辻小太郎「ヴァルガス大統領の想い出」 『パンアマゾニア 汎アマゾニア日伯協会会報』 1965年6月9日、1965年7月15日、1965年8月20日、1965年10月31日、1965年12月5日
ヴァルガス大統領の想い出
辻小太郎
目 次
- 一、パリンチンスの会見とジュート格付法の発布
- 二、サンタレーン製麻会社の創立とヴァルガス大統領
- 三、 戦後移民入国許可とヴァルガス大統領
- 四、 ジュートに対する保護政策とヴァルガス大統領
- 五、ヴァルガス大統領と交渉した諸件
ブラジル歴代大統領の中でも、最も秀でた大統領はゼッリオ・ヴァルガス氏であったことは疑う余地なく、彼の施政二十年間にブラジルは大きく前進したのである。殊にアマゾニア地方今日の隆昌は彼に負う所が多い。アマゾニア開発庁の設置は彼の仕事であり、ジュート産業も彼あってはじめて今日の大をなし得たのである。
私はヴァルガス大統領には十回以上会っているが、今その主な会見の内容とその結果が生んだ事実とについての想い出を記して見度い。
一、パリンチンスの会見とジュート格付法の発布
私が最初に大統領に会ったのは一九四〇年、彼がポルト・ヴエリヨを訪問する途中パリンチンスで往復二回に亘りジュート栽培の歴史について話した時である。
一九二九年に始められたジュート栽培は尾山種(尾山良太氏苦心のもの)の発見により逐年増産を続けていたが、一九三九年、私は印度のジュート栽培中心地を訪問して、実地に栽培、格付、取引、商慣習、加工、等について調査を行い、仝年末帰伯して、ジュートをアマゾニアの新産業とする為の種々の方法を考案中、丁度大統領が飛来するという報せを聞き、リオの日本大使館を通じて、大統領一行が是非ヴィラ・アマゾニアに一泊して貰い度い旨の打電をした処、大使館に返電があり「大統領一行の旅程は一切決定済で今更変更は出来ぬが、ヴィラ・アマゾニア(アマゾニア産業株式会社所在地)上空を旋回するから国旗を振って歓迎の意を表せられ度い。又パリンチンスには給油の為寄港(水上飛行機)するからパリンチンスで歓迎されるもよろしい。先発機は新聞記者一行、第二機が大統領及び随員の搭乗機である」と通知して来た。
丁度その時日本から来訪中の上塚社長と私の二人がパリンチンス市に行き、郡長レオポルド・ネーベス氏(後に州統領、故人)等と同じ小舟に乗込んで、大統領機が着水するのを待って飛行機に近づいた。大統領はガウシヨ(gaucho)式の太いズボンに長靴を履いて、水上機の上に立ち上って居られたが、郡長は歓迎の挨拶を終えた后、当郡にはジュートという新産業が勃興しつつあり、そのジュートを仕上げた会社の重役達が此処に来て居りますといって、上塚さんと私とを大統領に紹介した。
すると大統領は、私に向って「そのジュート栽培は何年に始めたのか」「種子は何処から入手したのか」「気候は適しているのか」「栽培方法は如何するのか」「収支採算は良いのか」「如何程収穫があるのか」等、私が答える次から次へと質問の矢を放たれた。数千の市民が河岸に立って大統領を出迎えて居るのには一顧もくれず、ジュートの話に終始された。
給油が終ったので飛行機は上流へ向け出発したが、帰り便に又出迎えに行った処、今度は、大統領は私共の乗って居る小舟(ボート)の中へ降りて来て、握手を交し、「良くやってくれた、ジュートの話の続きを聴き度い」と申されて、又種々の質問を受けた。そして最後に「それでは貴殿方が政府にやって貰い度いと思う希望を述べて欲しい」と言われたので、私は「私は昨年ジュートの生産中心地印度を約一ヶ月旅行して、種々の調査をして来ましたが、印度ジュートよりも私共のジュートの方の品質が数等勝れていることを発見しました。私共は決してジュート栽培を日本人の独占とする考えはなく広くブラジル人に栽培を奨励して、一日も早く大産業に仕上げる様致し度いと存じますが、上等な品質の繊維の生産を維持する為には、格付法の発布を必要とします。私共の会社で、今日まで厳重に格付をして居りますが、それは会社の格付であり全生産者に強要することは出来ません」と申した処、大統領は「よろしいそれでは早速農林大臣宛に本件につき申請書を提出してもらい度い。私からも連絡して置くから。」とのお話であった。
