『流転の跡』 輪湖俊午郎著 1941
梅谷光貞氏と海外移住組合
著者今祖国の地を踏み、氏の墓に詣でて感慨無量、乃旧稿を載録して在りし日を偲ばんと欲す。
目 次
一、伯国に印せる梅谷氏の足跡
昭和二年八月梅谷光貞氏は海外移住組合連合会の初代専務理事として就任、昭和六年二月満期退任。其間移住地建設の任務を帯び、伯国に使ひせること前後二回、即ち第一回は昭和二年十二月十日リオ港に到着、満七ヶ月に亙り主として土地購入に全力を傾注、翌三年七月十四日リオ港出発一時帰国。而して官辺要路並に地方組合其他と折衝、幾多の難題を議了し急遽シベリア経由、昭和四年三月二十三日再び着伯、今回の目的は入植計画の遂行、及びミナス州に於ける州有地契約にして、ともかく其重任を果たし、昭和五年三月三日長駆アルゼンチン及バラガイ両国の視察を終へ、翌月十三日帰伯、同月二十九日サントス港出発帰朝の途に就く。此間に於ける土地買収面積はバストス一万二千アルケール[、]チエテ四万七千アルケールス、アリアンサ四千アルケールス、(以上サンパウロ州)トレス・バーラス一万二千アルケールス(北パラナ州)合計七万五千アルケールス(十八万七千五百町歩)の多きに達した。而して之等の土地買収並に移住地創設に当り、如何に梅谷理事が努力せられたかは左記滞伯中に於ける動静に依つて首肯出来る。
第一回 サンパウロ州パウリス沿線調査
昭和二年十二月廿二日―同月三十日
第二回 サンパウロ州海岸地帯調査
昭和三年一月七日―同月十五日
第三回 サンパウロ州ノロエステ沿線、南部マトグロソ州及ボリビア国視察
同年一月十九日―二月五日
第四回 リオ・デ・ジヤネイロ出張
同年二月二十目―二十七日
第五回 北パラナ州及サンパウロ州ソロカバナ並にアララクワラ両沿線調査
同年三月十日―二十五日
第六回 ミナス州リオ・ドーセ流域踏査
同年四月十四日―五月十五日
第七回 サンパウロ州モヂアナ線視察
同年五月二十三日―二十五日
第八回 州有地契約の為ミナス州首都ベロ・オリゾンテ出張
同年五月二十九日―六月四日
第九回 ミナス州首都ベロ・オリゾンテ出張(再渡伯後)
昭和四年四月九日―二十一日
第十回 バストス並にアリアンサ移住地出張
同年五月二日―二十九日
第十一回 リオ市出張
同年七月三十日―八月六日
第十二回 ミナス州リオ・ドーセ流域再踏査並にミナス州政府と土地五万町歩契約の為其首都へ 出張
同年八月二十四日―十月六日
第十三回 リオ市出張
同年十月十四日―三十一日
第十四回 バストス移住地出張
同年十二月十三同―二十一日
第十五回 チエテ移住地出張
昭和五年一月九日―十七日
第十六回 パラナ州及サンタ・カタリーナ州旅行
昭和五年二月一日―十五日
第十七回 アルゼンチ[ママ]及パラガイ両国視察
昭和五年三月三日―四月十三日
即ち梅谷理事の伯国滞在は前後十八ヶ月、中旅行に費されたる日数通計二百九十一日、其推定距離七万二千基米突、之れに日本との往復二回の里程を合算すれば実に十余万哩に相当する。而かも二回に亙るミナス州リオ・ドーセ流域及其支流サスイ・グランデ踏査の如きは容易に常人の企て難き冒険事であつた。或時は発熱四十度近き身を丸木舟に横へ、又或時は蚊と蚤に攻められて茅屋に夜を明かし、斯くて終日原始林を行く。誠に只事ではなかつたのである。
曾て梅谷理事が全霊を傾倒した前記四移住地は、今恙なく発達の途上にある。然し十有余星霜の昔、払はれし先人の此苦心を知る者果して幾何ぞや。
二、禍せる内務省案
昭和二年内務省は海外移住組合法案の議会通過を見るや、疾風的に各県を慫慂して組合の設立を促がし、これが連合機関として中央に海外移住組合連合会を組織せしめた。而して移住組合の事業地を差し当りブラジルと定め、年々新たに八組合を予算化して全府県に其設置を計り、これ等地方組合に対しては連合会を通じて、土地購入費の貸与其他の助成をなすべしと云ふにあつた。元より移住組合其ものに欠陥のあらうとも思考出来なんだが,其適用実施に際し何分無経験の為と、時の勢の然らしめた点もあり其未熟を顧みずして徒に功を急いだ嫌ひが充分認められた。其計画の内容は流石に内務省人に応はしく、極めて一方的であり恰も日本領土内に於て試みらるべき形態の如き観さへあつた。其結果痛く外務省駐伯官憲の反感を買ひ、折角重任を負ふて万里に使ひした梅谷理事は之が為着伯劈頭より意外な難礁にのりあげねばならなかつた。今内務省案に対する外務省出先官憲の難詰せる要点を掲ぐれば左の如きものであつた。
(イ) 移住組合なるものはブラジル国法規の認むる所にあらず、何を以て経営の主体となすや。
(ロ) 凡そ海外に於ける移住地の経営は容易の業にあらず、然かも其成否は一つに人を得ると否とに存す。各県組合は之に必要なる人事の用意ありや。
(ハ) 内務省案はブラジル国サンパウロ州内に成るべく広大なる土地を購入し、之を各県組合に五千町歩宛分割して、其経営は右地方組合の責任となすと云ふにあるも、凡そ土地は地味地勢交通等決して一様ならず、従て公平なる分割は全く不可能に属す。故に運営の一元化を以てし、連合会に於て直接経営に当るべきなり。即各県組合の所有面積を地理的に区分せず、移住者の渡伯順に従ひ混植入地せしむるを実際的と思考するが如何。
