史料にみる日本の近代 -開国から戦後政治までの軌跡-

井上侯・大隈伯会見要領筆記

井上候・大隈伯会見要領筆記

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1)
大正三年四月十日午後八時四十分より同十一時五分に至る、井上侯爵邸に於ける井上侯、大隈伯会見要領筆記
(筆記者は当日即ち十日午後二時十五分、井上侯の使者として大隈伯に会見、茲に一言附加べきは、七日井侯は興津より長途の旅行も病を侵して入京せられ、翌八日井上邸に於て山県、松方二老即ち主人公の井侯を合せ三元老

2)
会見の結果、財政、国防、内事の諸般に渉り、数時間の意見を戦はせり。其一定したる意見に付ては、井侯より筆記者詳細註取りたり。此日に至り井侯の脚部の腫は、過度の労働の為め殊に甚しくなりたるも、翌午前四時、皇太后陛下御異変の報に接するや、侯は六時に沼津に御見舞の為め出発せんとし、筆記者に電話ありたり。午前八時、

3)
侯は御大変に関し、時勢と侯に深き感慨の熱涙を灑し、為めに病中の御容子は更に一層の健康状不安を来せり。後藤男、藤田四郎氏等、極言して侯の出立を止められたるも、侯は君国の為め倒れて止むのみと、終に沼津に行かれ、午後四時五十分帰京せられ、〔注:自動車同乗〕更に深更まで、国事の為め種々談話せられ、翌十日、侯は宮中へ御悔み申上旁〃胸中時局の最終解決

4)
を為さむとの決心、病後の顔色に現れ、殊に陛下の御思召を以て私服にても拝謁せらるべき特別なる内命を受け、午前十時参内せられ、午後二時帰邸と共に筆記者を呼び、其日の宮中に於ける元老会議の結果を語られ、大隈伯推薦に議決せりとのことを聞くに至って、筆記者は国家の為めに泣いて侯の膝前に感謝せり。伯は此時病床に在り

5)
静に身を起されたるも、其脚部の腫張は甚しく、筆記者が試に指を以て其脚部を押せば、尠くも五六分の腫れは指と共に班紋を残せる程なり。斯くて直ちに筆記者をして侯の使者として大隈伯に会見、茲に本会見に移るなり。去れば侯は平井院長〔注:沼津行前医長平井〕、吉本侍医の意見を絶対に斥け、侯爵夫人の勧むる薬さへ之を謝絶し、一死を

6)
賭せられて、最後の断案を為されたるなり。
此日会見の室は、侯が病室の隣り、畳敷の日本間に、侯は「ソッファ」に掛けられ、大隈伯は安楽椅子に倚られ、筆記者は畳二畳を隔て、日本風に坐して、其談話を聴きながら、一侯一伯の注意せざるやう、自記したるものなり)
一侯一伯は久々にての面会と見へ、寒暖の挨拶と共に大隈伯は井上侯の

7)
病気を懇々尋ねられ終りたる後、井上侯は口を開かれ、
 今回の事は八日の元老会議にて一応西園寺侯へ侍従長より電報を打ちて上京を促されたるが、西園寺は病気にて上京出来ぬとの電報参り、茲にあなたに御目に掛ったのです。本来自分は既に身体廃物となり、殊に桂内閣以来薩長打破の機運茲に至りたる上は、国論民意の赴く所に鑑み、二藩出身の人に此局面に立つは宜しからず

8)
と考へたるなり。勿論山県も此意見には同意して、既に山本総辞職後に七人の候補者を第一元老会議に出されたり。即ち徳川、大隈、加藤、清浦、伊東巳代治、平田、寺内と斯う云ふ順序であつたが、そこで清浦がやることになつた内情に付ては種々の事情もあつたやうであるが、さて清浦内閣は成立せず、徳川も辞した訳であるから茲に順序として当然君を推薦しなければならぬ(勿論巳代治とは西本願寺の

9)
問題があるが、是は今もう問題外である。本来自分は一番初より君を推薦したもので、八日の元老会議の成行を語られ)、最早今日となりては大隈伯を除くの外断じて此紛糾せる時局を収拾する人はないと云ふことを自分は発議したのである。其時の話に山県にも松方にも向ひ、皆過去の感情を抛つてさうして一致の行動で以て助けなければならぬと云ふことを話したが、それから