給油が終ったので大統領は、別れの握手をして飛行機に戻られたが、私には非常な感銘を与えた。一国の元首が斯くも熱心に新産業の勃興に関心を持ち、多忙中往復二回約五十分に亘り、ジュートに関し詳細な歴史を聴かれたことに対し、大統領の民主性と偉大さに打たれたのであった。この会見が後述の通りサンタレーン製麻会社の創立引受けとなり、延いては戦後移民五千家族の入国許可を獲得する動機となったことは勿論である。
農林大臣宛の格付法発布に関する申請書に対し、一ヶ月程後に地方経済局長(エコノミア・ルラール)トーレス・フィリヨ氏から電報が参り、内容は「ジュート格付法発布に関し、打合せの為、責任者至急リオに来る様依頼する」旨の通知であったので、私は早速、リオへ向け出発した。当時の飛行機はすべて水上飛行機で而も、一時間か二時間毎に着水するので、パリンチンスからベレーンまで一日、ベレーンからフオルタレーザまで一日、フオルタレーザからバイアまで一日、バイアからリオまで一日合計四日かかったのだから全く今昔の感が深い。
農林省地方経済局にトーレス・フィリヨ局長を訪問して、大統領に達したのと同じくジュート栽培の歴史や印度ジュート格付法を説明した処、局長は、
「ブラジルには他の農産物の格付法があるから、それに準じた格付をすべきだと思う。そして一等、三等、五等、七等、九等に分け、等外品と併せて六種としたい。格付は連邦政府の権限に属するが、州政府に委託することも出来る。然しジュートに関しては全く新しい生産品であるから、具体的の仕事は貴殿方の会社に引受けて貰う外ないと考えるが、よろしいか」と言われたから、私は「引受ける用意があります」と答えた。
斯くて一九四〇年末ジュートの格付法が公布され、アマゾナス州政府に格付を委託し、州政府とアマゾニア産業株式会社との間に格付に関する契約書を作成、私共の会社が政府公認の格付人に指定された。又アマゾナス州政府からは二人の農学士を格付見習の為に会社に派遣して来た。
此の格付法は今日まで現存して居るが、折角良質の繊維の生産を維持しようとした私共の念願も、第二次世界大戦の為、会社は没収となり格付は政府の手に帰し、今日では印度ジュートに劣る位の繊維より生産されないこととなった。私共の手で格付した当時の良質のジュートは今日では何処にも見られぬこととなったのは誠に残念だが、これも運命であれば止むを得ない。
二、サンタレーン製麻会社の創立とヴァルガス大統領
一九四一年ジュートの生産は一千百噸であったが、四二年には三千噸に達する見込となった。即ち格付法の発布によってアマゾニア産業が公認格付人と指定された為、日本人が作っても、伯人が作っても、凡ての生産ジュートは一応会社の倉庫に運び込んで、格付を受けねば州外に移出せられぬことととなった。そこで、私はアマゾナス州知事アルバロ・マイア氏、パラー州知事ディオニジオ・ベンテス氏に願い出て、政府が宣伝して伯人一般にジュートの栽培を奨励してもらうこととし、又マナオス及びパラーの各商業会議所に対しても同様の申込をした。
即ち具体的には会社は無料で種子を配布すること。栽培の指導を行うこと。生産繊維は一切会社に於て買取ることを条件として、栽培奨励宣伝を依頼した。
会社は四二年度収穫予想三千噸のジュートを処理する為、ヴィラ・アマゾニア及びマナオス市に水圧梱包機、イタコアチアラには手締め梱包機を据付け、サンタレーン、ベレーンには事務所又は支店を開設、更にアマゾン河流域各地に廿八ヶ所の代理店を設置して手落ちのないジュート取引網を作り上げ、更に将来の発展を見越して、ヴィラ・アマゾニアに織機百台のジュート製麻工場を設置するため約二町歩の敷地を予定し、ラーモス河畔に数千噸の船が横付けとなり得る桟橋や河岸倉庫の建設に踏切った。
私のジュートに関する計画は栽培から加工、販売までを一貫作業として会社の手でやる方針で来たのであったが、不幸にして一九四一年十二月真珠湾の攻撃により急転直下に政情不利となり、会社や私はブラック・リストに入れられ、更に没収の憂目を見ることとなり、こうして製麻会社創立の夢も消え失せた。
戦時中枢軸国人の殆ど全部はトメ・アスーに軟禁されたが、ジュート栽培者丈けは政府が保護する旨を声明、何等の迫害を受けなかったのみか、戦争によるジュート製品の暴騰により莫大な利益を得たのであるが、これも恐らく大統領からの命令であったのではないかと推察される。私も四年間、サンタレーン市の下流でジュート栽培をして時を過したのであった。