(ニ) 日本直来の移住者集団は、兎角同化の見地より対外的に難問題を惹起し易く、且ブラジルの農業に経験を有せざる結果其成績の容易に挙らざるは従来に徴して明かなり。故に寧ろ各県組合は其移住者を一旦海外興業株式会社扱の珈琲園移民として送り、契約年限終了を待ち入植せしむるを良策と考ふるが如何。
前記の四点に関し満足なる説明なき限り、時の赤松サンパウロ総領事は、此移住地計画案に対し、寧ろ反対であるとの口吻をさへ洩すに至つた。
内務省が他人の縄張りへ来て、やれるなら勝手にやつて見よと云はんばかりの気色さへ窺はれ、明日にも土地購入を決行し速かに入植準備を進めねばならぬ梅谷理事の立場たるや誠に同情に値すべきものであつた。
『自分は今移住地建設の大任を帯びてやつて来てゐるのだ。民族百年の計の前には元より内務省も外務省もない。赤松総領事の云ふことにも理由がある。何んとか此難局を打開したいものだ』と梅谷理事は連日連夜出先官憲との折衝、諒解並に研究に没頭し、ともかく最善と思はるる成案を得たのだが、何合連合会本部案を根底から改変せねばならぬものであつたから、之は帰朝後万難を排して説明諒解を得る事とし、取り敢えず土地購入に全力を傾注する段取りとなつた。梅谷理事の右に関する成案と云ふのは大略左記の如き内容であつた。
(一) ブラジル国法規に準じ、最も安便なる組合を組織登録し、之をして移住組合連合会
のブラジルに於ける移住地経営の代行機関とする事、但し其設立まで梅谷個人の名義を以て臨機土地購入を進むる事。
(二) ブラジルに於ける移住地経営は一括して直接移住組合連合会之に任じ、各県組合の
所属移住者は一切混植となす。
この案は実に各県組合の生命を奪ふにも等しき重大な改変である。何ぜならば移住組合の出来た動機には、過分に各県自体を単位とし又基礎として、海外発展の運動を起こす事が必要だと云ふ意味が含まれてゐたからである。然るに今連合会直接の経営となれば、各県組合は徒に連合会の下廻りを勤むるに過ぎぬ事となり、更に移住者を混交入植せしむれば、地域的に例へば『岡山村』も『香川村』も出来ぬ結果となり、これでは各県として全く興味減殺、熱の冷却と云ふ事情に陥り易い。然し実際問題としては、各県の経済能力から見るも又現場に於ける指導的人材の得難い点其他幾多の情勢より察する時、其好むと好まざるに関はりなく、此各県個々の独自経営案は事実運行不可能である。
前述二項に依つて赤松総領事の詰問せる一、二、三の条件は大体解決されたが、其第四項たる即日本直来移住者の集団は、同化上対外的に難題であり、且伯国の農業に無経験者が直接移住地に入ることは、好成績をもたらし、難きが故に一旦全部契約移民たるべしと云ふ提案に対しては、流石に梅谷理事も反対せざるを得なかつた。何ぜならば移住組合法は海外へ自国民を独立農として送り出す目的を以て生れ出でたもので、本質的に一種の企業移民に属する。同化乃至伯国農業に関する知識経験云々の如きは、其指導方法如何によつて解決せらるべき範囲である。之をしも契約、移民となすことは明かに時運を逆転するものであり移住組合法を根底より覆返すものとして、梅谷理事は断乎認容を拒んだのであつた。
之を要するに、内務省は移住組合法実施に当り、余りに急いだ為、現地外務省出先官憲との連絡を欠き、それに禍せられて梅谷理事は夢想だもせざる苦杯を着伯早々嘗めねばならなかつたのである。
三、土地購入の苦辛
四移住地の土地買収中、梅谷理事の最も頭を悩ましたのはアラサツーバ耕地即現在のチエテ移住地の購入であつた。此土地は総面積四万七千アルケールス、チエテ河口に近く、其右岸に介在し地味豊沃、地勢平坦、近隣にイタプーラ及ウルヴブンガの二大瀑布あり、更にマト・グロソ及ゴヤスの両州に接近する将来性極めて有望な地帯である。昭和三年一月廿六日梅谷理事がボリビア国視察の途次、此森林を一瞥して食指大に動いたが、何分此土地は地権複雑一部には繋争関係さへ纏綿し、然かも第一第二抵当を合し、債権者七名の掌中にあると云ふ甚だ厄介なものであつた。斯る土地は如何に有望なればとて当面の責任を恐るる者の容易に手を染め得ざるは勿論である。然し梅谷理事は此土地に非常な執心があつたのみならす[、]他に之に匹敵する適当の候補地がなかつた為、何としても之を購入すべく決心したのであつた。
此土地はもとイタプーラ要塞地最後の将軍ガヴイヨン・ペイショツトの所有に初り、其後地権は三回移動して当時在生中であつたブラジル人ジヨーナス・デ一・メーロ氏の所有となつてゐた。然し右のジヨーナス氏は欧洲大戦の終了後肉牛の暴落に依つて没落し、遂に此広大なる四万七千アルケールスはブラジル銀行を筆頭に元利合計七千コントスの債務に充当せられねばならなかつた。
一九二四年の頃、一度此土地は英国シンヂケートとの間に商談が纏つた所、不幸其取引直前偶々勃発した伯国革命に禍せられ、計らずも破約の難に遭遇して仕舞つた。後サンパウロ商工銀行が債権者を代表して土地の切売り処分を開始したが、それも失敗に帰し、爾来其儘放任の状態にあつたのである。
