鳥取藩士の家に生まれる。藩校で蘭式軍法を修め、貢進生として大学南校(後の東京大学)や司法省明法寮で学ぶ。明治9(1876)年卒業後、フランスのパリ法科大学に留学。14(1881)年に明治法律学校(後の明治大学)を宮城浩蔵や矢代操と創立、初代校長となる。26(1893)年に大審院判事を辞した後に弁護士登録、36(1903)年明治大学に改組後、学長となり死去するまで勤めた。