私は終戦の翌年一九四六年サンタレーン市に出て小商売を始めたが、漸次貝殻、ラテックス、材木、ジュートの取引と取組んで地歩を固めて行ったが、一九五〇年大統領の改選があり、その選挙演説にヴァルガス氏が参り、サンタレーン市教会前の広場で公開演説を行った。その中に「南伯のジュート工業者達はアマゾニアのジュート栽培者を奴隷視するのみでなく、安心印度ジュートを輸入して新興アマゾニア・ジュートを滅亡に導かんとしている。若し、私が大統領に当選したならば、必ずこの地にジュート製麻工場を設置して、苦難に喘ぐジュート栽培者を救済するであろう」と声明された。
私は丁度その演説会に立会って居たが、多数の取巻き達が居て、到底ヴァルガス氏に近寄ることが出来ず、特別仕立ての飛行機で各地を巡回中であり、サンタレーンでも演説が済むと直ちに飛行場へ駈け戻る忙しさの為、遂に直接話をする機会を失った。
そして開票の結果はヴァルガス氏の大勝となり、新聞報道によると、ヴァルガス新大統領は記者会見に於て「自分はサンタレーンにジュート製麻工場を設置する約束をして来ている、これは何としても実現せねばならぬ」と声明されたことが判明した。
大抵の政治家は選挙運動の時は種々の約束をするが勝って仕舞えば、けろりとするのが普通であるのにヴァルガス氏は公約を忘れず是非実現する決意のあることを示されたのに対し、私は、その有望性を確信し、彼が大統領に就任するのを待つこととした。
一九五一年二月一日ヴァルガス氏は大統領に就任したが、彼に会う為、サンタレーン労働党支部長エリヤス・ピント氏(当時郡役所書記)がリオへ行くことを知り、旅費の五〇%を払う約束の下に、私の手紙を大統領に手渡して貰うこととした。
その手紙の内容は「私は一九四〇年パリンチスでジュート栽培の歴史について閣下に説明をした者でありますが、第二次世界大戦の為、私共の会社は政府の没収する処となり、現在私はサンタレーン市に於てジュート其他の地方物産の取引をして居ります。接収されたアマゾニア産業株式会社の一切の財産はマナオスの資本家に売却せられ、その金はブラジル銀行に凍結されて居りますから、一日も早く此の凍結金を解除して戴き度い。解除されましたら、その全額を閣下の計画されている、サンタレーンのジュート製麻会社に投資します。
又サンタレーンの製麻会社に必要とする一切の機械は日本より輸入することを御許可願い度いと存じます」とした。
エリヤス・ピント氏は私の手紙を大統領に手渡した処大統領は「此の日本人は自分は良く知って居る、直ぐ来る様手配せよ」との鶴の一声で、エリヤス・ピント氏から下記の様な急電を受けた、「アキー、パッサ、ミル、マラヴィリヤ、プレシデンテ、ケール、コンヴェルサール、コンチーゴ、ヴィエッセインシディアタメンテ、アグアルダンド、オテル、イタジュバー、シネランディア、エリヤス」即ち、「此処では多数の驚異的事件が起りつつある、大統領は君と会談し度い希望である、直ぐ来い、シネランディアのイタジューバホテルで待つ、エリヤス」
此の電報を入手すると翌々日私は飛行機でリオへ向け出発、四日目にイタジューバホテルに着いて見ると、エリヤス・ピント氏の外にやはりサンタレーンの出身で当時伯銀マナオス支店長だったライムンド・フイゲイラ氏(後アマゾニア信用銀行の総裁、革命で停職)が居り、「大統領は我等にサンタレーン製麻工場設立を引受けて貰い度い希望があり、ついては大至急、会社創立趣意書及び計画書を作成する必要がある。ジュートに関しては自分達は全くの素人だから計画書を作成して貰い度い。それが出来上ってから、ペトロポリスの大統領に会うこととし度い」とのことであった。
私は旅の疲れも忘れて、三日三晩、製麻会社の計画書、収支計算書を作成、エリヤスは趣意書を作成、それを次から次へとタイピストへ廻して浄書させ、出来上るのを待って、ペトロポリスへ向った。忘れもせぬ三月三日だった。
ペトロポリスのリオ・ネグロ宮殿には百五十人を越す民衆が大統領に会い度いと詰め掛けて居り、警官が入口を止めて居て到底入れそうにもない。止むなくエリヤス氏から受取った電報を示して、「大統領が会い度いと申して居られるのだから通して貰い度い」と説明して漸く入れて貰ったが、階段を上る入口で又警官に引掛った。又同様の手段で漸く階上の待合室に入ることが出来たが、既に四十人近くの人が待っている。この中には大蔵大臣、伯銀総裁、ワシントン会議に向う中将以下多数の将官、代議士等皆ドエライ連中許り、田舎から出て来た小商人の出る幕はなさそうである。