一見何んの事もなく思はれる此土地買収もいざとなれば、意外な邪魔が飛び出したり、利害が錯雑して容易にけりのつかぬ場合を生ずる。梅谷理事が此土地に対し調査並に交渉を開始してより、之が売買契約の成立まで、実に半歳の永きに亘つた。今其間の苦汁を略記して移住地史の一端とする。
愈々土地の地味、地勢等の踏査も済んで、本格的に地主及債権者に対し商議の交渉を開始すると、第一に現はれたのは、委任状関係であつた。かねて此土地は債権者側の依頼により一有力伯人が処分することになつて居り、右の仲介者は之により相当の報酬を得られる事と約定がなつてゐたのである。従て此土地ブローカーは梅谷理事が地主及債権者と直接商談を進める事を拒んだのも無理はない。然しかかる仲介者が此取引きに割り込んでゐることは、尠なからず梅谷理事に取つて、土地売買価格の決定上不利な事故、先づ地主を通じ債権者側たる銀行をして、右委任の解約をせしめねばならなんだ。それが漸く片つき、兎も角直接交渉に入る段に漕ぎつけた所、今度は更に厄介な繋争問題にからまる苦情が提起された。と云ふのは当時此アラサツーバ耕地の一部には遺産相続に関する訴訟がつき纏つて居り、原告側より再度銀行へ対し示談和解を申込んで居たが、何分相手は強力な債権者であつた為、一向之に応ずる様子もなく其儘停頓の形となつて居た所、今日本の資本家梅谷が此土地の売買交渉を始めたと云ふことを知るや、原告は好機到れりとばかり、秘かに策動を開始したのであつた。一日原告側の弁護士某が梅谷理事を訪れ『此土地に対しては目下訴訟が提起されてゐる事故、若し貴殿が商談を進めるならば此問題を解決してからにして頂きたい。万一之を不問に附して購入された場合、原告としては移住者の入地を絶対に拒む外ない』と甚だ不穏且脅喝的な陳述をしたのである。
勿論梅谷理事は此土地に附随した右繋争関係の内容も充分承知してゐたので『私は土地と共に訴訟事件をも購入する考へである。依つて右の訴訟解決は其後とするから左様御承知を願ひたい』と一蹴した。示談額が無法でないならば此際後日を慮り一掃してからとも梅谷理事は考へぬ訳ではなかつたが、.茲に困つたことは、此間先方に加担し何にものか為にせんとする有力な日本人が介在してゐたかに見えたことである。移住組合が今後此国に於て幾多の事業を経営するに当り、かかる日本人の為に其都度煩はされることは甚だ遺憾であり、苦がにがしき次第である故、斯くは強硬な態度に出たのであつた。又一面連合会本部との関係もあり何分にも土地購入を急がねばならぬ事情に迫られてゐた為、梅谷理事は徒に時日の空費を恐れ只管地主及債権者に対し、商談を進めんとした。所が第三の問題として土地代の売買価格に就き、容易に進捗を許さなんた。それは洵に虚々実々の腹芸に属し、要するに高く売らう安く買ふと云ふ事に帰着するのであつた。債権者側としては地主の債務総額たる約七千コントスさへ貰へば、それで文句は勿論ないが、地主はこれでは地権譲渡書に署名をするに過ぎぬので、梅谷理事にこれ以上の価格を以て購入して貰ふか、さなくば債務を一部切り捨てて貰ひ、土地売買価格との差額を要望したのも無理からぬ。
前述の如き内情にあつたから、債務額を標準として商談を進めるならば、元より問題はないのであるが、極度に之をこぎらうとする所に梅谷理事の苦心は存したのであつた。又一方地主及債権着たる七名の銀行業者としては、此際かかる好個の買手を失つたならば、四万七千アルケールスと云ふ広大な此土地は容易に処分し得る機会もないと考へらるる所に懸念あつたが、不都合にも、日本人の或る者が『梅谷は此土地を買はずに帰国は出来ない事情にある』と内報した者があつた為、急に債権者側は強硬な態度に変つて仕舞つた。そこで梅谷理事は一と先づ此商談を打ちきり日本への乗船切符を購入し、帰国を発表放送して相手の様子を見る事とした。背水の陣功を奏し、之れと知つて驚いたのは債権着側であり、地主は失望のあまり銀行業者のにえきらぬ胴慾的態度に憤慨して、サンパウロ市を引き上げやうとした。突如此場面へ登場したのがアラウージヨ某と云ふ政界でも名の知られた義侠心に富む一紳士であつた。此人は地主ジョーナス没落前からの旧知で、此話を聞くに及び、地主を励まし同道で梅谷理事を訪れた。曰く『ジヨーナス氏は土地を売りたいと云ひ、貴殿はそれを買ひたいと云ふ。それだのに交渉が纏らないと云ふ馬鹿な話はないと思ふ若しジヨーナス氏が将来此土地の売買を拒んだなら、銀行側はどうする積りなのか。結局競売に附するより外ないが、其結果は債権者側に不利益となる事は解りきつた話である。請合は出来兼ねますが、御希望とあらば私が仲に入つて御話をしてあげませう』『私は近日の船でリオを出発することに確定して居ります。此土地に対して今以て充分其意志はありますが、何分土地代償に就ては当方に於ても先般来債権者側に申入れた程度が最大限の予算で、其間掛引を許さぬ実情にある次第故、貴殿が御取計らひ下さるならば、右御含みの上、更に私の出発に支障を来たさざる様可急的御配慮を願ひたい『委細承知致しました』と云ふ事で別れたが、これがきつかけで談判は急転し、半歳に亘る此難交渉も幸ひ当方の有利に展開し四万七千アルケールスの土地が四千二百コントスを以て手打ちとなり、売買登記を完了する運びとなつたのである。
