目睹せる儘を似て言へば、平ヵ凡々たる僻陬の一商店に過ぎない、いや高知市にも文明風の商店がないでもない、イルミネーシヨンを以て飾られてゐる商店もちよいよい見える。が、高知市第一の巨富を以て唄はれてゐる此の木屋は、瓦斯を引かず、電気も用ゐず、薄暗らき洋燈はぼんやりと商品を照らし、家庭には依然として従来の行燈が用ゐられてゐる。我国に於て最も旧式の商店といへば、此の木屋の如きは蓋し其の最大なるものであらう。而も焉んぞ知らん、旧式を以て言はれてゐる此の木屋は、今度指を海外事業に染め、新智識を集めて移殖民界の一方に崛起したのである。

◎古金を倉の中に埋没す

 菜園場町に金物店を本業とせる此の木屋は、高知市で破格を以て唄はれてゐるのみならず、その主人公竹村与右衛門氏の人物は、更に一層の奇抜である。竹村与右衛門!竹村与右衛門の名は中央実業界では殆んど知る者もあるまいが、海南事業界では一大魔力で、同地の会社銀行は同氏の名を加へて、信用と勢力を張らんとし、集目の中心となつてゐる。けれ共竹村氏は世間並に新会社に加はらず、銀行の如きも、高知銀行と土佐銀行の二ツに若干の預金あるを外にしては、銀行にさへ有り金を預けず、祖先伝来の古金と共に土蔵の奥に仕舞ひ込んでゐるから妙である。故に竹村氏の資産といへば、高知市に散在せる土地家屋のみにても百万円といはれ、事業の投資額等を加へると三百万円以上の巨富なりといはれてゐるがその実竹村家の財産高を知つてゐる者は主人公の竹村氏一人!三百万やら、五百万やら、何人も知つた者はない。

◎保証金を古金で納む

 処が、移民業を創め、地方庁に保証金納入の必要とあれば、世間並の動産を以て納むるを喜ばず、土蔵の奥よりぞろりと古金数十万両を提出し、此の古金に封印し玉へと澄ましたもの!驚いたのは、当該掛員ばかりではない。けれど、竹村氏の日常を知つた者は、此の破天荒の動作に驚かないのである。何時も綿服を纏ふて客に接する竹村与右衛門氏其の人に在つては、地方庁に古金を提出するなどは当り前の事実である。

 此の古風な、世間並外れた、南海の一巨富は、中央の実業家さへ手を着けるに躊躇してゐる移民事業に指を染めたのである。

◎能登沖の漁船と満漉礦山

 読者よ、誤解する勿れ、竹村与右衛門氏の営業又は生活は、世間の資産家と大に顰を異にしてゐるが、世問を離れて、別天地に安住してゐる者でない。彼が新事業に顔を出さないのは酒田の本間家などと相似てゐるが、有利の事業と見れば、大胆に、奇抜に、新事業に肩を入れるのは、丁髷の古川市兵衛氏と能く似てゐる。現に能登沖に漁船を出だし、満淹礦に資本を分つてゐるなどはその一例で、セメント業に関係してゐるなども、なかなか当世風に出来てゐる。保守か、文明か、旧弊か、新進か、端睨すべからざるは竹村与右衛門氏である。――而して此の竹村与右衛門氏は、嚢に東洋殖民会社も蹶き、後には皇国殖民会社が敗れたる伯国移民に手を着け、移民業全般の惰眠を破つた、一大警鐘となつたのである。

◎最近二三年間の移殖民界

 筆を転じて読者と共に最近二三年来の移民業の状勢を見やう。旧臘帝国大学教授等に依つて成立せる社会政策学会大会では移民問題が討究せられた。新聞雑誌の上では、依然として海外移民は問題となつてゐた。而して南米移民の声は例によつて高く、識者の一部には、内外人相合して、日本南米協会が組織せられた。然かも移民業社会に於ける実際の状況如何と見れば濛々漠々として、殆んど何等の活動だも見へなかつたのは笑止にも残念である。尤もその問に日本殖民会社の太洋島オーシスアイランド移民は行はれた。東洋移民会社の比律賓移民も見へた。森岡移民商会及び明治殖民会社の秘露移民も絶えず行はれてゐた。特に皇国殖民会社の伯国第一回移民の如きも、此の沈滞時代に実現されたのであるから、此の三四年来の移民界は無意味とは言はれない。けれど、北米渡航の禁制と布哇移民の挫折よりして、移民業界は全く沈滞に赴き、嘗て三十以上を以て数へられた移民会社も一昨年来三分の一に減じ、然かも残存せるものも徒手無為、営業を続けてゐる会社といったら殆んど一二に過ぎなかった。否、昨年の如きは東洋移民会社の扱ひたる少数の比律賓移民と、森岡移民商会の秘霧ぺる移民とを除けば、殆んど休業同様の状態であった。而してその間に移民界のオーソリチーを以て呼ばれてゐた大陸殖民会社の廃業あり。明治殖民会社の失態あり、皇国殖民会社内部の紛擾あり。さらぬだに実情不明の為に世間の誤解と猜疑とを招きつつあつた移民界は、不景気の声と相応じて世人注目の外に脱線し、此の儘にして経過せば日本の移民事業は一二年の内に全滅すべく見へた。――是れ実に一昨年来移殖民業のいつはりなき状態であつた。