10)
愈々十日の宮中会議にて御大変はあるし、一日はおろか一刻も早く後継内閣を造らなければならぬと、断然自分は君の推薦を主張して、何れも之に同意をせられたが、さて同意後に誰が大隈伯に交渉して呉れるか、井上が一番大隈とは親しくもあるからと言はれて、茲に君と会ふのは実は他の元老と共に種々話あふた国政の諸問題に関して君と一つ論じあふて見やうと云ふ話である。勿論山県にも松方にも、決して

11)
過去の感情なぞを有つては居らぬと言ふた……。
 や、自分はもう君とは一番親しくて、随分喧嘩もしたが、又直ぐに仲が良くなつて、安心するのは君だけである。山県との関係はどうも何だか変で、是は伊藤も多分さうであつたろうと思ふ。又松方との関係は、松方内閣時代に松方が悪いのではなく、高嶋だの其他に誤られて、とうとう松方は世間で云はれた檀ノ浦まで行つて滅亡と云ふや

12)
うな三十日間の内閣、其時に我輩と松方の意見は分れて、終に是はまあさう云ふやうな訳になつた。併し(と大隈は声を励まし)此時が薩摩勢力の滅亡であつた。爾来薩摩に政治的に働く人はなかつたのである。そこで先頃山本が出たが、或時山本に自分は直接に言ふた。おれが会はぬで悪口を云ふ攻撃は寧ろ空砲であるが、加藤などは実弾を込めて今に射撃するぞと言ふた。且つ又床次にも早く山本に辞職せよと

13)
言ふた。実際彼の開拓使払下の時にも黒田が辞したから世の同情を取つたではないかとまで語つたが、それも聴かず、終に人気を薄くして今日に及んだ。
 如何にもさうです。一体山県も松方も君に向つての感情、又自分と君との間にも感情もあらうが、前きに言ふ通り、自分は両人に向つて此際過去の感情なぞに拘泥してはならぬと云ひ、又山県が初から君を推薦したことは事実である、併し政友会のやり方を見ればまるで薩摩と提携し、まあ見給へ、あの

14)
大岡を以て文部大臣にまでするやう様となり、唯政党の拡張を以て憲法と心得るやうな、終に憲法の本義までも誤解するやうになり、又西園寺も自分に云ふたことがあつた。政友会には人が無くて困る、斯う云ふ次第から前申す通り君を推薦したのである。所で君が引受けて呉れるか呉れぬかは分らぬがと云ふことから、自分が、宜しい、分らぬけれとも大隈とは自由に自分が相談が出来ると云ふたら、皆が云ふには、それが出来れば結構で

15)
ある、斯ふ云ふことで君と此処に会ふて色々自分の懐いて居る意見、即ち曩の八日に元老会議で他の山県・松方も同意した意見を君と論じ合ふて、さうして君がそれに同意であつて、さうして決心して立つて呉れると言ふことになるならば、更に改めて山県・松方・大山に会ふて話して見たいと思ふ。八日の元老会議に自分が二時間以上話した要点は、仮令西園寺が立つにしても大隈が立つにしても、国策の根本を定めて行かなければならぬ。それには

16)
財政の点から自分は斯う云ふ話をした。丁度西園寺内閣のとき、即ち明治三十八年九月と覚えて居るが、予算の問題に付て自分の所で西園寺を始め伊藤、松方其他にも議論し合ふたのが、其時の予算に先づ議院建設費とか、それから世界博覧会費、官営製材所費と云ふものがあり、丁度西園寺、寺内、松岡、阪谷などが居つたが、土台の財政の根本からして調理して行かなければならぬぞ、付ては此世

17)
界博覧会を開いて見た所が、多数の外邦人が来るが、「ホテル」などの設備をどうするかと云ふたらば、東京だけは補助を致します、宜しい、然らば大阪、京都、奈良と云ふ方面に外国人が行つたときはどうすると聴けば、それも少しは補助をしますと云ふから、宜しい、然らばそれ等の外国人が博覧会の済んだ後には始終日本に来るものではないが、其補助した後の「ホテル」をどうして経営するか、斯う云ふた所が、

18)
それには返答が出来ないから、終に是は止めて仕舞ふが宜いと、まあ其費用は削つた。又第二に議院の建設費と云ふものがあつたから、今日の議員が憲法の精神は知つても居らうが、予算や財政などの分つたものは一人も無いぢやないかと云へば、家ばかり立派にして内容不整理の議員には、まあ今の議院位で沢山だから、此建築の費用も削るが宜い、それから第三に官有製材所のことであつたが、斯んな所に持つて来て