四、壮図の一翼
日本人のミナス州進出に関しては、田付連合会理事長の曾て駐伯特命全権大使たりし時代より再度其実現を計策せられたが、都度其機を得ずして當時に及んでゐたのであつた。
梅谷理事が此州に我移住地の建設を着眼したのには抑も二つの理由があつた。其一つはブラジルに対する高踏的政策に見地を有してゐた。由来ミナス州はブラジル二十一州中、サンパウロ州に匹敵すべき有力な州であつたが、其中央政権に対する勢力は輓近隣接サンパウロ州の急激なる産業の発達及南リオ・グランデ並にバヰア諸州の勃興に伴ひ、漸く安佚たるを許さざる状態となつた。それ故ミナス州は自州の経済力拡充の為、時に日本農民の移入或は技術家並に資本家の招致等間断なく慫慂する所あつたが、日本政府に其意志なかりし為か一つとして実現を見るに到らなかつた。斯る事情を梅谷理事は能く承知して居たので、此機会に移住組合の力を以てミナス州に酬ひ、兼ねて日本移植民のサンパウロ州集中に依る政治的将来に備へんと決心したのである。
理由の二は、北伯進出を前提とした根拠地の築営にあつて、これは梅谷理事のブラジルに対する日本移植民政策の一翼とも見なすべきものであつた。即ちエスピリト・サント及バヰアの州境に横はる無辺の沃土に一壘を築かば、ここに植ゑつけられた日本民族は軈て必ずや北上するに相違なく、北上してアマゾンに到らば北伯政策の半ばは成ると考へたのである。右に対し他の一翼たる南伯政策はパラナ河流域の広表を南下しつつ南米大陸の中核を侵すにあつた。即チエテの土地買収、バストス、北パラナの移住地建設等皆前前提として選ばれたのである。
甚だ遠大なる右の理想追及の第一着として梅谷理事は、先づ移住地建設の意志をミナス州当局に表明し、或は打診或は折衝すると共に、この運動と併進して自ら州土地局の指示せる官有地リオ・ドーセの流域を踏破することに決した。此調査は前後二回に亘つて行はれ、第一回はエスビリト・サント州ヴイクトリア港より、更に第二回目はミナス州ポンテ・ノノヴア方面よりであつた。即踏査区域はリオ・ドーセの本流を溯つたフイゲーラを中心として其支流サスイ・グランデの上流と、ラウル・ソアーレスよりリオ・ドーセの上流を下つた一帯の原始林である。調査面積推定約五十万町歩。露営に次ぐ露営、果てしなき大森林を或は馬の背に、或は徒歩で強行軍を続けたのであつた。或時の事である。岸に沿ふて丸木舟を上流に進めてゐた所、水面遥かにさしのべた大樹の枝に見事な蘭の花が咲いてゐた。一行がこれに見とれてゐると、不思議や一羽の小鳥が奇声を発しつつ、怪しき羽ばたきと共に次第に件の大樹の根もとに引き寄せられて行くではないか、一行の視線も自然これに従ふと、こはそも如何に、一疋の大蛇が其小鳥を睨みつつ吸ひ寄せてゐるのであつた。正に探検隊挿話の一つに値ひする。
右調査の目的は勿論土地の選定であつて、交通、地味、地勢と如何なる農作物に適するかを研究するにあつた。
サスイ・グランデの両岸は地味地勢共に遺憾なしと思はれたが、此地に移住者を送るとせば、其門戸をヴイクトリア港に求めねばならぬ関係にあり、従てサンパウロ州に本部を有する移住組合としては、其指揮統制に少なからぬ不便あるのみならず、リオ及ペロ・オリゾンテ方面へ輸出すべき農産物は非常な迂廻となるをまぬがれない。又他方リオ・ドーセの上流に土地を選定するとせば門戸はリオ港となり甚だ交通至便なるも、此地帯は何分山嶽重畳として地勢に難点を有する。斯くてその孰れに定むべきかに就き梅谷理事は心を砕き、今一度重ねてリオ・ドーセの上流を詳しく調査せしめた。其結果ラウル・ソアーレス町より一支流を下つてアントニオ・デアスに至る森林地帯に約一万町歩内外とおぼしき平坦地を発見した旨確報を得た。之に力を得て梅谷理事は漸く北部ミナス州に於ける我移住地建設の立案を整へる順序となつたのである。
即サスイ・グランデ一帯の豊沃なる官有地譲渡を条件とし、第一着に右の一万町歩を開拓しようと云ふ案を以て、州政府と正式交渉を開始したのである。
抑もヴイクトリア港よりリオ・ドーセに沿ふて走る鉄道はベルギーの資本に成り、其目的は世界屈指の鉱山たるミナス州のイタビーラに到るもので、当時アントニオ・デアス迄開通して居たが、それより先きは非常な難工事の為未だ完成に到らなかつた。該鉄道全通の暁はリオ・ドーセ及サスイ・グランデ両川に介在する広表は実に将来を確く約束せられたる地帯に相違なく、梅谷理事は茲に一石を投じて日本民族北伯開拓の前提となす計画であつたのである。
前述の用向きを以て梅谷理事は、ミナス州政府を訪問すること前後三回、遂に五万町歩無償譲渡の契約が成立し、州政府の責任に属せし右の土地境界測量を待つて、移住地開設に着手することとなつてゐた。然るに幸か不幸か其翌年伯国に革命勃発し、連邦政府の顚覆と共に一般諸州の政治又混乱を極め、為に州政府はかかる対外諸契約を顧みる暇なきに到つた。一方日本は民政党内閣となり其緊縮政策の余波を受けて、海外事業に対する熱意を欠き、越へて翌昭和六年二月梅谷理事の退任を見るに至り、其中心人物を失つた此計画は、茲に全く中絶の余儀なきに立ち至つた。斯くて壮図の一翼は空しく画餅に帰したが、既に故人となつた梅谷初代専務理事のブラジルに対する遠大な抱負の一端として、永く記憶に値すべき事と信ずる。
