史料にみる日本の近代 -開国から戦後政治までの軌跡-

備忘録 七

備忘録 七

※ 昭和10年3月12日の部分のみテキスト化しました。



三月十二日 火 晴
午前九時半出勤、乗馬。
岡田午后一時に入り来り、次の如く進言す。
士官学校生徒を退校の処分に附すれば大なる騒動を生する恐あり、根本も土橋も同意見なりと云ふ。次に各新聞共に陸軍の内部を曝露せんとかかりつつあるも、根本一人にて之を押へあり。次に予が平素唱へつつありし三月、十月の事件の干与者を中央に呼び戻すことを速に実現すれは大に緩和すへし。
之に対し予は、第一問題に就ては軍法会議の処理終る迄は予の意見を述る能はす、第二は予の初て知る処にして、根本に就て直接に詳細に承り度しと、第三は一人て思ふ様になかなか運はす。
午后二時半荒木を訪問し、昨夜柳川の電話にて不明なる点を糺す。例により只荒木は各種の場合を理論的に研究考案しあるに止まり、実現困難なることのみなりし。例へは今回の事件を永ひかしめて一方に悲鳴を挙けしめ、后徐々に理解せしむるか、或は自然の成り行きに任せ混乱に陥りたる后処置するか等の如き考案之なり。又荒木は生徒は退校処分に附せさるを可とする意見を有せり。予も或は然らんとの考を生するに至れり。
午后五時大臣の招きに応し官邸に到る。次長も来合せあり。大臣は官紀紊乱問題、床波問題に答弁したる要旨を説明し、又今回の美濃部問題に就て今日迄答弁したる要旨を説明せり。林の意見にては美濃部説は承認出来す、学説としても消失するを希望するも、此か処置に就て他の関係と共に慎重に考究すと答へ、斯る意見を有するか如し。之に対し予は今日迄の経過に於ては其にて可なるも、今後内閣が曖昧に附する場合に如何にするか、又一般殊に軍人の動き甚たしくなりたる場合に如何にするかは大に考へさるへからす、軍人の動きにより已を得す大臣が言明せりと云ふ工合になりては、甚た面白からさる結果を生するにより、其の決意言明の時機に就ては考慮を要すと注意し、大臣も同意せり。
又士官学校問題にて陸軍省の一部に教育総監部の依嘱により本事件を処理しつつある如き口吻を漏すものあるは心外とする次第を述へ、予か調和合一に導かんとする気持を理解せさることを説明し、之を処断して事なからしむる為には双方共に取調へさるへからさることを述へしも、彼は例によりよい加減に躰を合せ居るのみにて何等の定見なし。
午后六時晩翠軒に於ける水町家の三週忌に臨み、食后一同の注文により予の排斥運動の起る理由の概要を説明し、八時半に帰宅す。
牧四時半に来訪、八月には荒木及予を待命にす、又予等に対し将校の暗殺団あり、予と荒木とは離間しあり等の宣伝行はれつつあること、其他大臣を交代せしむるの急務なることを力説し居りしも、予は単に承りおけり。
石井五時に来訪、幸男入学の件に就て報ぜしも、彼の云ふことは当にならす。
Copyright © 2006-2010 National Diet Library. All Rights Reserved.