19)
製材所を拵へてもどうして算盤が立つかと松岡に聞いたらば、松岡が云ふのに、一千何百万円かの資本で二千万円宛一年に儲かると云ふから、然らば試に問はん、自分が今爰に山を持つて居る、さうすると其他所も買ひ、立木も買ひ、而して所得税、諸税、附加税、営業税、総てを納めて行くが、政府が之をやると云ふ時になれば、土地の費用、諸税の費用がない。其上に官吏を置いて、さうして其支配をしなければならぬ、其拵へた木材は民間へ売る

20)
に付てはどう云ふ方法であるか、恐く民業を圧迫する結果となるではないかと云ふて聞いて見れば、果せるかな答が不充分であつたから、そこで其官有製材所の維持方などのことに付ての案は一つもないで、終に是は止めた。要するに官営事業と云ふものに付ては政府が人民の事業を奪ふてはならぬぞ、なぜと云へば官業は人民の租税を以て資本とし、即ち無利子の資本を以て、而も所得税、営業税を始め、総ての諸税を払はずして、

21)
さうして人民と利を争ふと云ふことになるから、さうなつた暁は富国強兵に非らずして貧乏強兵であるぞ、抑も国家発展の大根本は民富まずんば国大ならずである、貧乏強兵の場合はどうする、万一外国と事ある時には資本を外国から借入れなければならぬと云ふことで、此製材所の事も、あの政友会の馬鹿共があれは大倉が運動したからと云ふて、終に其費目を復活したと云ふやうな訳である。其他大蔵省で酒を造つて見ることにも二三十万なるも、

22)
其販売の方法はどうするかと云へば、是等もまあ民業との比較上、こいつも充分忠告して見た。それから又千住に陸軍の方の羅沙の製造所があるから、是は寺内に聴いた。何の必要があつて之れを立てるかと云へば、注文しても民間では見本と合はぬから、それで外国品を買はなければならぬ。斯う云ふから是も同一の論法を以て民業圧迫になるぞよ、そこでこの官有羅紗製造所の如きは寧ろ民間に払下げるが宜いと忠告した。又其次に陸軍で缶詰を

23)
やつて居るが、是はどう云ふ訳かと云へば、能く知らぬが出来る、是は戦時の用意だと斯う言ひ、「アルコホール」を製造するから之を聞いて見ると、矢張り同じやうなことを云ふ。斯ふ云ふ訳で人民の業を奪ふと云ふことになつては、人民側から見れば租税を出し、所得税を出し、相続税を出して、それを資本として、さうして自分の業務と競争するものを拵へると云ふ結果になる。此の如き経済上の基礎では国は潰れるぞ、故に此経済上の基礎を鞏

24)
固にして、而して後に財政の許す範囲に於て国防をせなければならぬ。所が其国防に付て海軍は勝なことを海軍側から言ひ、陸軍は陸軍側から勝手を言ふ現時の有様で行つたならば、日露戦争の如きことが将来に何処の国とでも起つた時分には、もう外国は金を貸さぬ、外国が金を貸さぬければ軍備があつた所が終に資金が乏しくなつて、外交は如何ともすることが出来まい。畢竟国防は海軍と云はず、陸軍と云はず、其海陸に聯絡を

25)
附けて、さうして両方競争の弊を抑へなければならぬ。実に此聯絡≪コンビネーション≫は独り海陸の方面のみならず、各省も其通りであつて、政府の専務者と人民との間に聯絡が無い、先づ其事に付て広軌鉄道の時も同一の意見を自分は言ふた。広軌と云ふ「ブロードゲージ」は主義に於ては宜しい、併し実際を見よ、其広軌鉄道の材料たるべき若松の製鉄所のことに付ても既にもう四千八百万円の元手を入れて置いて、さうして二三年

26)
前の統計を見ても、日本で使ふ「レール」の輸入高の十分の一もまだ其若松では造れぬ、そこで造れぬのみならず、其若松製鉄所では大砲も造れば鉄管も造れば釘も造ると云ふやうな万屋をやつて居る、さうして其製鉄所費はどうするかと云へば、若松は陸軍の御用を務め、室蘭は海軍の御用を務めると云ふ。是ほど「コンビネーション」のない事業と云ふものが何処にある、詰り兵が強くなつても此の如き組織では民は貧しくなる、故に此製鉄