五、拓人と忍従
凡そ如何なる事業も之に伴ふ労苦を征服せずしては成し遂げ難いが、別して移住地の創業には絶大な忍従を必要とする。時代は違ふがかの独逸人ブルメナウが南伯サンタ・カタリーナ州に植民地の建設を試みたる時の如き、実に其着手より六年を経て漸く最初の十家族を入地せしめ得たに過ぎぬ。而かも之れが完成に四十年の歳月を費した。移住地の建設と経営はとかく容易なものではない。それは新社会の建設であり、人間の一生を預かる大事業であるからである。
昭和二年八月梅谷光貞氏が海外移住組合連合会の専務理事として就任し、同年十二月中旬着伯、幾多の難関を突破しつつ土地買収に専念したことは、別項記載の通りなるが、内務省の方針は無謀にも昭和三年四月即梅谷理事着伯後半歳を待たずして、各県組合の移住者を渡航せしむることとなつてゐた。
バストス、チエテ、或はアリアンサの接譲地更に北パラナ州トレス・バーラス等合計実に二十万町歩になんなんとする大地積を僅々七ヶ月間に購入したことさへ、ブラジルの事情を知る者よりすれば驚異的な企てであるに拘らず、未だ土地買収の掛引中であり、既購入地の登記はおろか測量にも着手出来兼ねてゐるのに、連合会本部よりは『組合移住者出発の用意整へり、乗船宜しきや』と云ふ電報が頻りに来着するのであつた。かかる軽挙盲動が直に伯国側に響いて、梅谷理事の現地に於ける土地購入に非常な支障を来たしたは勿論である。移住地のことは予算亡者等の考ふる如く金だけで左様に単純に運ぶものではないのである。
本部に於ける当時の既定方針は、各県組合が移住地経営の主体であり.連合会は之が連絡及指導に当る事となつてゐた。従て県組合は亙に先んじて連合会が購入した土地の中、最もよき一区画五千町歩(各県組合の移住地面積)を獲取せんと焦つたに無理はない。既に八組合は其移住地経営主任と称する者を県下より抜擢して待機してゐたし、気の早い組合は若干の移住者家族を梅谷理事の命を待たすして神戸へ送つてゐた。かかる事情故県組合は連合会の怠慢を批難し、色をなして苦情を申入れるので、流石に田付理事長もたまり兼ね、さては『神戸滞在中の県組合移住者を此儘に捨て置かんか、地方組合は混乱に陥り、連合会の信用地に墜つ、依つて今回彼等移住者を乗船せしむるに決せり、到着の上は貴下に於て宜しく御配慮を乞ふ』と云ふ甚だ苦しい飛電が来着したのであつた。
当時は恰もチエテ移住地購入の直前で、梅谷理事は近く一旦帰国の上、詳しく現地の事情を説明すると共に、移住地経営の根本的改変たる連合会の直接経営及各県組合移住者の混植案に対する利害得失の資料を準備中であった。
右の二案に対しては、予想の如く日本に於て強硬なる詰問乃至反対に遭遇したが、梅谷理事の忍従と職を賭し、身を捨てての徹底且熱意ある説明に依り、不承々々承認の外なかつた。越へて翌昭和四年三月急遽シベリア経由再び伯国の人となるや、直にバストス、チエテ両移住地の入植準備を促進し、先づ市街地の建設と共に道路の開設、地区割、之に次で収容所、病院、学校の諸建築等並に産業施設として精米所、瓦及煉瓦工場、製材所等一瀉千里の勢を以て取りかかつた。
かくて第一回の組合移住者の入植を見たのは、昭和四年六月で、実にバストス、チエテ両移住地購入後一ヶ年足らずであつた。
右諸施設中、単に我移住地の為のみならず直にサンパウロ州奥地の開発に甚大なる貢献をなしたものは、チエテの架橋である。橋の長さ百七十米突、鉄筋コンクリートの近代様式になる釣橋にして、総工費約三十万円、此橋の完成は昭和十年六月で、梅谷理事の退任四年後であつたが、其計画は昭和四年、時のサンパエソロ州統領ジユーリオ・プレステス氏と同理事が交渉の結果、架橋費の約半額補助を得たるに初まつたのである。
曾て赤松サンパウロ総領事は日本直来移住者の集団を以て、伯国の風習に遠ざかり且当国の農業に経験なきを理由とし、反対を唱へたるも、之に対し梅谷理事は既にブラジルに旧き植民を混植せしむる事に依て其弊害を防ぎ得たるが、茲に一番厄介を極めたるは県組合の送り来つた所謂任務者なるものへの仕末であつた。
再度前述した通り、元来移住地経営は各県組合が直接之に当る事となつてゐた為、地方組合は既に其責任者を任命してあつたのである。従て之等主任なる者の処分に窮し、已むなく各組合の利害を代表すると云ふ立前から移住者と共に両移住地に送り込んだのであるが、何分ブラジルの事情に通ぜす、汽車の切符一つ買ふ事すら出来ぬ彼等に移住者の指導など思ひも依らぬ事であつた。然し彼等は自県組合入植者に対する面目もあり、次第に連合会の任命したる両移住地経営主任と対立するに至り、移住者を煽動し悪声を放つて混乱に陥れた。これには流石に梅谷理事も困り抜いた様である。後此有害なる任務者制度は廃止せらるるに到つたが彼等は之を恨に持ち、梅谷理事の帰国に先ちて帰国し、日本に於て或はパンフレツト或は報告書に依り移住地及同理事の悪宣伝に勉めた程であつた。
