東京帝国大学卒業後、外務省に入る。中国・欧米での勤務の後、欧米局長、欧亜局長、駐独大使、駐ソ大使などを歴任。昭和16(1941)年東条内閣の外相兼拓務相に就任、日米交渉の打開に努める。翌年、大東亜省設置に反対して東条と対立し外相を辞職した。20年鈴木内閣の外相兼大東亜相に就任し、戦争の終結に努力。戦後はA級戦犯として20年の禁錮刑を受け、拘禁中に病死した。