27)
所の如きも宜しく民業に移すべしと私は勧めた、兎も角も博覧会は延期となり、製鉄所は右の如き訳で、政友会の故障に会ふて復活せられた。其時に自分は原を呼んで、なぜ斯う云ふ無謀なことをするかと云へば、多数の意見でございますと云ふから、貴様等は多数にて国家を打壊すものであるぞと斯う云ふた。其時原が、来年は製絨所は払下げませう、斯う云ふて居つたが、やかましく私は言ふてやつた。
 や、実に其通り。戦後例の

28)
積極主義、官業主義と云ふものをやつて、さうして政友会が此財政を膨張させたが、さて君の言ふ予言が着々当つて来た。一体其時は政府から国民に至るまで借金で浮かれ浮かれて居つたのが、漸く目が覚め掛つて来た。
 所で其目が覚めたにしても、亦山本内閣になつて見ると、是も亦以前と同じことで、根本的の経済政策と云ふものがない。従つて財政並に国防の上に於ても同一の結果である。次に自分の外交に対する各元老に

29)
対しての御話をしませう。
そこで外交の事に付ては、先づ支那に於ける一例を見ても、各国の事業家は支那に行つて、充分に其利源を調査し、さうして公使は之を助けてゆくと云ふ「コンビネーション」があるが、日本は全く之に反して、外交と商売人との間に聯絡がない。浙西の石油のことでも、南清の鉄道のことでも、又満洲の鉄道のことでも、今日は独逸、英吉利、白耳義に利権を取られ、日本が優越権があると云ふ福洲方

30)
面は勿論、大冶の鉄鉱も今日は殆んど危険の状態に陥つて居る。又露西亜はどうかと見れば、蒙古に勢力を伸ばし、且又浦塩から「ダーブル」線を以て段々満洲にまで及んで来て居る。斯う云ふ有様になつて外国人の方は支那に於ける運動がちやんと「コンビネーション」があるが、日本は少しもそれが無い。今の侭では招商局の大冶の鉄鉱も英吉利に取られるだろう。又支那に於ける総ての勧業事業は英国が之に資本を投じて行くと云ふやうに、百事

31)
機会を失ひ、各国にのみ利権が取られるのみ。尚ほ其上に租借の期限も数年後には来るが、支那から返金をして、さうして日本に立去れと言はれれば、こいつも容易ならざる問題になる。外国人は申すまでもなく、支那の富源と云ふものは公開であつて、而も其種類は豊富であるから、独逸でも貸金をして置からと云ふことで、露国は事実満洲を勢力範囲に置くのみならず、曩の浦塩の「ダーブルライン」から見ても、此の如き有様で行けば

32)
露国は既に蒙古より黒龍江、終には長白山にまで其勢力が影響して、日本は勿論満洲より退き、又満洲から退いたる日本は朝鮮を防ぐことも先づ出来ないことになる。斯かる有様になつたば、先帝陛下の御遺業と云ふものは全然破壊せられて、国家将来の危難と云ふものは実に容易ならぬ。そこで国防論として海軍の拡張、又陸軍は桂以来二箇師団説を出したが、其時に自分は西園寺に注告して、日本の

33)
財政の状態に考へて見れば、到底海軍陸軍と孤立さしてはいかぬから、海陸の密着の関係を附けて国防会議を開き、さうして外交の大方針は元の日英同盟があるから、更に露国と親密提携して、露仏の関係より見て日英露仏と云ふことで、支那の保全をなすと云ふことを外交の基礎と為して行かなければならぬ。即ち外交の基礎が定つて始めて国防の計画に移り、始めて国防の計画

34)
を財政と対照して行かなければならぬと云ふことを忠言した所が、西園寺は原、松田をも呼んでも宜いかと云ふから、無論宜しいと云ふて之を呼寄せた。そこで当時総理大臣邸に集めて苦言したが、其結果はどうであるかと云へば、御互の足のやうに皆びつこびつこに一つも行われなかつた。斯う云ふ有様になつては国家将来の維持と云ふものは実にむづかしい。そこで御同様、余命幾年かある。君にしても我輩にしても、実に是は

35)
先帝陛下に対し奉つても相済まざる次第である。又今の若きものは唯口ばかりで、御同様に維新のときに命掛けになつた程の決心の有無は疑問だ。加ふるに教育の根本が此通り悪いことであるから、出来た人間も寧ろ代言人的のやうの有様になり、人格と教へる教育との間にも是れ亦聯絡がないと云ふ有様である。又先程言ふた鉄道の如きも、要するに本線だけは国有と為すも、枝線