然し今更帰る訳にも行かず侍従に電報を示し、名刺を出して、大統領に来意を告げて貰い度いと頼み込んだ処、暫くして侍従が戻って来て、「大統領はユックリお話を承り度いから、最後まで待って貰い度い」とのことですと言われ、十一年目に大統領に会えることを知った。
私とエリヤス・ピント氏が待合室に入ったのは午後二時過ぎであり、大統領の謁見は午後三時に始り、次から次へと会見の終った人達は立去ったが、何せよ四十人位居た人達だから、私共の番が来たのは午後八時であった。咽喉も渇いていたし、腹も減っていたが、水一杯飲む設備もない。
謁見室に入ると、ヴァルガス大統領はニコニコとして椅子から立上り、「良く来てくれた、自分は貴君を良く知っている」といって握手を求められた。
十一年の才月が経ち、戦争により敵国人視された私ではあったが、大統領の態度は全く変っていない。寧ろ好意的に見えた。
私は「サンタレーン製麻会社創立趣意書及び計画書」という約五十頁に亘るタイプライター打ちの書類を大統領に渡しながら「此処にサンタレーン製麻会社創立に関する書類を持って参りました」と申した処、大統領は「その会社の創立は貴君達に引受けて貰いましょう」と申された。それで私は「此の会社の創立には少くとも二万五千コントス(現在なら二十億クルゼイロス)の資本金を必要とします。このような大金をアマゾニアの田舎で集めることは到底不可能と存じますから、此の会社の創立を容易にする為、資本金の一部を政府が参加、お引受して戴く訳には参りませんか」と質問した処、大統領は「それは困難だ、政府が民間会社の株主になる為には、議会の協賛を必要とする。それは一年にして二年にして、何年にして出来るか分からない。自分は一国の元首として、あらゆる便宜と援助とを与えるから、貴君達で創立して貰い度い」と
これがそもそもサンタレーン製麻会社創立の由来であり、爾来何回となく大統領に交渉し、大統領は左の通り援助を答えられた。即ち、
一、 伯銀に対し二万五千コントスの融資命令を出されたこと。
二、 日本からの製麻機械一式約七十万弗輸入の許可を、各係官に命令して僅々三週間で完了させられたこと。
三、 サンタレーンに現に据付けている重油発電装置三基の輸入許可についても係官に命令して、無税で容易に輸入させられたこと(新潟鉄工所、明電舎共同製作品)
四、 アマゾニア産業の凍結金は伯銀に命令して解除、之をサンタレーン製麻会社に投資させられたこと。(一九五一年十月)
五、 アマゾニア信用銀行に製麻会社株三千コントスを引受けさせられたこと(総資本七千コントス)
即ち大統領は私に約束されたことを一々実行されたのであり、私は一九五四年製麻機械を日本に注文の為渡日したのであるが、その間に大統領は自殺され政権はカフェー・フィリヨ氏に移り、折角の計画は一切頓挫する結果となった。
本年、漸く英国から一切の製麻機械が到着し目下据付中であり、近く操業開始の運びに至ると思うが、此の遅延は大統領の死という一大事件の結果であり若し、大統領が少くとも今一年生きて居られたら、製麻会社はその頃に出来上って居たことと思われる。重ね重ねも残念至極である。
私が今もサンタレーン製麻会社の重役として席を連ねているのは以上の理由によるものである。
三、 戦後移民入国許可とヴァルガス大統領
戦後移民入国許可は、サンタレーン製麻会社創立の副産物的の形式で獲得したものである。即ち製麻会社創立の件について前記の様に大統領と会談し会社の創立を引受けた後私は大統領に向って
「私は閣下に対し、平素種々御尋ねし度いと考えていることがありますが、この様な機会でなければとても不可能なので、誠に時間も遅くなり御疲れとは存じますが、お許し願えますか」と聴いた処、大統領は「何なりと遠慮なく御尋ねなさい」と申されたから、私は「閣下の日本移民に対する御感想は?」とうかがった処、「自分は賛成だ、寒い処には新しい移民を入れなくても、自力で発展して行くが、暑い地方(北伯)なら幾らでも来て貰い度いと考えている。此の事は先日来訪した中村代議士にも話したことである」と答えられた。
此の返事で大統領が日本移民に賛成であることと、アマゾニア地方なら幾らでも日本移民を入れ度い意向であることがハッキリとしたので、此の事を東京の上塚さんに伝え、上塚さんが、日本政府の代表として移民問題につき、伯国政府と交渉する権限を持って渡伯される様に申送った。
