盛岡藩士。父は盛岡藩主の南部氏の一門であったが、父と対立して定禄を没収され、南部を称することも禁止されて、一時期、東姓を名乗る。その後許されて16歳で近侍になり、嘉永6(1853)年家老となる。藩内保守派と対立したが、大参事となり戊辰戦争の敗戦処理にあたった。後に外務省に入り、清の芝罘(現煙台)初代領事となる。明治19(1886)年退官。