36)
までも国有にする必要はない。寧ろ之は人民に任した方が国家の経済になると云ふことを桂内閣にも忠告して来た。丁度之が七年以来の我輩の持論であるが、いつも此議論を言へば人は消極と言ひ、消極は井上であると斯う云ふ風に言ふて今日まで及んだことだが、さて大体論として官業を民業に移すと云ふことはあなたも御同意だらう。
 勿論さうです。
 そこで海軍問題に移るが、今の

37)
海軍省中にも革新派がある……
 併し加藤友三郎の如きは矢張り山本、斎藤あたりの陰謀に加担したやうであるが…
(此時筆記記者は)それは違ひます。山本財部等は加藤を陰謀の道具に使はうとして不成立になつた。海軍費を何とかして拵へさせると其難題を清浦に持掛けて、清浦内閣が瓦解すれば直ちに居直らむと云ふ魂胆があつたですが、不成立の海軍費用は勿論国防上必要の費用として、加

38)
藤は是の支出方法に関して清浦に責任ある要求を為しましたけれども、そこは君子は義に悟り、小人は利に悟るの相違で、確に加藤友三郎氏だけは此陰謀の中には這入りませぬ。又清浦が愈々臨時議会を開くと云ふ場合には加藤友三郎も承知しやうとしましたが、直ちに私は加藤に通じて、臨時会議が開けても清浦が政友会に降参して、政友会の多数を以て海軍費が通過するとしたならば上院は

39)
反対する、况して清浦は超然主義をやる以上は下院も反対する、然らば不成立の費用は終に成立の目的がないから、若し清浦が臨時会議を開くと云ふならば、其上下両院を通加する政策方法は如何であるかと云ふことの箇条を覚書にして貰ひ、之に他の閣臣全体の調印を求むる必要があらうと云ふて、終に加藤と清浦との談判はそれまでに進みませずして中止になつたのです。
 はあ、それでは君の策戦であつ

40)
たか。
(望月は手帳を出し、四月二日海軍軍令部、秋山少将を海軍省に訪ひたる以来、水交社及ひ徹夜にて加藤友三郎氏の旅館に最後の談判を試みたる逐一を語れり)
 先づ自分の考にては、財政の基礎が鞏固にならずんば国防は効能のないことであるから、一二年延ばしても宜しい。此際人民の負担を軽くし、さうして国防は海陸一致の

41)
聯絡的方法を執るが必要であると信ずる。
 如何にも国防会議は外交より割出し、財政を顧み、斯くて大蔵、外務、海陸と内閣にて聯絡を取り、財政の調和を図りたいのです。
 即ち君も我輩の意見と同論と見えます。そこで今回は旁〃以て内閣は実権ある人に委托の必要が起つて来て居つたことから君を煩はすやうになつたが、就ては此の如き大方針でやる以上は、其閣員たるべき人々も

42)
唯世間の評判が好いとか悪いとかにて用ふるべからざることは言ふまでもない。殊に政党の弊害が中央のみならず、各地にまで及んで居ることの有様や、就中政友会の横暴に至つては実に容易ならぬ。
 や、政友会は恰も寄生虫の如きもので、政権から離るれば直ぐに死にます。
 もう政友会は悪摺して居りますが、なに非政友の側に於ても、先づ同志会の九十名、尾崎派の四十名

43)
(此時伯は筆記者を顧みて右の如く四十名を確め)次に国民党の犬養は気が変になつて女の「ヒステリー」のやうであるから、犬養だけはどうか分らぬが、いかぬ場合には之を打破しても二十名ある。さうすると茲に百五十名は先づ手の裡に在る。況や政友会は権力と経済の力を以て今日まで其党勢を拡張したのであるが、今度は権勢から離れて来れば、彼等の党勢維持もむづかしくなる。加ふるに新聞は皆我味

44)
方である。例えば報知新聞の如きは一例にして、今日は一日の広告一千円以上なり、其他大阪毎日の如きは最早一年五六十万円も儲かると云ふ立派な営利事業になつて居るから、商業主義が這入つて居ると共に当にはならぬが、先づ以て国民々意は我党のものである。それ故に政友会が政権を離るれば恰も烏合となつて来る。是が原が困る所以である。
実は我輩も最早山県と同年の老耄となつて居つて、おまけに一本足

