評論家、新劇指導者。東京専門学校卒業後『早稲田文学』の記者となり、文芸評論を発表する。明治30(1897)年雑誌『新著月刊』を創刊し小説も執筆。35年渡欧し、帰国後の38年早稲田大学教授となる。再興した『早稲田文学』において多くの評論を発表する一方、42年からは坪内逍遥の文芸協会に参加し、海外作品の翻訳や演出を行った。大正2(1913)年文芸協会を退き、松井須磨子らと芸術座を興し、近代劇の普及に努めた。
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