漢学者。父は商人。山田方谷、大橋訥庵、藤森弘庵らに学ぶ。備中松山藩主板倉勝静に招かれ江戸藩邸の督学となった。維新後は宮内省に出仕し、明治17(1885)年より東京大学教授を兼ね、21年文学博士。諸陵頭(しょりょうのかみ)、貴族院議員、「古事類苑」編修総裁、東宮侍講、宮中顧問官等を歴任。学問は朱子学を宗とし、明・清の学にも通じ文章に巧みで、明治の漢文壇において重きをなした。歌人の川田順は三男。