其就任より退任に至る間、一日として梅谷理事には心安き的とてなかつた。然かも間断なき世俗の誹謗の中に身を挺して、まつしぐらに移住地建設の大任を遂行したのである。洵に偉大なる忍従は、己を空しうする事に依つてのみ望み得る。拓人の業亦難いかな。
六 在りし日の梅谷光貞氏
純情、明朗の性格者梅谷理事の半面を知る一端として、ブラジルに残した五六の逸話を綴つて結尾とする。
(一) 梅谷さんの鼾 梅谷さんは鼾の名人であつた。其豪快なる響音は恰もトンネルに入つた汽車に比すべきものである。或的梅谷さんの一行は山中のとある知人の家に宿つた。到着と同的に一行中の赤松総領事及連合会顧問の青柳郁太郎翁が某家の主人に口を寄せて、『オイ、梅谷君と同室は御免を蒙るよ。どんな部屋でもよいから別室にしてくれ玉へ』、『どうしてですか』、『ひどい鼾でネ、とても寝つかれんのだ。毎晩御通夜は叶はんからね』愈々夜となつた。再び青柳翁は主人を招いて『君相済まんが僕等の寝つくまで梅谷君の話相手になつてゐてくれんか。大将が先きに寝ると十米突や二十米突離れた部屋では、とても駄目なんだ』『ハア承知致しました』ソコで梅谷さんの室を訪れて話を初めると、『君、僕はね、今日四百基も走つて大分疲れて居るから、話は明日にしてお先きへ御免を蒙るよ』と正に夜行列車のトンネル入りとなりお蔭で一行今宵も鼻をあかされねばならなかつた。
(二) 梅谷知事一期の失策 或時ブラジルの奥地を旅行した時のこと、汽車の都合で思はぬ駅に一宿を余儀なくせられた。宿と云ふても名ばかり、室は土間で壁落ちて所々に穴があき、寝台の金網は弛み、毛布は色褪せ、其上寝返りを打つと、木がすれ合つてキイキイ音がすると云ふ風景であつた。カンテラを吹き消して、さて寝についたが、今宵は不思議と例のトンネル入りが初らぬ。その中にマツチを擦る音がしてカンテラに火が燈いた。随行者たる相客が息をこらして毛布の端から覗いて見ると、梅谷閣下は達磨の如く寝台に起きあがり、枕をかへして南京虫退治の真最中である。暫くすると『オイ君、僕は少々腹具合が悪くなつて来た。どうも夕食の折の、あの豚の耳のはいつた豆がよくなかつたかと思ふ』『それは困りましたなア、非常にお痛みですか』『いや、それ程でもない、便を催したが君雲隠はどこかね』『さア何処か私も存じませんが、兎に角御案内しませう』そこでカンテラを提げて裏庭へ出て見ると、二、三十米突先きの雑草中にソレらしき小屋が見えた。覗くまでもなく雲隠に相違なかつたが、何分肥満な梅谷閣下には危険であつたので『梅谷さん、これはどうにもなりません、適当にソの辺で如何です』『よからう、もうよい。君さきへ帰つてくれ玉へ』翌日の事である。裏庭で黒坊の小供が騒いで居るから、何かと出て見たら、ゴヤバの樹の枝に白い布片が懸つてゐる。梅谷閣下の猿股とわかつた。何んでも其夜梅谷さんは御用中蚊に攻めたてられ、それを追ひ払ふに一生懸命で、つい忘れて逃げ帰つたのだと云ふ。でも此宿の主人はソレに関はりなく愛想よく見送つてくれた。
(三) 警察署長スリに遭ふ 梅谷さんは曾て知事であり警察署長であつたことを初めに断つて措く。或時のこと、バウル駅を朝の四時に出発した。折しも秋の半ばで其時間はまだ暗かつた。宿から駅へ来て見ると、発車に可なりの時間があり二台の客車中、一台は点燈されてゐたが、手近の一車は暗かつた。宿のボーマは何うした事か梅谷さんの鞄を此暗い方の客車へ運んた。そこで梅谷さんは此客車に入ってから自身の其鞄を探がし、電燈のついてゐた車台に転じ、席を取つたものだが、発車すると間もなくの事であつた。『オイ君、スリに遭つた』と云つて上着の内衣嚢を頻りに改めたが、まさしくない。『沢山はいつてゐたですか』『いや二コントばかりである』『ではこれからの旅費をどう致しますか』『いや旅費には心配はない。僕はいつも旅行の時は万一を慮り常に三ヶ所に分けて持つてゐる。金も惜しいが実はあの財布は僕が會て欧洲漫遊当時用ひた記念の品で、アフリカの奥地まで僕と一緒に旅行した思出深い財布なんだ』『ソレは惜しい事でした。バウル市は三方からの乗替駅で、其雑踏をよい事にして、田舎者相手のスリが横行するのですよ、御注意申上げて置けばよかつたのですが、あなたは曾て東京市の警察署長まで勤めたと聞いて居ましたので、まさかブラジルの無細工なスリにしてやられるとは夢にも考へませんでした』『いや全く不注意であつた。ブラジルにスリがゐやうとは知らなんだ。君確にあの時に相違ない、僕が鞄を探がして椅子の下へ手をやつた時、僕を前後から挟んだ二人の外人があつた。不思議な真似をすると異様に感じはしたが、ソレとは気がつかなかつた。僕は肥満してゐるので、つひ上着の前ボタンをはずしてゐたのが失敗であつた。どうも宿のボーイと此スリは連絡があるらしいぞ』と流石に警察署長らしき眼光を輝かせたが、凡ては後の祭である。
『梅谷さん、一体三ヶ所に財布を置くと云ふ事に油断があるのですよ。私はいつも必ず上着左方の内衣嚢と定めて居り、而して全神経を之に集中する訓練をして居ります。だから眠つてゐる時でも、若し一寸でも之れにさわるものがあれば電光石火眼が覚めます』『大分うまい事を云ふね、よしソレなら以後君に僕の財布をあづけよう』