上塚さんは私の手紙を時の総理大臣兼外務大臣の吉田茂氏に見せられた処、吉田さんは非常に喜ばれ「此の暗い日本に、明るい窓を開けてくれた様なものだ、上塚君行ったがよろしかろう」と云われた由、(当時は戦後の全く暗黒な時代だったらしい)
それで上塚さんは外務次官に話された処、やはり同意を得たが、秘書官は「日本は未だ何処の国とも平和条約を締結していないので、日本政府が代表を派遣して、他国の政府と交渉することは一切不可能です」といって反対したので、折角の私共の案は駄目になった。
それで、私が中心となって、アマゾン河流域地帯の主だった日本人に呼び掛け上塚さんを招聘することとなった。
上塚さんが来られたので、一緒に本流地帯をマナオスまで旅行し、各地のジュート栽培日本人を訪問、戦後移民導入に関して打合せを行った後、リオに行き、ヴァルガス大統領に会って左の意味の移民入国許可申請書を提出した。
― 時に一九五一年九月廿七日であった。
「最近の国産ジュート生産量は相当急激に増加しましたが、国内消費を充すには尚一万五千
又その実現の為左の諸条件を整えて戴き度いと存じます。
一、 国際連合と打合せて戦災移民として渡航費を負担してもらうよう手配願い度い。
二、 一定の規定の下にジュート栽培者へ資金の融通を確保して戴き度い。
三、 パラー、アマゾナス両州政府と打合せてジュート栽培に必要とする土地を移民の為に確保して欲しい」
此の申請書は農林大臣、移民審議会に廻され十二月始め、五千家族の入国が決定した旨、時の州統領ザカリアス・デ・アスンソン中将より、私に電報で通知して来た。
それで上塚さんと打合せて、一九五二年度ジュート栽培地に八十家族を入植させる案を樹て、引受者と一々打合せて、森林の伐採やら住宅の建築を行うこととなった。
ところが大きな困難が起って来た。それは、日本移民は枢軸国人であるから、戦災移民として渡航費を支出してもらうことが不可能となったことである。それで止むなく農林大臣に農産奨励の意味から渡航費を支出して貰い度いと交渉し、大臣は賛成したが、大蔵大臣の方で予算がないから不可能だと裁決されてしまった。
結局日本政府で負担して貰う外ないこととなったが、日本側にも予算はないので、止むなく貸付方法を採用することとなり、渡航者が相互に責任を保証することとなり、漸く出発出来る様になったが、今度は移民を運ぶ船がないので又も一頓挫を来した。
大阪商船のサントス丸に特別三等室があり五十四人乗れるので、第一回は八十家族約四百人来る筈の処、僅に五十四人となった。
私は渡航期はアマゾニアの乾燥期、即ち八月から十月迄の間に到着する様計画し、万一、それが出来ねば一ヶ年延期する外ないと強く主張したが、日本側の事情は全く無我夢中という状態で、当方の実情も説明も一切無視して十二月に日本出発、リオで乗換えて、アマゾニア各地のジュート栽培地に到着したのは三月であった。
丁度その年は五十年来の大洪水となり、新移住者の住宅はとうとうと流れる濁水の中にあり、足で踏む土は何処にもないという状態だった為、到着早々脱耕するもの続出、而も日本から新聞記者が戦後第一回移民の状況を細大漏らさず報道する為、随行して来て居たので、直ちに日本に打電される、全く悲しい結果に陥った。
入耕を引受けた人達も随分、打撃を蒙り、移住者達自身にも誠に気の毒な結果となり、私も非常な責任を感じ、爾来、テーラ・フィルメへの移住を考える外ない事情に追い込まれた。
それで、ゴムとサイザル麻を中心とする移民導入案を作成、大統領の御諒解を求めに行った処、ヴァルガス大統領は私に「サイザル麻は東北伯の乾燥地帯の住民の唯一の生活資源であり、その産業維持の為に政府は非常な犠牲を払っている現状にある。何でも出来るアマゾニア地帯で、サイザル麻を栽培することとなれば更に政府の負担が大きくなるから、それ丈けは中止して貰い度い」と
私は折角パライーバ州のカンピーナ・グランデ市を中心とするサイザル栽培地方を調査に行って、これならば安心して移住者を迎え得ると考えていたのだったが、大統領から止めてくれと頼まれたので止むなく断念し、結局、各地連邦植民地、連邦直轄州植民地を中心として、移民を受入れてくれる処があれば、その方面へ送り込む外なくなった。
当時の日本としては渡航費貸付さえ大変であったのに、移住者の入植に必要な土地を準備し、家を建て、道を開き、生活費の補助までやる様な費用は皆目支出の方法がなかったから、私はアマゾニア経済開発庁長官と話して、各州への移民入植に必要とする一切の費用を開発庁から支出して貰う様にした。