45)
であるから、一層加藤を推薦しやうとしたが、加藤もぐずぐず言ふて居られるが、
 加藤にてはなかなか此時局は納らぬ。又愈々政友会と争ふ場合には君が立つて、さうして総理となり、加藤を外務大臣と為せば政友会は従つて崩れるだらう。
 なに、政友会の人心を失つて居るのは実にえらいもので、先頃も政友会の根拠地たる金沢に行つて演説をして大打撃の攻撃を加へたが、

46)
一人も異論者はなかつた。其他加賀筑前より各方面を演説して見たが、何れも政友会の地盤は既に動揺して居る。故に政友会は政府より離るれば回復の見込はなからう。且つ又政党の弊害が今日の如くなつては国は危い。要するに是は政友会が戦捷に酔ふて例の積極主義をやつた結果であるから、此際大英断を以て若手を用ひて行きたい。
 如何にも御同感で、政党の弊を矯正すること、国費の濫費の弊を

47)
矯正すること、官吏の不規律を正すこと、海陸相争ふ国防を直して行かなければならぬ。それに昨年来薩長征伐と云ふ国論が奮起したが、独り国論のみならず、薩長の若手連中までも御互に排斥すると云ふ有様で、まるで文久、元治の旧時代と同じことである。故にこう云ふことでは国は潰れる。
 まあ、さう云ふ訳だから加藤をやらせやうと思ふて、そこで大革新を起さむと企て、加藤にやれと勧めたけれとも、加藤の言ふには、迚も自分では内が

48)
纏りませぬ、先輩として気の毒ながら国の為め兎に角元気を入れてやつて呉れよと言はれて居る、併し君も知つての如く、山県にしても自分にしても亦君も最早日本の実際の政治圏外に居つて既に之れ数年になつて居る、そこで其後桂とか山本が、終に二人とも政友会と云ふものと聯絡をした結果が今日の官紀紊乱、「コンミツシヨン」の騒動、海軍のみならず各省にまでも「デスプリン」なるものが全く無くなり、

49)
終には道徳の根源も破壊し、世界の不信用を是までに起して来た。此の如く御同様は此九年間実際の政治に與からず、聞く処に拠れば松方すら薩摩の連中に忠告したさうであるが、それも聴かれず、さうして今日の有様になつたのだから、此九年間の過りは、山県も松方も、大山も君も僕も御同様、責任を以て之を救はなければならぬ。
 いかにもさうだ。此儘では亡国となるより外はない。

50)
 不思議なことは貴族院の温和派すらも最早政友会の横暴を嫌ひ、終に癇癪玉が破裂したと云ふやうな訳だ。加ふるに帝国憲法は二院制度であるのに、あの政友会が一院制度の説までも立てると云ふが如き憲法紊乱の処置は、まるで仏国に於ける革命時代のやうな訳で、此の如き有様では国家は追々と滅亡の運命を早ふするのである。
どうだらう、一体山県や松方は本当に我輩を推薦するだらうか。

51)
 いや、松方、山県の本気は勿論、又あなたも松方、山県に対して色々の感情もあらむが、総て過去を一掃し、皆一致共同にやらうと云ふ相談をしたのである
 本来伊藤が政友会を拵へたのは政党改造の目的であつて、其の宣言の如きは実に立派なものであつたが、それは改造の希望のみにして、結果は改悪となり、西園寺に至つて劣悪となり、終に薩摩と結び附くやうになつてきて、今日の政友会は実業にしても、取引所問題にしても、

52)
又は軽便鉄道を敷設するなどと云ふ請願に付ても公然の群盗同様で、決して国民の真個の多数ではない、良民は寧ろ苦んで居るものである。所で山本は海軍育ちで経済などと云ふことは一向分らないのだ。
 さうだとも。それで根本政策が少しも無いのだ。
 一般の政策の上に余り聯絡がないで、総てのものが非文明である。
 さあ、さうであるから皆山県も松方も君も一切従来の感情を一

53)
掃して、過去のことは何事も之を言はず、さうして元老は一致して君を助けたいと云ふのである。それだから迚も此時局に当つて若い人や中途半派の者が出たとても駄目だ、一体山県が今度も松方を一応推薦したと云ふこともあるが、其時にも余は薩摩人は断じて出るべからずと言ふたのだ。一体海軍の腐敗と、之に対する国民憤慨の意思とは、なかなか松方すら出てはならぬ。それ等の事情は望月から調査して話されたが、要するに今日の

