解説
明治32(1899)年前橋中学に入学。在学中に受洗し、社会主義思想にも関心を深める。37年同志社神学校に入学するが、40年退学。翌年前橋で『東北評論』を刊行するが、新聞紙条例違反により入獄し、44年堺利彦が経営する売文社に入社、機関誌『新社会』の中心的な執筆者となり、特にロシア革命の情報分析に努めた。大正8(1919)年堺らと分かれて以後、国家社会主義者として活動する。13年に『資本論』の日本初の全訳を完成させる。普通選挙制度実施に備え、国家社会主義政党の設立を準備していたが、昭和3(1928)年急死した。
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