「ブラジル開発に実業家と懇談」 『中外商業新報』 昭和3年3月27日 ほか
ブラジル開発に
実業家と懇談
財界巨頭廿七氏を招待して
外相官邸の茶話会
『中外商業新報』昭和3年3月27日
田中外相は南米ブラジル国アマゾン河流域地方における棉花栽培事業及び移植民事業につき、民間実業家に斡旋の労をとるため、廿六日午後三時半から、外相官邸に東西の実業家を招待して茶話会を催した、出席者は
実業家側=渋沢栄一、団琢磨、木村久寿弥太、藤山雷太、大橋新太郎、井上準之助、白仁武、根津嘉一郎、山下亀三郎、結城豊太郎、今井五介、門野重九郎、野崎広太、竹内悌二郎、鈴木恒三郎、末延道成、持田巽、橋爪捨三郎、野村徳七、龍江義信、湯河寛吉、室田義文、堀啓次郎、神野金之助、鎌田勝太郎、 村井保固、加藤晴比古
政府側=田中外相、出淵外務次官、秋田逓信政務次官その他関係官卅七氏
で、先づ田中外相より大正十四年アマゾン流域河口地方のパラ州知事は当時の在伯田付大使に対し、日本人にして同地方の開墾に従事するものには官有地を無償で提供すべしと提議したため、鐘ヶ淵紡績会社の福原八郎氏が、十五年八月調査隊を組織してパラ州に出張し、各方面を探索の結果、約六十五万坪[注 町歩の誤り]の官有地を 発見し、日本資本家において資本と労力と投ずるならば、該土地を無償にて提供すべしとの好意ある提案を受けて帰朝した[。]
外務省としては、この種の国際的企業が、わが民間において企図せらるるのは有意義のことと信じ、この計画の成立を希望して居りました、幸に福原氏は帰朝以来事業計画の大体の目論見を立てて居りますので私はこの計画を御紹介致すため、今日御集まりを願つた次第であります、
なほ外務省としてはこの計画が規模の大小に拘らず、民間の事業として資本家の手によつて具体化さるることを希望して居りますので、政府は利益保障その他財政的援助は避けたいと考へて居ります
と挨拶し、次でこの事業計画に最も早く手を付けた前ブラジル大使田付七太氏より、アマゾン河流域における移殖民事業その他についての紹介があり、更にパラ州へ調査隊長として出張した福原八郎氏は
今日までアマゾン流域の開墾されなかつた原因は、主として同地方にマラリヤ病が多いと伝へられて居る誤解に基くものである、これはマゼラマモに鉄道敷設に際し、多数のマラリヤ病による死人を出したことに基因してゐるが、マラリヤ病は場所の選択さへ適当であれば、充分に防ぎ得る、次は大森林が多いため、伐採焼却等の手数を要し、直ちに開墾が出来なかつたため[、]平野の多い地方のみが開墾されたのによる、またブラジル国民は怠惰なため、奴隷廃止以来開墾に従事しなかづた、気候の関係、労銀の関係も幾分あるが、気候は土地の選択さへよろしければ、日本人の移住に適せぬことはない
と述べ、これに対し実業家を代表して渋沢子爵は
今日まで政府の実業家招待は、多くは実業家に金を出させる相談であった、然るに今日はこれと反対に、ブラジルにおける棉花栽培、移殖民事業といふやうな結構な事業の紹介に預つたことは、喜ばしいことである、この事業は今後相当の研究を要するものと考へるから、私は事業調査のため、委員を挙げて研究を進め度いと思ふ
と述べ委員に
団琢磨、木村久寿弥太、結城豊太郎、野村徳七、根津嘉一郎、白仁武、湯河寛吉、今井五介、堀啓次郎、門野重九郎、橋爪捨三郎、神野金之助
の十二氏を指名し、来会者一同これに賛成して五時半散会した
南米拓殖会社の
創立準備相談
趣旨には何れも賛成だが
株式引受けの態度を保留
『中外商業新報』昭和3年4月10日
南米拓殖会社設立に関し、過般外相官邸において田中首相から懇談を受け、その出席者中より準備委員に選ばれた東西有力実業家は、渋沢子爵の主催により九日午後五時丸の内日本工業クラブに会合した、出席者は渋沢子を始め
