政治家、官僚。英学を修め、明治7(1874)年に上京、慶應義塾に入学したが中退し、民権運動に関わり投獄される。11年に出獄後、朝野新聞社に入社。12年に「山陽新報」を創刊。13年には外務省に出仕、17年からベルリン公使館駐在。帰国後は内務省に移り、埼玉県知事、司法次官、内務次官等を歴任。33年貴族院議員となり、41年第2次桂太郎内閣で文部大臣。大正5(1916)年枢密院顧問官。
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