須田町人(三浦鑿) 「芋礼讃」 『日伯新聞』 1926年9月10日
芋礼讃 須田町人
バイ、プランタ バタタ
『日伯新聞』1926年9月10日
誰もが知つてるやうにブラジルではこれが嘲弄の言葉だ、此の馬鹿野郎そんなこと云ふ暇に芋でも植えてろ、と云つたやうな意味に用ひられてる、所が一度聖市郊外の日本人芋作りの状况を見せられると如何なる伯国人もプランタ、バタタを嘲笑の意味に用ひるどころか、一度で芋礼讃の信者になつて仕舞ふ、丹念に手入をした土地、製造所から今出して来た毛氈を敷いた様な緑の芋畑、一目見たばかりでもバイ、プランタ バダタなどとは申上げられない。
お芋で名高いコチヤ、聖市から三十五六キロ自働車で一時間半か二時間そこには約百家族の日本人が芋を作つてる、地味の悪い禿山を更にバリカンをかけ綺麗に坊主にして木の根一筋ないやうにしてある、これが日本人の努力で大凡十幾年掛つて居る、記者も驚いたが外人は尚のこと驚いてる、コシクした灌木かヒゲ草の外生えない瘠せ地へ持つて行つてミーリヨ[注 とうもろこし]を植ゑて二百四五十俵も獲ると云ふのだから、日本人は魔法使いだ奇術師だといつて云つて不思議がつてるのも無理はない、それほどにコチヤの日本人は農作に於て優秀な成績を挙げてる。
▲誰も彼も握り睾丸
コチヤ邦人の芋作りの由来因縁故事来歴は誰か其の道の人があつて物するであらう、記者は過去を繰るのが大嫌ひだから敢てその方面に筆を向けぬが、なんでも十何年前に鈴木貞次郎君などが草分けであることだけは確からしい。其後次第に殖えて今ではコチヤだけに約百家族、バルエリー、インブイなどを加へると可也な数にならう、それが誰一人として資本を持つて這入つた者はなく何れも申し合せた様に握り睾丸で入植して今日の盛をなして居るのだから振つて居る、誰に聞いてみても、お恥しい話ですがコチヤヘ着いた時は嚢中殆ど空でしたといふものばかりそれが今日では邦貨何万円といふ小成金があちらこちらにある様になつた。
▲最初は皆借地
裸体一貫で来た者が最初から土地を買ふなどは夢にも想像されぬことでコチヤ村の邦人は誰も彼も初めは借地で出発した、今も借地の流行はやまないが借地で小金を拵へた者は、昨今ボツボツ土地を買ふ様になり最近の調では現在の借地面積三百アルケーレスに対し購入面積三百五十アルケーレス、即ち土地を買つて行く者が次第に増えてゐるのは頼母しい現象だ、それなら借地流行はなくなるかといふに後から後からと新米や奥地の亡者が入込んでくるから決して減らない、只金でも出来るとセメテは自分の土地を自分の家をと云ふことになり、土地買いは殖る、而して古株は次第にコチヤの中心地から姿をかくして新らしい離れた所に行く、今は丁度過度期で此の傾向がだんだん目に着くやうになつた。
▲家屋はお粗末
日本人の常として借地の間は決して家に金をかけぬ、その内出て行くのだと云ふ気があるから住ひに金をかけるは馬鹿だとされてる、コチヤも御多聞に漏れず畑の立派なのに引換へて家屋お粗末至極だ、文字通りホンの雨露を凌ぐと云ふだけで、家具さへも満足なものを持つて居ない、その内に移るのだからと云つても大抵は七年か十年はかかるのだからその間の生活を家も小綺麗にし、出来ることなら旨い物を喰つて現在の生活を楽めばよかりそうに思へるが、何所の日本人もこればかりは決してやらない、十年と云へば人生の五分の一か六分の一、それも一番面白い時期を、只働いたらよし喰つたらよし雨露が凌げたらよしでは如何にも味気ない話だ、どうせ浮沈のある人生だ刹那々々を楽しんだ方が自分の為めにもよく、第一子供の為めにどれだけよいか判らない、然るに日本人はそんなことは放つておいて而も子供の教育がどうの、小学校がどうのと仰せられるから恐れ入る。
(コチヤの巻) 二
『日伯新聞』1926年9月17日
芋の栽培法研究は至れり尽せりである、一俵でも多く収穫しやうとの考から種子に肥料に耕作に寸分の無駄がない、而して尚且絶えずお互いの間に研究され改良されて居る、総領事館の農事部などはテンから歯が立たない、アベコベに教はらねばならぬ程だ、今では一般に良い種を植え良い肥料を使つて、能く手入をすると云ふことが殆ど原則のやうになり、土地の半分は休ませ緑肥を鋤き込む事なども二三年前から流行しだし耕作制限なども中央部に於ては厳守されて居る。
▲機械掘りの魁
