早稲田大学卒業後、東京朝日新聞記者を経て、東方持論社主筆となる。大正9(1920)年衆議院議員となり、以後連続8回当選した。雄弁家として知られ、昭和4(1929)年浜口内閣の逓信政務次官となる。11年東方会を結成し南進論を唱えた。日米開戦後は東条英機と対立し、18年東条内閣打倒の重臣工作を企て失敗。憲兵隊に取調べを受け、帰宅後、割腹自殺した。