54)
事態は国家の迷惑、外国の侮蔑を招くことになると云ふて、司法官が一反の反物の贈物までも極端に調べると云ふやうな風までに及ばずとも、大体の上に於て此刷新をして貰いたい。それだから今日薩摩のみならず、政友会も国民が厭ふ。又厭ふべき訳である。
 まあ政党が銀行と結託したことに付ても、あの野田卯太郎が先年勧業銀行の副総裁になりたいとか云ふことで、又桂も私の所に来て

55)
其話をしたから、大に我輩は其非を鳴らした。政党が勧業銀行即ち各府県に於ける農工銀行の親銀行であるが、其政党が勧業銀行及び農工銀行を利用されるに至つては、弊害は容易ならぬぞ。若し野田がそんな者になるなら、おれの所に出入りはならぬぞと云ふたらば、終に桂も二三日後謝つて、さうしてそれは取消したことがあるが……。
 なにあの野田の奴は政友会と薩摩とを聯絡さしたのです。

56)
 一体彼は筑前の貝島や麻生におれが頼んで尽力して貰つたのが、さう云ふことをやるやうになつて来たから、此頃も電話を掛けてもをれが出入を許さぬで断つて居るのだ。
 如何にも地方の農工銀行を政友会が利用して来たと云ふことは、畢竟是は桂内閣の時以来で、桂が政友会を膨張さして、終には其飼犬に手を噛まれたのである。此勧業銀行、農工銀行の如きは断じて党派の私の機関たらしむべか

57)
らざることは、将来の発展に付ても勿論の次第である。本来国家の政治の半ばは財政であつて、其十三億の生産力、又其中の海外輸出の六億の生産力と云ふものは、全く人民の働である。其人民を馬鹿にするやうな政治を行ふものでない。製鉄業と雖も既に是は五千万円掛つて居るが、之を御説の如く民業と為さば、必ず利益があるに相違ない。
 や、五千万円を其侭の資金にて民業と為すことはむづかしからう

58)
が、まあそれは値段を低減するとして、前年来自分は言ふて居る、日本には製鉄の材料としてはどうしても大冶鉱山を日本の手に取つて置かなければならぬ、さあそれをするのには支那人と日本人が株主となり、又支那人を我若松製鉄所の株主と為す、さうして大冶と聯絡を附けたい。
 さあ、さうなれば支那人のみならず、英人も出して、一億万円位の資本は訳はない。
 実に製鉄事業に付ては

59)
砲兵工廠で軍器のみならず水道の鉄管までをも其暇には造ると云ふやうな訳で、是では人民の不利、経済の不都合は言ふまでもない。
 併し昨年の民論に攻撃された為め陸軍も良くなつたと同様に、今度は海軍も段々改良するであらう。
 国防はどうしても海陸共同してやらなければならぬ。
 外交が本で、財政に顧み、陸海軍の茲に一致した国防が国の

60)
土台です。
 さあ是が即ちあなたを推薦した訳であるが、本来自分があなたを推薦したのは、丁度望月も知つて居るが、三月二十五日望月が興津に来りし以来、君以外に時局を収める者がないから君に決心して呉れろと望月に伝言をしたが…(と余を顧み、望月 如何にも伝言致しました)
 承つた。一体我輩は政党には無頓着である。伊藤から曽て

61)
政友会の副総裁になつて呉れと言はれたが、国家の為に必要ならざる政党はおれは御断りであると言つた。陸軍は去年の打撃で有望となり、海軍は今年の打撃で又将来有望となるだらう。そこで自分は、どうぞ此政党の弊害を駆逐し、打破し、丁度陸奥が条約改正をして終に憲法の発布に至るまで国家を導いたと同じことに、天下の人心は今や現状に倦んで居るから、飽まで後進の途を

62)
開き、乱暴なる政党の利己主義は之を打破して行きたいと思ふ。
 時に奥田義人は役に立たうね。
 良き人で、行政の技倆はあるが、今度は文部にて縮尻り、次官、局長より侮れたと云ふやうな訳、又政友会員ではあるが、自分の学校にも講義もし、品格の人であるが今回は誠に残念した。
 役に立つ人は過去を顧みず之れを用ふべしだ。所で大蔵は誰にするへ。

63)
 今日突然望月君より寝耳に水の御相談であつた故、自分もまだ考は附かぬが、是と同時に政友会薩派の陰謀と云ふものは斯ういふ訳になつて居る……(とて伯は政友会と国民党の犬養と岡崎とが聯絡をし、高嶋を担がんとの陰謀話をし)、要するに政友会には外交も国防も其眼中にないのだ。
 岡崎はどんな男ぢや。
 あれは学問の無い陸奥である。