その結果は広大無辺のアマゾニアの各地に転々として移民を送らねばならぬ結果となった。
アマゾニア経済開発庁には計画審議会というのがあって、その審議員は、アマゾニア地域の各州、即ちパラー、アマゾナス、マラニヨン、マット・グロッソ、ゴヤース、アークレ、ロンドニア、ロライマ(前のリオ・ブランコ)、アマパーの代表九人の外、大統領の任命による五人の専門技術官と長官との十五人で、計画を樹て、予算を審議するのであり、各州共、日本移民の渡来を熱望して居り、各州に移民を入れねば、必要とする予算が認めて貰えぬこととなったのである。その当時、今の海外移住事業団の様なものがあって、一切伯国側の御世話にならなくても、財政的に移民の入植地を準備出来る組織があったなら、恐らく戦後移民がアークレやロライマの僻地に行く必要はなかったと考えられる。
私は各地の連邦植民地管理人又は連邦直轄州知事と文書で入植条件を契約して後入植させたのではあったが、何処でもナカナカ約束通り実行してくれない。入植した移民は困窮しそれが反感となり文句となって私にはねかえって来る。次から次にと各地から苦情が出てくる。その度に私が出向いて、行って交渉に当って見ると、その時丈けは一時的におさまった様だが、ブラジル側の事情から又元に戻って私に対する非難が続くという次第、私は一年中各地入植地を駆け廻って居ることとなったが、移民は次から次へと渡来して来る。
一時中止する様にと日本側へ申してやっても日本には数百万の人間が外地から引揚げて来て、日本にも居られぬので海外へ出度い希望者が荒波の様に打ち寄せてきて、今渡航を中止したら外務省が焼き討ちを喰うかも知れない程緊迫した事情である。何としても次から次へと入植地を見附けて貰わねばならぬと
そういう事情を知ると今更断る訳にも行かず、連邦政府関係丈けの入植地では処置し切れないので、ベレーン郊外の野菜栽培とか、ヴィラ・アマゾニアへの入植とか、移民を入れ度い希望先を次から次へと探し廻って、一人でも多く入植し得る様努力したが、事態は益々悪化する許りである。
ヴァルガス大統領は移民法の改正と伯銀に移民融資部を設置して保護してくれる様手配されたが、その実現は何時のことやら知れない。それを待って居ては移民の方が先に駄目になって仕舞う。
私は私の導入した移民の保護、救済の外に、今後来るであろう多数の移民を、安全確実に生い立たせる方法について日夜苦慮した。その結果は日本へ行って、直接首相、外相、蔵相、農相に実情を訴え、移民援護の為の、充分の資金を有する大組織の実現を図る外がない結論に達した。
私は一九五四年七月ベレーンを出発、日本に行き、外務省の関係方面に交渉したが、当時日本はまだ戦災の深手が癒え切らず、移民に融資をするなどとは以ての外であり、渡航費の貸付が手一杯という事情がハッキリして来た。
これは結局吉田首相に直談判する外方法のないことを知り、八月十二日目黒の公邸で吉田総理と二人丈けで約一時間半に亘り、話をすることが出来、米国からの借入金によって移民に融資をするという私の提案は、吉田総理の熱意により実現して、一千五百万弗の借入が実現、海外移住振興会社が生れることととなった。(この件のいきさつについては時を改めて書き残すことにする)
然し、八月廿四日には、私の最も力とし景仰したヴァルガス大統領自殺の報が伝り、私は移民事業の前途に暗雲のかかる恐れを感じた。然し良いことには私が日本へ出発する前、即ち七月一日、移植民院との間に協定を締結、署名して居たことである。若し此の協定署名がなかったら、ヴァルガス大統領の急死と共に、日本移民の入国許可は取り消される運命になったかも知れぬと考えられるのである。
ヴァルガス大統領の死は、私の最大の支援者を失うこととなり、ベル・テーラ、ゴム園への百二十家族の入植者の急遽退耕命令なども、その事情を明にして居り、移植民院渡航許可証の入手も、一回毎に条件が困難となり、大使館の力も及ばぬ状態になって来た。
日本政府も一九五五年には一ヶ年間一文の補助金をも送付してくれず、数千の移民を抱え、私は自己資金の全部を移民の為に費しても尚不足する状態となり、預って居た営農資金の中、大口の一部の返還が不可能(小口は全部返還)の窮地に陥れられた。それを理由として私が如何にも移民の預金を横流ししたり盗んだ様に、新聞で騒ぎ立てられた。五ヶ年間に一文の給料や手当を貰わず、奉仕的に献身した私ではあったが、盗人の如く攻撃されて移民事業から手を引く決心をする外なくなった。