収穫も従来は手掘りで、こいつ仲々金と時間を要したものだが石川県人武部繁君が卒先して機械掘りを始めて好成績を挙げてるから、今に一般の流行を見るであらふ、芋は値段もよいが生産費がばかに高い、インテリオールの亡者が来て新たに芋作りをやらふとすると、土地起しだ種だ肥料だ農具だと一アルケルに拾コントス無ければ掛れないと云ふのだから、珈琲と比べても大変な物入りだし、綿や米と比べては、殆どお話にならない[、]だから大バクチを打たふにも打つ余地がない、大手筋は前記の武部氏、高知県人の村上誠基氏同じく吉本亀次[注 正しくは亀吉]氏等であるが、何れも年間七八十コントスから百コントス内外の生産費を使つて居る。
▲ワシントンルイスはコチヤの大恩人
コチヤの邦人に取つて次の連邦大統領ワシントンルイス氏は大恩人だ、ワシントン様々と云ふ所だ、と云ふのは同氏が聖州統領の時代に今のサンロケ街道の自動車道を付けて呉れ、それ以来コチヤの運輸問題が解決され、今では聖市の郊外と少しも変らず、メルカードまで一時間半、往復三時間。用足しをしても一日優に二往復は出来るし、少し無理をすれば三往復まではやれる、これも矢張り高知県人松岡君が魁でカミニヨン[注 トラック]を買込んで運転し始めたのが忽ち我も我もとなり、今ではコチヤ郡内のカミニヨン総数八十余台の内三十五台までが日本人所有と云ふのだから豪気なものだ、こうなると慾得づくで道も改良せねば損だから誰も彼も我が畑へ自動車の這入るに足るだけの大きな道を付けた、今ではどの家だつて自動車の通らぬ所とては一軒もなく、ジユケリーなどと比べて格段の相違がある、これ皆ワシントンルイス様のお陰だ。
▲イガミ合ひ跡を絶つ
ワシントンルイス氏の恩恵は啻にこれだけではない、間接ではあるがコチヤ邦人のイガミ合を根絶して平和な村にして仕舞つた、以前は芋運搬が重大問題で、遠くサンローケから馬車を雇ふて来る、それを二三ミル余計にやつて途中で横取りをする又横取りの横取りをすると云つた様な工合で収穫時になると其所にも彼所にも「ヒドイ奴だ」「怪しからぬ」と云ふ喧嘩沙汰があり、収穫後それが根を持ち何かの時には芽をふいて犬の糞の敵うち、ゴタゴタが絶えなんだものである。それがカミニヨンの通ふやうになつてケロリと無くなつた、これもワシントンルイス氏のお陰だ。
▲コチヤ邦人は質素
少くとも拾コントス多ければ百コントスの金を動かして居るにも拘らずコチヤの日本人は質素だ、儲かつたからとてウヰスキーをあほるのシヤンペンを抜くのと気狂ぢみた真似は決してしない、武部君が只一人パサジエイロを一台持つてるが、ガラージに仕舞ひ込んで居て乗らない[、]なぜ乗らぬかと聞くと「皆が乗らぬので気がとがめてイケません」といふ、それ程にコチヤの日本人は一般に質素である、これは百姓としては何よりの強味で儲かつても有項天にならぬ所がよい、だから数年前の大悲況に際しても格別の落伍者を出さず[、]今では堅実な合理的な基礎の上に立つことが出来、芋作りは決して亡びないと云ふ太鼓判を押されるやうになつた。
(コチヤの巻) 三
『日伯新聞』1926年9月24日
頼面しい現象は青年が主として活動してをることである、と云つて老人決してナマケている訳ではないが、脳味噌に皺の寄つてない潤ほひのある若いものが村政其他を切り廻してをるだけに何事にも改良進歩の跡がある、今は世界の何所をみてもモツソの天下で、モツソでなければ夜も日もあけない、コチヤが偶然の[かの誤りか]自覚からか知らぬが、青壮年が中心勢力を為してをるのは誠に結構なことである、植民地で有害無益な代物は支那流の豪傑で、これほど邪魔なものは無い[、]経済生活を主とする今の世に豪傑なんて用はないし存在を許さない、豪傑を担ぐなどはムイトムイトアトラザード、全く以て植民地の恥だ、インテリオールでも豪傑のガン張つてる所ほど自治的に発達してない、啻に発達しないばかりか毎度オカシな問題を製造して世間嘲笑の的になつてゐる、幸いにしてコチヤには左様な非生産的な穀潰しが居ない、而して青年が天下を取つてる、新時代の植民は此の方式で進まないぢやウソだ。
尻ぬけ観音
