東京法学院(後の中央大学)に学び、台湾総督府警視などを経てのちに、実業界に入り台東拓殖製糖取締役、朝鮮皮革取締役、花連港電気社長などを務める。また明治45(1912)年より衆議院議員に6回当選。憲政会総務、立憲民政党総務、顧問を務め、昭和6(1931)年第2次若槻内閣拓相、ついで鉄相を歴任。