斯くて旅行は続けられた。或日のこと、車窓に見る高原の風色にも飽き、二人ほ居眠りを初めた。すると夢うつつの中に何物か随員の胸にふれたものがある。其刹那、彼は鋭く其一物を両手に握りしめ、俄破とばかりに跳ね起きた。『アハハハ君の云ふ事も嘘ではないね――』と梅谷警察署長の呵々大笑は続く。
(四) 梅谷閣下猛牛に追はる これはチエテ踏査の一挿話で、或時チエテの名瀑イタプーラを経てパラナ本流に懸るウルププンガの滝を視察したことがある。ここに至る途中にサルチーニヨと称する小滝があり、水流激しく奇岩露出して灌木の枝面白く、誠に捨て難き形勝の地であつた。此川はパラナ大河の分流で、向ひは一つの小島となつてゐる。一行のここヘ着いたのは午前であつたが、今日は此滝で釣をなし大魚を焼いて腹鼓を打つこととした。貪慾な魚共は先を争つて喰ひつく。針金の釣糸は唸つて水面に飛び、魚は力強く糸を引いてアチラに走り、コチラに跳び廻る。立臼の如き梅谷閣下もヂリヂリと水際に引き寄せられ竿は弓の様に曲がる。偖て午後のことであつた。釣りにも飽いた一行がひと休みしてゐると、向ひの島から角笛の音が聞え、千頭に余る牛群が川岸に現はれた。『オイ君、あの牛はこちらへ渡るのかね』『はア、見てゐて御覧なさい、今に泳いで来ますよ』。角笛の音が止むと、ホーホーの掛声と共に水先案内とも覚しき数頭の牛を河中に追ひ込んだ。先陣を承つた彼等は鼻を鳴らして激流を泳ぐ。暫く之を見まもつてゐた大群に、頃やよしと牛追ひが一鞭空を払へば孰れも勇敢にザンブと水に飛び入る。『見事々々』と梅谷閣下は仰せらるる、約一時間余りにして右の牛群は此川を渡り終へたが、最後に残つた一頭の牡牛は何うしたことか、押せどもつけども渡らばこそ。已むなく角に網をかけ丸木舟を前に進めて渡り越したが、今度は岸に着いてから四肢を強くふん張つて水をあがらうとせぬ。
大群は既に前進してゐた。人を見ずして曠野に育つた之等の牛は群を離れると気が狂ふと云ふ。正にそれである。その眼光の気味悪さ。此時梅谷さんとチエテの地主ジヨーナス氏及随員の三人は激流の中に突き出した岩石の半島に腰を下ろして見物してゐた。牛追ひの一人が馬上から此猛牛に注意する様喚いたが、まさかとも思ひ又今更何うしようもないので、其儘不安げに視守つてゐた。
前記半島の一角に小形のガスリン・ポートがあつて、其舟には男装をして赤い首巻を風に靡かせた十八、九歳のパラガイ女が居つて、之も同じく其荒牛を見物して居た。たけり狂つた件の猛牛がスルスルと川岸の砂山に登つたかと思ふと、暫く立止つてこちらを見下ろした。牛と件の小舟との距離四五十米突、赤い首巻が眼に入るや何思ひけん、牛は角をかざして一直線に小山を駆け下つて,其ボートヘ突きかけた。男装の女は悲鳴をあけた。此声に驚いたのか不思議にも猛牛は小舟へ一足の前面に於て、巧に立ち止まりさも意外と云ふ態度で、ふと視線を左側に転ずるやこれだとばかりに頭を下向きにし、尻をあげ、梅谷さん一行目掛けて驀進して来た。ソレはほんの瞬間である。ジヨーナス氏も梅谷閣下も見えぬ。荒れ牛は遥か激流の彼方を泳ぎつつあつた。暫くすると水面に一つの頭が浮んだ。ソレはジヨーナス氏とわかつたが、梅谷閣下の姿が見えぬ。其中に滝の音に交つて梅谷さんの笑声が聞えた。見れば砂山の頂きに梅谷閣下は腰を下ろして居たのであつた。あの瞬間どうして遁れたのであらう。川の向岸に此光景を眺めてゐたブラジル人の曰く『あのゴルヅーショ(肥つた男のこと)は荒れ牛を横手に払ひ、猿《ましら》の如く秒山に駆けあがつた。其敏速さ、あれが日本の柔術と云ふものであらう』と。流石警察署長の忍術、スリ一件の失敗をここに見事挽回したのであつた。
(五) 旅愁 舟は悠々ラプラタの上流パラガイ河を溯る。遥か岸辺に白きはカルサ(白鷺に似たる鳥)の群れが、水草のひと島花を乗せて水に揺ぐ。右は茫漠としてマト・グロソの平原其つくる処を知らず、左を望めば峨々たる山峯ボリビアに連らなる。夕陽落ちて天地暫くは赤く、星閃きを加へて甲板客漸く稀れなり。船は一昼夜にして砦壁の上に立つコルンバ市に到着す。ここより船を変へて右すればマト・グロソ州の首都クヤバに至り、左して支流に入らば即ボリビア国ポルト・ソアーレスに達す。跳めよき此町の眺めよき旅宿に客となり、跳望絶佳の一室に先づ汗を拭く。旅宿は断崖に立ち、コルンバの港を眼下におさむ。可笑しきは此港に二隻の伯国砲艦浮び。数名の軍人これにありて州境の護りをなす。
