大正14(1925)年、京都帝大法学部卒業後大蔵省入省。病気で一時退職するも復帰し、昭和20(1945)年主税局長。22年、第1次吉田内閣で事務次官に抜擢される。24年衆議院議員に当選。第3次吉田内閣の蔵相となり、経済安定9原則によるインフレ収拾に尽力。26年のサンフランシスコ講和会議では、全権委員として平和条約に署名。第4次吉田内閣で通産相となるが失言問題で辞任。35年から計3次の内閣を組織し、高度経済成長政策や所得倍増計画を推進した。39年、ガン治療のため辞職。