団琢磨、木村久寿弥太、湯川寛吉、根津嘉一郎、野村徳七、結城豊太郎、門野重九郎、今井五介、白仁武、村田省蔵、田付七太、神野金之助、橋爪捨三郎、福原八郎、大橋忠一
の諸氏で、渋沢氏から簡単に挨拶のあつた後、南米拓殖会社創立計画について専ら調査を進めて来た鐘ケ淵紡績重役福原八郎氏から詳細なる報告があり、過般田中首相から、国家的植民事業の見地から会社創立援助方依頼もあつたのだから、当夜の出席者も、会社創立の趣旨には何れも賛成の意を表明した、
しかしその会社設立計画には、当夜初めて内容を聴取したものもあつた位だつたので、単に趣旨に賛成しただけで、その株式引受けその他具体的のことについては、何等決定せず、今一応主として鐘紡の福原氏の手許で案を練つた上、改めて第二回準備委員会を招集し[、]資本金並に株式引受け数その他具体案をきめることに申合せ同九時半散会した、
なほさきに福原氏の手許で作成された同社の計画案によると資本金一千万円(半額払込)創立後三ケ年間は株主配当を無配当とし、四年目より年六分、五年目年八分、六年目一割、七年目以後は一割五分を配当し得る計画となつて居るが、当夜出席者の中には、此三年間無配当といふことと、海外移植事業といふ事業そのものにつき、なほ危倶の念を抱けるものが少くなく、進んで株式引受けを躊躇せる模様で、当夜の会合では今一応案を練ることとしたけれど、これは表面の理由でその実際は、この計画についてこれまで熱心になつてゐた武藤鐘紡社長が、真にどの程度まで株式を引受けるか、先づ鐘紡側の態度をはつきりきめた上、他の準備委員が、これに応じ株式を引受けやうとのことになつたとのことである、
右の関係から鐘紡重役の福原、橋爪両氏の内何れかが、直に在阪中の武藤氏を訪ね、当夜の経過を詳細報告し、鐘紡側の意向がきまり次第、渋沢子に意を伝へ、その上で第二回準催委員会を開くことにしたのである、従つて当夜の会合結果では会社創立について多少の難色があつたともいはれると共に、会社が設立されるにしても、その規模は当初の計画案よりも、幾分縮小されることとなるかも知れないと伝へらる
南米拓殖会
創立の目鼻つく
資本金千万円四分の一払込とし
鐘紡が五万株引受け
『中外商業新報』昭和3年4月20日
田中首相からの勧説に係る南米拓殖会社創立に関する第二回準備委員会は十九日正午日本工業クラブで開催、渋沢子外各委員出席、既報の通り第一回会合において主唱者である鍾紡側が、同社株式に対しどの程度の引受けをなすか、鐘紡側の態度を聞いた上で、きめることとなつてをり、この程鐘紡側の意向を渋沢子の手許まで報告があつたので、それに基いて会社資本金、株式引受けその他の条件を協議した、
その結果、鐘紡側では、同事業が国家的重大使命を有するもので、真の国際的事業であるから、資本金も当初の計画通り一千万円程度としたいとの希望を有し、株式は総株数二十万株の内、鐘紡会社自身で五万株、また鐘紡側重役で一千株づつ一万四千株、都合六万四千株を引受け、残り十三万四千株中、各委員が一千株づつ、また過般外相官邸に招かれた東西実業家も一千株づつ引受けて貰ふこと並に三井、三菱、安田、大倉、住友、古河の各財閥には特に多く引受け方を依頼することになり、大体諒解を得た、
それで同社は当初の計画案通り資本金一千万円とするが、その第一回払込は最初の半額五百万円払込みを四分の一の二百五十万円払込みとしてやや規模を縮小し、また第二回払込みは会社創立後第三年目に一株十二円五十銭を徴収するが、それ以上の払込みは、事業の成績を見た上、確実性がついたならば徴収することの条件をつけ、また一部公募を行ふこととした、そして当日のところ総株数二十万株の内鐘紡側の持株を入れて約十二三万株は、ほぼ引受け内諾を得たので、会社設立の見込みが立つに至つた訳である、
なほ鐘紡会社では前記の通り同株式五万株を引受け内諾を与へたので、至急臨時総会を招集し株主の承認を求めるはずで、大体来月上旬総会を開く予定であると