宿の主人戸を叩いて遠来の客に挨拶を述ぶ。『主人、この辺に日本人は居りますか』『たつた一人茲より五十里程奥に居ります。此程この日本人が、とある牧場主の一人娘と結婚して新婚旅行にコルンバヘ参りました。そして私の宿の丁度此お部屋に一週間も滞在なされました。アントニオと申す二十四五の良い青年で、お娘さんは非常な美人、コルンバの若者が騒いでいやはや』と愛想笑ひを残して出て行つた。此部屋と云ふと新婚夫婦の寝たのは此寝台に相違あるまい。『梅谷さん。何うぞ御ユツクリおやすみ下さい。牧場主の娘のことが気にかかつて眠れませんでしたら、私がかはります。御遠慮なく』と随員は申上げ隣りの室へ引きさがつたが、其夜はいつ迄も例の快よきトンネル入りが聞えなかつた。梅谷さんは官界に人となつただけに、時には無理難題を部下に命ずることもあつたが、元来性格的に自然人であつた。感激性に富み、いつでも赤裸々な人間となることが出来た。仕事の上から気の腐つた時でも、高原の月隈なき良夜などは、詩を吟じ、或は信州で知事時代に覚えたと云ふ木曾踊りなどに、一切を忘れ得る人であつた。ボリビア旅行のふしぶしにも梅谷さんの感情は、我民族の上に、我愛する妻子の上に、ををしくも旅愁は敏感に働いたのである。
(六) 武勇伝一巻 処はリオドーセの上流、時しも秋の末つかた。ミナスの高原限りなく晴れて肥馬空に嘶く。首都ベロ・オリゾンテを朝に発し、夕にポンテ・ノーバに達す。旅宿は恰も急流の左岸に立ち、点燈の光川波に映じ、岩を噛む水音耳朶を打って豪快。翌日午後一行はラウル・ソアーレスに下車す。この町は人家僅に二、三百、木材搬出の駅である。露営数日の用意は整つた。一行は梅谷閣下、州政府測量師、猟師二名、雑役夫二名と随員一人の都合七名であつた。
此地より徒歩する凡そ小半日、山道つきてリオ・ドーセへ注ぐ一支流に至る。この川は幅員三、四十間、水流急ならずして舟をやるによし。丸木舟は悠々として下れども両岸の密林徒に鬱蒼として変化なし。露営の第一夜、月明かにして風涼しきままテントの外に杯を酌んで供をいたわる。偶々猟犬数頭焚火を囲んで眠れるが、突如耳を聳つると見るや、一目散に森の茂みへ駆け入つた。かまびすしき猟犬の泣声に交りて豹の唸り聞ゆ。正に一戦である。数刻にして犬群は息荒く帰つたが、憐れ其中の一匹は鮮血に染んで猟師の前に斃れた。
其翌日である。又しても丸木舟は一行を乗せて悠々と下航する。舟の猟犬共は二列に別れて其鋭き嗅覚を川の両岸に注ぐ。これは水を欲して此川岸に到れる獣類の足嗅をかぐのである。今しも右舷の一隊頻りに鼻を啜つて喉を鳴らすや、ザンブとばかりに水中へ入る。左舷の一隊又之に続き全群先陣を競ふて岸に泳ぎ上る。一とふり体を振つて水滴を払ふや森の奥深く駆け込んだ。犬群の盛に吠え立つる声右に左に聞ゆ。『あれはアンタですよ』と猟師の一人は云ふ。
アンタは其大きさは仔牛程あり、鼻を武器とし此一突はよく豹をも倒す。好んで木の若芽を食し常に群棲す。此犬の鳴き声及び左右に狩り立てる様子に依つて猟師は其獣の何なるかを知る。
『今にあの辺の川へ追ひ込むから舟を岸へつけませう』と役夫に命じた。猟犬の声近づくや野猪の如く舟の横腹を掠めて飛び込んだのは、まさしく一頭の大アンタであつた。ズドンと一発之に目がげたは測量師殿であつたが、『的つちや居らぬ』と猟師は笑つた。猟犬全部大アンタと水中に於て大格闘が初つた。アンタは良く泳ぎよく潜ぐる。犬群漸く疲れてアンタ遠く泳ぐ、乃猟師舟を近づげ櫂もてアンタの頭都を一げきすれば、櫂は折れて飛んだ。此時である。いつの間にか猿股一つになつてゐた梅谷閣下は泡沫を立てて件のアンタと格闘を開始した。『おおブラボーブラボー』と一行は舟ぺりを叩いて様子をうかがう。閣下はアンタと共に流れた。流れ流れて偶々浅瀬に至るや、エイの掛声諸共アンタの後足を捕へて引いた。引いて引いて引きまくつてゐる間に、数人かけ込んで之に綱をかけた。生捕りである。それは三十貫に余る大アンタであつた。若し無事ならば今も尚ほ首都ベロ・オリゾンテの動物園に飼養されてゐる筈である。
(七) 天地悠久 森を行く馬蹄の響心地よく、数匹の猟犬喜々として之に従ふ。梅谷閣下はお馬が好きであつた。取りわけ大きな馬がお好きであつた。短躯肥満、踏台なしには跨がれぬのであつたが、馬上の閣下は容姿端然誠に板についてゐた。チエテの地主ジヨーナス氏は牛馬の中に育つた人、極めて長身痩躯、奇妙なるは馬上の後姿で、左右に垂れた二本の足は馬の足とまごうばかり長かつた。落馬したことがないと云ふが、アレでは落ちやうもない。次は閣下の秘書である。性来彼は馬が嫌ひ出来ることなら馬を曳いて駆つてもソノ方がよいのだが、今日の御供はそれを許さぬ。、三人は轡を前後して粛々と森を行く。密林を覗けば時に蘭の花散点し、大樹の幹に啄木鳥の音聞ゆ。
『私は野が好き山が好し、別して森林を行くのが大好きだ』とジヨーナス氏は云ふ。
『おお、おお、私も同感じや、出来ることなら斯うした美林を千年の後まで残したい』。
と梅谷閣下は仰せらるる。
『私の妻はクリスチヤンで時々こんな事を云ふ。人々は此森林を焼いて罪の種子を蒔く。済まないことや。米を作つて飢え、棉を作つて凍える。勿体ないことや』と、ジヨーナス氏は感嘆した。
『おお、おお、それにも私は同感じや、人々の心は荒れ果てた。せめて其心に斯うした美林を育てたい』と梅谷さんは答へるのであつた。
前方で頻りに猟犬が吠え立てた。近づいて見れば無数の猿群が今しも森の梢を嵐の如く渡つてゐる最中であつた。
今やこの会話の主は二人とも既に逝いてなし。只独り此会話を知る当時の随伴者が此処に住み、此チエテの森を護つて在りし日を思ふ。