私と丁度同じ立場にあった松原氏はヴァルガス大統領の死と共に一切の財産を取り上げられ、伯国に居ることも出来ず、日本へ帰って恵まれぬ生活の裡に他界されたが、私は松原氏より十年若かった為に、苦節三年の努力の後、漸く移民取扱い時代に出来た借金を完済することが出来たのである。
四、 ジュートに対する保護政策とヴァルガス大統領
アマゾニアのジュートは日本人の手によって出来上った新産業であるが、今日の大産業となる為には、ヴァルガス大統領の保護政策が大きな力となったのである。然し其の事実を知って居る人は案外少いのではないかと考えられるから、今その大要を述べて見度い。
私が一九二八年ブラジル視察の旅に出る一ヶ月前、日本で最も大きいジュート製麻会社の小泉社長に対し、奥田という私の小学校時代の校長で、小泉製麻の重役の子弟の家庭教師をして居た人を通じ、
「私は今度ブラジル視察に出発することとなり約一ヶ年の期間ブラジル各地を訪問します。アマゾン地方は気候、地理的条件に於て、印度のガンジス、プラマプトラ河流域と酷似して居り、したがってジュートの栽培可能性は充分あると存じますから、試作をやって見度いと思って居りますが、その試作の費用として五千円支出して貰えませんか」と申出たのに対し小泉さんは、
「そんな考えはお止めになったがよろしい、その理由は
一、 ジュートは人口極めて稠密な従って労銀の安い印度で生産されるものであり、アマゾンの様な人口の希薄な地方でたとえ良く出来たとしても、圣済的に引合わなくなる。
二、 印度ジュートは世界的にすばしこい英国商人に支配されて居り、万一、アマゾン・ジュートが有利に生産されることが判ったら、反撃的にダンピングをして倒して仕舞うから、折角の努力も水泡に帰することとなる」
と以上の理由で一文の援助も得られなかったが、当時学校を卒業した許りで理想に燃えて居た私は、「ようし、小泉さんは金を出し度くないものだから、つまらぬ理屈をつけて断ったが今に見て居ろ、自分の手でアマゾン・ジュートを作って見せてやるから」と固く心に誓って出発したのであった。
それから苦節十年アマゾン・ジュートは隆々たる勢で伸び、次いで製麻会社の設置まで計画して居る時、第二次世界大戦の勃発となり一瞬にしてジュートの支配権は私共の手から離れた。
然し戦争の為ジュートの需要は激増し、戦時中も増産を続けたが、戦争が終って二〜三年すると印度からジュート使節団がやって来て、ジュート栽培地を視察する外、ダンピング式の値段を各製麻工場に提供して、国内産ジュートは危機に瀕することゝなった。此の時期にヴァルガス大統領の保護政策がなかったら、小泉さんが申した通りアマゾン・ジュートは
毎年、全伯国の製麻会社の消費するジュート繊維を一〇〇%とし、その中、国内生産繊維の数量を推算して、それが消費量の三〇%となるのであれば、各製麻会社はそれぞれ一ヶ年間の繊維消費量を申告し、その中三〇%の国内繊維を購入したという証明書を提出しなければ…残り七〇%の印度ジュートの輸入許可が下附されないこととし、毎年国内生産ジュート使用義務率を増加して行って、遂には一〇〇%国内繊維を使用するのを目標とする政策であった。
此の政策によって印度はダンピングをする機会がなくなり即ち、結局安く売っても高く売っても、不足量丈けより売れぬのなら高く売った方が得だとなって、輸入印度ジュートの為に国産ジュートが被害を蒙ることは防止されたのであった。
今日では繊維丈けでなくその製品までもドシドシ外国に輸出される状態となり、ジュートはアマゾニア最大の産業に成長したが、これはヴァルガス大統領の政策の結果というべきである。
私は丗七年前小泉社長が私に申されたことは経済人として、全く正当の言であったことを時時思い出すが、その至言が当らなかった理由は、丁度ジュート産業が勃興しようとした時、大戦が起り、印度ジュートの輸入が杜絶して国産ジュートに依る外なくなったことと、戦争が終って、印度がダンピングをやろうとした時には賢明な大統領が居て、保護政策を実施したことにある。
