解説
生年が文政7(1824)年とする説もある。町医の家に生まれ妻の実家の村田家を継ぐ。梅田幽斎、緒方洪庵に蘭学を学び、洪庵の適塾では塾頭になる。嘉永6(1853)年宇和島藩に出仕し、蘭学の教授を行うとともに軍政改革に参画。その後講武所教授として幕府に出仕。万延元(1860)年萩藩雇士となる。第2次長州征討には石州口軍事参謀として活躍し、休戦後も藩の軍制改革を進めた。その後、新政府に出仕し、明治2(1869)年7月兵部大輔として兵制の近代化に着手したが、同年9月京都で攘夷派浪士に襲われ負傷し、療養中に死亡した。
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