技術者、視覚障害教育の先駆者。文久2(1862)年伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)等と共にイギリスに密航、工業技術や造船技術を習得。明治維新後帰国し、工部省に入りお雇い外国人の招聘や技術者の養成に尽力した。のち工部卿、宮中顧問官、法制局長官等を歴任し、子爵となる。また楽善会訓盲院(後の筑波大学附属視覚特別支援学校)の創立に尽くした。