皇太子殿下・美智子妃殿下の初めてのブラジル訪問(邦字紙記事)

Primeira visita ao Brasil de Sua Alteza Imperial, o Príncipe-Herdeiro, e a Princesa Michiko (artigo publicado em jornal de língua japonesa)

First visit of the Crown Prince and the Crown Princess Michiko to Brazil

コロニアの歓迎最高潮
バンザイのあらし
  泣きくずれる老移民

『パウリスタ新聞』 1967年5月26日

二十五日午前十時五分、パカエンブー大スタジアムの正面玄関にきずかれた黒山の人だかりが二台のオープンカーで真っ二つに割れた。予定より十五分遅れて両殿下のご到着である。先頭に立つ黒いボディの車には黒のダブルに身をつつまれた皇太子さま。後に続く白いボディの車には、ふじもようにりんずをあしらつた着物の美智子さま。八万人の日系人は思わず総立ちとなり、万雷の拍手がこだまする。二台のオープンカーは右回りに競技場を半周、特別バランケの近くまですすんだ。両陛下が着席され、君が代の大合唱に移るころ、場内の雰囲気は最高潮。歓迎会のあいさつは、宮坂文協会長によつてはじめられ、ソドレー知事のあと、皇太子殿下がお立ちになり、コロニアに感謝とはげましの言葉を贈られた[。]飛びちる風船の合間を抜けて、万才の声が秋晴れの空に消えて行った。

 パカエンブー・スタジアムの大歓迎会には、ほほえみ、緊張、むせび泣きの場面が交錯した。この三つの場面をはっきり描きわけたところは、高齢者、帯勲者が居並ぶ席だった。高齢者の席と帯勲章者の席は、より両陛下のバランケに近いようにしつらえられたが、その間にはかなりの距離を成している。しかし、ほほえみ、緊張、むせび泣きの波は、まるで申し合わせたかのように、同時にしかも一致した巾でつたわった。皇太子さま、美智子さまに寄せる想いが共通しているのだ。

 スタジアムの右側の奥まったところにある高齢者の席。ブラジルで過ごした長い年月の間に髪の毛一本一本がもうすっかり白くなり、顔一杯を深いシワで刻んだおばあさんが坐わっている。おばあさんを支えるように家族の姿も目にうつる。両殿下が白、黒二台のオープンカーで反対側の場内にお姿をあらわした時、家族の者より真っ先きに曲がった腰を伸ばし、目を細めた。その瞬間、おばあさんの顔は自然にほころび、刻まれたシワが一層深くなった。ブラジルへ移り来てすでに四、五十年。つれそって来た夫ももうこの世にはいない。一刻も忘れたことのなかった日本にあらためて強い郷愁がわき”この晴れの日をせめて亡き夫とともに迎えたかった” 八万人の群衆の中に埋まりながらおばあさんはそう願っているようであった。君が代に静かに涙を流し皇太子殿下のお言葉が聞えた時、荒く節くれだったその手はいつの間にか胸の近くで固く結ばれていた。

 勲章を胸に

 音楽堂前の特設バランケに近いところに勲章受章者の席はあった。日露戦争、支那事変の勇士たちが多い。両殿下のオープンカーが競技場を半周して近寄られた時、ほとんどの受章者が突然かかった号令で立上がり、いっせいに最敬礼した。あまりにも急な挙動に、囲わりが面くらったが、その中に不自然さは感じられない。勲章と殿下、この固く結びつく関係からどうしてもこらえられなかった衝動を、疑う者はいないのだ。勲章者の席にも、君が代が合唱され、殿下のお言葉が聞こえると同時に、強い反応があらわれた。あちらこちらに目頭を押さえる者。長い苦しい移民の生活でもめったに出なかった涙がとめどもなく流れ落ちるしのび泣きが前方の席から後方の席につたわる。泣くまいとこらえるのだが、涙がつぎからつぎにこみ上げてどうすることもできない。

