伏見宮邦家親王の子。安政5(1858)年親王宣下後、得度して公現と称する。慶応3(1867)年輪王寺門跡を相続。鳥羽・伏見の戦の後、謹慎の徳川慶喜の救解を嘆願し奥州連盟の盟主となる。明治元(1868)年奥州平定後謹慎となるも、翌年許され伏見宮に復す。3年兵学研究のためドイツ留学し、5年北白川宮を相続。28年近衛師団長として台湾に出征するが、台南で死去。