◎皇国殖民会社廃業の後を受け継ぐ

 斯の如く混沌たる間に、その声が絶へなかったのは南米――伯国移民であった。東洋移民会社の如き、支配人神谷忠雄氏を伯国に派し、同移民に活路を求めて移民界に新生面を開かんとした。伯国移民の急先鋒たる皇国殖民会社の如き、必死の勇気を以て第二回の継続に取り掛つたが、時運容易に来らず或は関西事業家と協同せんとして破れ、或は各会社の合併を画して成らず、遂に旧臘十二月二十六日を以て解散するの余儀なきに陥つた。ああ伯国移民を開いたのは皇国殖民会社である。が、先鞭の功を挙げた皇国殖民会社は第二回を続くる能はずして自ら仆れた。伯国移民が希望なきが為か、あらず日本内地の不景気は出資社員をして第二回を続くるの勇気を挫かしめたのである。唯だ伯国移民に半生を抛てる水野龍氏と、最近二三年移民業の為に謀って寝食を安んじなかつた松井淳平氏が、寺田寛氏と相携へ、竹村殖民商館の帷幕に参したのはセメテもの心遣である。

◎外務当局者の方針稍々変ず

 竹村移民商館の崛起と共に、注意を逸すべからざるは、外務当局者の移民政策である。蓋し通商局に移民課長が置かれたのは、斎藤幹氏が最初で、斎藤氏就職前迄は課長といふ厳然とした者はなかつたのである。果然、移民業に対して徐ろに鋒鋩が露はれて来た。満韓集中主義と云ふ大体の政策以外に各方面の実際の見込や成績に注意して稍々専門家らしい処置を採つて来た。或者には厳密となり、或者には寛大となつた明治殖民会社取扱の秘露ぺる移民の如きは、厳密となった一例で、竹村殖民商館の伯国移民の如きは寛大となった一例である。一千三百名の伯国移民を許可せる外に、伯国殖民の為に

◎一百名の自由渡航を許す

が如きは、最も寛大となつた一例であらう。余は独り伯国移民に寛大となつたのを喜ぶのでない、移民事業の深憂であつた政府と営業者と相接近せんとするの傾向が微見へて来たのを、喜ぶ者である。

 兎に角も竹村殖民商館の崛起くつきに依つて、移民業の一角は俄に色めいて来た。而して移民の輸送のみならず、殖民事業に手を分たんとしてゐるのは余輩の最も多とする所である。有り体に言へば、賃銀取を目的とせる出稼移民は、移民業者の営業より言へば、或は利益あるかは知らないが、移民政策より言へば、必らずしも大した利益ある者でない。今日北米本土又は布哇に、日本人は数万を以て数へられてゐるに拘らず、常に白人種の侮蔑を受けてゐるのは、出稼移民の群集で、その土地と風習に同化する殖民の渡航を見なかつた最初の誤謬である。今日伯国に伊太利人百万を以て称せられてゐるにも拘らず、尚ほ伯国の地に伊太利人の勢力現著ならないのは、同じく移民のみ多くして、殖民の渡航が寡いせいであらう。而してリオ、グランデ、スール州又はサンタ、カタリーナ州に独逸人の勢力牢として動かすべからざるやうに為つてゐるのは、此の前に独逸の移民が瀰漫してゐるからである。独逸人に倣ふべし、伊太利人たるべからず、我布哇移民を繰り返へすが如きは以ての外である。竹村殖民商館が、一千三百名珈琲移民の外に、一百名の自由渡航者を加へんとするのは、移民業者としては破天荒の壮挙である。

◎外務省も助力す

 のみならず、竹村殖民商館は珈琲の輸入に手を分たんとしつつあるのは、南米貿易の為に喜ぶべきである。現に旧臘を以て保証金三万円をサンパウロ政府に納付したやうに聞いてゐる。そして南米移民に冷淡なりげに見へた外務省が地方庁に内令を発し、該移民の募集に便宜を与へつつあるのは、余輩の最も愉快とする所である。嘗て官民共同して布哇移民に尽したのは、我移民史の初頁に、金文字を以て刻まれてゐる。今や外務省と竹村殖民商館と相親和し、南米大西洋岸に新移民地を形成せんとするのは、我移民史の中葉に特筆大書すべきであらう。

◎第二回の伯国移民は悉く農民

で、嘗て皇国殖民会社の取扱つた第一回の伯国移民と、今度の竹村商館取扱の伯国移民とは、大に内容を異にして居る。第一回のは純農業者の外に、各種の雑業者が交つてゐたが、今度の伯国移民は家族移民の意味に厳密たる解釈を加ふると共に、純農業移民で、一千三百名の中に一名の雑業者だも加はらない特に募集区域の広汎なることは、前古未曾有で、南海は高知を根拠として、徳島、香川、和歌山、九州では熊本、鹿児島、大分、佐賀、長崎、福岡、それに沖縄、中国では山口、鳥取、広島、岡山。阪神附近では兵庫、滋賀。北国に出てては福井、石川、富山、新潟、東北では福島、山形、宮城[、]東京附近では東京、埼玉、茨城、神奈川、山梨、群馬、東海道筋では三重、愛知、岐阜等、殆んと全国に渡つてゐる。募集区域広ろく、且つ人員の多いのは、今度の伯国移民の如きは稀有である。陽春三月、神戸埠頭を発する一千四百名の伯国移殖民は、二箇月の後に旭旗を翻へしてサントス港頭に着するのは見ゆるやうである。記者は東洋移民会社を初め、我移民業者が、今日を機会として南米移民に一大飛躍を試みんことを切望して止まぬのである。