 歓迎会がとどこおりなく終わり、”さくらさくら”の合唱に送られ、皇太子さま、美智子さまが退場される時が来た。大スタジアムの八万人がふたたび総立ちになった。両殿下のお姿が正面玄関向けて次第に遠くなられるにつれて、高齢者の席、帯勲者の席には、また申し合わせたかのように、淋しそうな空気が流れた[。]しかし今日のこの”感激”をいつまでも胸に抱きしめて、あすへの希望に生きるのだ――と新たな感慨に一人一人の目が輝いていた。

 

社説
コロニアこぞる歓呼

『パウリスタ新聞』 1967年5月26日

 皇太子ご夫妻を迎えたサンパウロは、たいへんなにぎわいとさわぎとなった。むろん、心からこの日の来るのを待った日系コロニアの人出が中心だが、コンゴニアス空港から宿舎オットン・パラセ・ホテルまでの沿道の人出は無慮三十万といわれるから、日系以外のブラジル人も、ひと目 “日出ずる国” からのプリンシペとプリンセーザの姿を見たいと思ったからにちがいない。また日ごろ日系人と親しいブラジル人なら、情もうつろうというものである。

 故国のことを一刻も忘れぬ一世旧移民の年配者はもちろん、二世三世の日系市民からその仲間のブラジル人まで、ご夫妻をお出迎えして歓呼の声をあげたのである。感激のあまりむせび泣く老母、お優しく美しい美智子さまに、思わず手を差し出す二、三世の子供たち。ご夫妻は、この歓迎の人たちにいちいちにこやかな会釈をかえされたようだが、海外へお渡りになり、これほど日本人の顔をご覧なってに[ママ]むろんご承知の上とはいえおそらくびっくりされたに違いない。と同時に、日系コロニアがこれほどまでにこの国で根強く生活していることを目の当りにされて、いまさらながら心強く頼もしくも感じられたことは疑がいをいれない。

 サンパウロ入りの初日からの一時間余の遅延で、皇太子ご夫妻の日程は狂い放し、自然強行スケジュールの連続となったが第二日の圧巻パカエンブーの日系人歓迎大会は、ラジオ放送は六万五千の会衆と報じたものの、おそらく入場実数ははるかにそれを上まわったとみられる。コロニア未曾有の式典は、まずブラジル国歌つづいて君が代のコロニアからの二千に上る大合唱団の一大斉唱に開けた。次いで宮坂歓迎委員長、州議会議長メッセージ代読、フアリア・リマ市長、ソドレー州知事のあいさつその日伯両語訳から、皇太子のお言葉とプログラムは並んだ。以上のあいさつは、いずれも日伯両語に反訳されたが、それには西功[、]森本州議、サンターナ日語教師、小笹市議、平田進連議らが、それぞれ通訳の任に当ったが、各あいさつの言葉は、簡素で力強いものがあり、聴くものに深い感銘をよび起こすものがあった。特に冒頭の宮坂文協会長は、コロニア代表として語りゆくうち、終りには余りの感動に思わず嗚咽にむせぶ感激シーンを演じ、非日系で唯一の日本語を流暢に述べるサンターナ先生には、皇太子ご夫妻も興味深げに聴き入られたようである。

 終って合唱団一同の日本の調べ “さくらさくら” の大コーラスが州警兵隊の軽快なバンドにのって流がれ、数万の風船が澄み切った朝空に舞い上げられ、笠戸丸以前のコロニア神話時代の大長老後藤武夫氏の音頭で、皇太子ご夫妻の万歳三唱で幕を閉じた。大会は終始きわめてスムースに運ばれ、歓迎委員会の演出効果も全ては満点の出来ばえだったといえよう。あらためて、その労をねぎらうものだが、このすばらしい盛大さも、コロニア六十万の故国日本にまたそれを代表された皇太子ご夫妻に対する熱意のたまものだということを忘れるべきではあるまい。ソドレー州知事、ファリア市長などのあいさつのうちにも、日本を讃える言葉と共にコロニアのこの国に対する貢献と、日系コロニアに向けるあたたかい思いやりが、切々と述べられていたのである。

 コロニアのわれわれはこの感激と幸福を心にかみしめると共にこの国のため、さらには故国日本の名のため心底深く期するところがなければなるまい。