裁縫教育に生涯をささげた。江戸の仕立屋に奉公にあがり、明治元(1868)年、年季奉公を終えて郷里に帰り、仕立屋をしながら地域の子女に裁縫を教える。長南小学校をはじめに、千葉女子師範学校、東京女子師範学校などで裁縫を教授し、文部省御用掛を拝命。14年以降、私塾の和洋裁縫伝習所(後の東京家政大学)、共立女子職業学校(後の共立女子学園)を設立し、わが国女子職業学校の嚆矢となった。裁縫の練習用や訓練用の教科書を執筆し、渡辺式といわれた新しい裁縫術を広めた。