幕臣。俊才として知られ、文久2(1862)年目付に昇進、3年に外国奉行となり筑後守を称す。幕府の横浜鎖港談判使節団の正使として渡欧し、元治元(1864)年パリでナポレオン3世に謁見、帰国後に開国を建言して隠居した。慶応3(1867)年軍艦奉行に再登用されたが病のため辞任し、岡山に隠棲した。