勤勉で質素で仕事が合理的で一俵でも芋を多く作り出す方面では至れり尽せりだが、裏を覗いてみると尻ぬけも尻ぬけ大尻ぬけの観音様が鎮座してる、と云ふのはコチヤの邦人は芋を作ることにかけては一生懸命、ありとあらゆる智恵を搾り研究を重ねてるが、サテ之を売る段になると誰も彼も申し合せた様に無関心、成行に任せて商人の云ふが儘に泣寝入り、見す見す俵に付いて三釬五釬甚しい時は十ミル以上も儲けそこなつて平気である、言ひ換へれば損をして平気でをる、それも油汗を流して苦労した最後のドタン場で商人に打棄られて平気でをるのだからよい気なものだ。
足元をツケ込まる
芋がドカドカと二三十台も出ると直ぐ値段が下り気味になる[、]マサカに積んで帰られず、預ける所は無いと見て取れば商人は足元にツケ込んで早速三ミルなり五ミルなりを安く付ける、仕方がないから我慢して売放つて行く、こうして見す見す損する金高は年に積つて莫大もないものである、年産十万俵の芋とみて平均俵三ミルの儲けそこないは二百コントスの損である、精密に計算すれば兎ても二百コントス位な生やさしい儲けそこないではない恐らくは五百コントスを超すであらう、コチヤの邦人は悧巧なやうでもこんな大尻ぬけをやり、方法さへ立てれば取れる金を見す見す逃がして仕舞ふなんてやはり悧巧でない、これは畢竟するに損得の考へ方を知らぬボンヤリの結果でウツケの沙汰だ、二百コントスを現金で取られるのは痛いから誰しも躍起になるが、儲かる金を取りはぐれるのは差当り身にこたへないから何時迄も我慢をする[、]ツマリ慾の皮の突ッ張りが足らないからだ、かと思ふと生産には殆んど気ちがひじみた緊張味を見せ寸分の隙もない所、十分慾の皮の突ツ張りが利いてるやうでもある、此所どちらへ団扇を掲げてよいのか判らないが、煎じつむれば一文惜みの百失ひと云ふのが動かぬ所であらう。
(コチヤの巻) 四
『日伯新聞』1926年10月1日
お芋礼讃にしてはチト悪まれ口が過ぎるかも知れぬが、コチヤ其他の邦人がお芋で天下がとれるかどうかの岐れ道[、]ききのよいサワリの所を一段語つて幕にしやう。
今日此頃のやうにツイ三四日前まで五十ミルをハネて居た芋が瞬く間に三十四五ミルにドカ落をする、そうして商人の云ふなり次第いやなら持って帰ればよいじやないかと捨台辞を云はれて泣寝入るのは何の為めか、云う迄もないそれは肝甚な
▲ 倉庫を持たぬ
からだ、倉庫があつて商品がかこへ否なら買ふなリオでもサントスでも売るよと出るなら決して商人から無法に足元へ付け込まれる気遣ひはない、倉庫がないばかりに売る物は更なり買ふ物でもどれだけ損をしてるか分らない、これは強ちコチヤの日本人だけに限つたことでなく多少とも同胞の集団してる所では何れも同嘆だ、茲に気づいて政府でも倉庫なら何とか助けてやらふと云つてる程なのだが未だどこも思はしいのが出て来ない[、]コチヤの状況を見るに倉庫の必要は正に焦眉の急に迫つて居る[、]迫つては居るが前にも云ふ通り[、]誰も彼も一文惜みの百失ひ慾の皮の突張りが足りないので
▲今出す金が惜しい
から何れも尻込みして先へ立つ者がない、然し事公共一般の利益であるが一般の相談をまとめてからと云ふのでは何十年経つても出来つこはない、物の解つた数人で何でも彼でもデツチ上ることだ、それには丁度コチヤ村によい先例がある、同地の小学校はその経営を全植民の均分負担とせず、十数人の父兄会が資力に応じた任意の寄附金に依り、毎度翌年度の経費までも拵へてる、即ち出せない者は出さずともよい、出せる者が出して学校を維持して行くと云ふのだ、而して他に類例の乏しいやうな好成績をあげ、立派に公共の為めになつて居る、この方法をソツクリ其儘倉庫建設に移せばよいのだ、物の解つた人だけが五人でもよし七人でもよし、何なら二人でもよし、ピネイロ[注 サンパウロ市の青果市場の所在地]に卒先して倉庫を建てるなら、啻にコチヤの邦人が助るばかりでなく、建設者それ自身も立派に算盤がとれること受合だ
▲ 人口のふえる聖市
を控えて芋は益々需要が増すばかり、現に外国や南河州から輸入してる程ではないか、チツとやそソツと芋作りがふえたとてコチヤは依然として芋供給の王様たることに狂ひは生ぜぬ、その王様が生産物を調節する倉庫一つ持ち得ず、何時迄もボテフリ商人に腮でシヤクられ、毎度泣寝入に終るなど、余りみつともよい格好ではない、如何程耕作に精通し生産費をはぶいて多く産出する術に長けて居ても最後のドタン場に行つて脊負投を喰つてるやうでは日本人も甘いものだと、毛唐後向いて赤い舌をペロリ、知らずコチヤの邦人何時まで毛唐に馬鹿にされ続けるか。