戦後、印度とパキスタンとに分裂し而も最近お互に敵国の様な事情となり、ジュートの生産地と加工地(カルカッタ)とが別の国になり、値段の引上げが甚しく、又新興国家なるが為にあらゆる施設に金を要し、物価も上り労銀も高騰することとなって、アマゾン・ジュートは今日海外市場で印度ジュートと競争しても勝っている状態となって来た。全く世界の変化は予想も出来ないもので、此の点に於ても小泉さんの言は当らなくなって仕舞ったのである。勿論当時小泉さんは印度が、英国の支配化を脱して独立するなどとは考えもされなかったろうし、その印度が又二つに分れて、お互に敵国的状態になるとは想像もつかなかったのは当然のことである。
五、ヴァルガス大統領と交渉した諸件
以上四項に亘って述べたことは、ヴァルガス大統領と交渉した最も重大な事件であるが其他にも直接大統領と交渉した問題が幾つかあり、その中、実現したものと、遂に実現しなかったものとがある。
(1)サンタレーン市電話機械の輸入許可
大統領の公約したサンタレーン製麻工場は市の郊外に広大な土地を、市から寄付してもらって設置することとなったが、市の中心から三キロ以上の距離があり連絡に不便な為、私はサンタレーン市に電話会社を創立する計画を樹て、市長や市民の大賛成を得て、その会社は容易に出来上った。
設備一切はドイツのシーメンス会社のものが一番安かったのでそれを輸入することとした。サンタレーン市にバールを経営するメルセデース氏がその輸入手続を引受けたので安心して居た処、何ヶ月しても輸入許可が下りない。それで私が大統領に他の用件で会見した時、右の事情を説明し、大至急輸入を許可して戴き度いと申出た処、大統領は侍従を呼んで、カセックスに電話させた後、私にカセックスの責任者を訪問する様申された。
私がカセックスの責任者を訪問すると、実に丁重に迎え、係を呼んで書類を取り寄せ、その場で許可の決裁をしてくれた。
斯くしてサンタレーン市には最新式オートマチックの電話が設置されることとなり、アマゾニアの田舎町としては最も早く電話設備を利用することが出来たのであった。
(2)クルア・ウーナ水力発電所の計画
サンタレーン市の背後約六十キロの地点にクルア・ウーナと云う河があり、その河に落差十米余の滝がある。この滝を利用して水力発電を行い、サンタレーン市、ベルテーラ・ゴム植林地(前フォードゴム園住民約六千)、コロニアサンタレーン(住民約六千)に電力を供給する外、サンタレーン製麻会社に必要とする電源を得る計画を樹て、大統領に交渉した処、非常に賛成、リオのセルヴィクス社に調査を依頼され、費用はアマゾニア経済開発庁から支出させる様手配された。
その為サンタレーン製麻会社に臨時用として六百馬力の重油発電機三基(新潟鉄工と明電舎の協同製作)を備えていても、水力発電所が実現した時には、三台の発電機は不用となる為、各地の田舎町へ一台宛分割販売出来る様考えて計画したのである。
然し大統領の急逝により此の問題は繰延べられ、漸く本年アマゾニア経済開発庁の予算廿五億クルゼイロスで実行に移されることとなったが、此処数年前よりサンタレーン市の発電機が古くて役に立たず、製麻会社の発電機が市に電力を供給して、市を明るくして居る状態にある。
(3)旧横浜正金銀行凍結金の解除問題
旧横浜正金銀行リオ支店には第二次世界大戦勃発前にニューヨークより相当額の資金が送付されて来て居たが、それが全部ブラジル政府により凍結されることとなった。その金額は当時の金にして九億円と推算されていた。此の資金をイタリア政府が行った如く、ブラジルの発展の為に使用することを条件として解除して貰い度いという熱望を松原、大谷、野崎、粟津の諸氏が持って居り、私にも相談を持ちかけられた。
それで私は大統領に会った機会を利用して、解除の可能性について質問した処、「解除してもよろしいが貴君は委任状を持っているか?」と問われたから、私は「委任状は持って居りませんが、閣下が解除を御約束下さるならば、正当の受取人を日本より呼びますから」と申上げた処、大統領は「早速呼んだがよろしい」との返事を得たので、上塚さんを通じて此のことを伝え、東京から、在外活動関係閉鎖機関特殊清算人石橋良吉氏が来伯、私はリオへ行き大統領に石橋氏を紹介した。
ところが旧横浜正金の全財産は東京銀行に引継がれることとなり、凍結資金が解除されそうだとの報を得て東京銀行より高橋氏を急派し、石橋氏の活動を押えることとなったので、私は一切手を引き、其後の事情については何等関知しないが、未だに解除されて居ないという話も聞くが、確なことは知らない。
折角の大統領の好意も以上の理由で実現しなかったのは返す返すも残念である。
其の当時貰って居れば大変な金額であったが今日では何十分の一の価値になって仕舞ったのである。