啓蒙思想家。父は津和野藩医。藩校や大坂で儒学を学んだのち、江戸に出てオランダ語、英語を習得。安政4(1857)年幕府の蕃書調所教授手伝並となり、文久2(1862)年から慶応元(1865)年までオランダ留学。明治元(1868)年『万国公法』を訳刊。3年兵部省出仕、かたわら明六社に参加し『明六雑誌』に論文を発表した。15年元老院議官、23年貴族院勅選議員。西洋哲学、論理学等の導入者として、多くの術語を考案した。
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