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 権兵衛も悪いよ。辞職後に南満鉄道へ樺山や改野などを入れる。
 いや、薩摩は今日は政友会の手先となつて居る。
 所が政友会には今は人が無いではないか。
 それに松田は死んだ。此人は人望があつたが原ではなかなか纏めることはむづかしい。
 原ではむづかしいよ。
 政友会は無論我輩に反

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対しやうが……。
 反対、何でもない。野田が今、朝も原が是非面会をしたいからと言ふて来たが、おれは断つて言ふた、政党の人は嫌いだと。要するに政友会に向つては大打撃を加へなければ国家の為めにならぬ。
 や、御互に考へれば、明治の御維新も先帝御遺業もあのそら条約改正ね、さうして法治国となつた、あれは実は君の功だよ。

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 あれはあの改正に付ては、君の功であるよ。
 それから改に条約改正になつて、其条約改正後が茲に憲法となつて来た。其憲法は今や之れを害用せやうと云ふ訳だ。
 実は明治天皇の大業を助けられた山県でも、君でも、松方でも我輩でも、是ではとても瞑目が出来ないよ。そこで御相談をして段々相続者と云ふ若者に途を開かなければ実に先帝陛下に対して

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相済まぬ。
 実に其通りだ。
 さ、さういふ訳で今は実に国難である。それ故に一致して此悪弊を打破せようと云ふ決心を以て、各元老会合の席にも自分は一切御互に過去を打切つて、唯国家の為めに充分一致の働をしやうではないかと云ふ訳から、茲に君を煩はすこととなつたんだ。
 加藤をやらして見たいと思ふ。
 それにても又話が長くて元老を

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を持廻るとか。それに加藤では迚も此時局が収まるべき筈がない。
(此瞬間大隈伯は沈黙せる故、望月は口を挟み)
 いや、今度は加藤さんにも打明けて交渉して居りまするが、加藤さんは断然自分は其任に当たらぬと云ふて辞退致して居りますし、又伯も私に向つて大命下らむか、断然国家の為めに立つ、斯う云ふ御決心であるのでござりますから、

69)
老公そこは御安心遊ばして宜しうございませう。
 ああさうか、それで安心だ。
 いや勿論宜しい。
(此時時間迫りと見え、大隈伯は立つて)
大 ああ我輩は今晩皇太后陛下に御迎ひに是から新橋に行かうと思ふから。
(とて立上れり。此事は井上侯は知らざりし容子に付き、望月は重ねて

70)
 然らば大隈伯は断乎たる御決心を以て今晩御引受になつたことと定つたのでござります。誠に国家の為めに老公慶賀の外はござりまませぬ(と両侯の間に立つて語れり)。
 望月は我輩も深く信用して居る、君も信用して居られやう。
 さうとも。
 それならば向後両人の件は勿論、各元老間の聯絡を取る書記役としてなり使ふこととせやうから君も安心して……。

71)
 ああ勿論宜いとも……。
 それなら更に他の元老との会合の時日を定めて……。
 明後日より廃朝に付き、成べく急激に御大命の下さるるやうに……。
(此時既に伯は立てり。望月は伯の腕を護りて自働車に行く。廊下の途中伯は望月に耳語して、
 拙速を貴ぶから其意味で井上侯へ報道し給へ。
 承知しました、併し直ちに

72)
伯は明朝加藤を御呼びになつて御相談なさらぬといけませぬぞよ(此間山県秘書官、入江子は入つて井侯に面会せり)。
(望月は大隈伯を送り、再び井上侯の室に帰り来れるに、
 明後朝元老の会見とせやう。今夜は遅いから松方、山県へは明朝入江がそれを確め、君は大隈の所へ行き、且又おれは加藤と会ひ

73)
たいから、それへも手続をしやう。
 尾崎も同席の御積りですか。
 尾崎、加藤の間柄は……。
 まだ意見が充分疎通とも見へませぬ。
 然らば明朝は加藤丈けにして尾崎は其後にしやうぢやないか。
 ああそれにて宜しうござりませう。
 加藤は明日は十時以後何時でも宜いから、それから又君も必ず来会して居らぬといかぬよ。

74)
余は重ねて感激の誠意を表して帰れり(此説終)
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