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名所絵の誕生

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名所の成立

名所は古くは「などころ」といい、和歌の歌枕に詠まれる特に名の立った地、名高い場所を指した言葉でした。文学、故事、神話、伝説に登場する名所、旧跡が「などころ」に当たり、実際にはない場所もありました。しかし、江戸時代になって旅行が盛んになると、名所は実際に訪れることができる場所を指す言葉として用いられるようになり、各地に「名所(めいしょ)」が誕生します。

江戸時代は政情が安定し、参勤交代によって街道や宿泊施設、乗り物等が整備され、貨幣の流通も進んだことにより、旅が安全、便利にできるようになります。庶民も平和な時代のもとで、経済的な力を付けてきました。民衆の旅は享保年間(1716-36)頃から盛んとなり、文化・文政期(1804-30)には旅ブームが起こります。

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伊勢参宮略図 (新しいウィンドウが開きます) / 広重 : ゑひ寿屋庄七, 安政2(1855)【寄別1-9-1-4】

当時、最も人気の目的地は伊勢神宮でした。というのは当時の民衆は自由に旅行することはできず、参詣・参宮のための信仰上の理由での旅行のみ許されていたためです。しかし、江戸から伊勢参りに行った人のほとんどは、参宮の後で京都、大阪まで足を延ばして、名所・旧跡を巡り、芝居や繁華街の見物を楽しんでいました。

「伊勢参宮大神宮へもちょっと寄り」

この川柳から、人々は伊勢へと言って旅に出るものの、目的であるはずの参宮は「ちょっと」で、観光がメインの目的だった様子が窺えます。

また、民衆の楽しみは遠方への旅行だけでなく、花見・夕涼みなど市中や近郊での行楽へと広がって行きます。それらの遊びは当初は武士のものでしたが、町民たちも取り入れて、楽しむようになります。江戸は徳川家康が天正18(1590)年に入府してから作られた新しい都市のため、伝統的な名所の存在があまりありませんでした。しかし、都市の発展に伴い次々と現れるスポットが名所となり、一大観光都市となります。

庶民の旅や行楽が盛んになったことで、名所は口伝えに人から人へと広まって行きます。また、明暦年間(1655-58)頃からは、各地を紹介する名所記、道中案内記、地誌、紀行文などが次々と出版されて人気となりました。(コラム 江戸名所記案内)それらにより、名所は全国的に広まり、定着していきました。

浮世絵技法の発展

初期の浮世絵のテーマは遊里(遊女)と芝居(役者)が中心でした。浮世絵のテーマに風景が取り上げられるようになったのは、享保年間(1716-1735)の末頃のこととされます。それまで風景は背景として描かれるか、または伝統的な水墨山水画の構図を木版画で表したものなどに止まっていました。

浮世絵の風景画の発展を進めた一因として、西洋から伝わった遠近法があります。西洋では古代ギリシャ美術にも遠近法が見られますが、日本絵画ではほとんど用いられていませんでした。享保5(1720)年8代将軍徳川吉宗が禁書令を緩和して、キリスト教に関係のない書物の輸入を認めたことをきっかけに、遠近法の理論や遠近法を用いて描かれた銅版画が日本に持ち込まれました。そして、遠近法は浮世絵に取り入れられ、元文4(1739)年頃に浮絵と呼ばれる絵が現れて流行します。

浮絵とは空間の奥行や距離感を強調した絵で、遠景が窪んで見えることから「くぼみ絵」とも呼ばれました。初期の浮絵を描いた代表的絵師には奥村政信(1686-1764)や初代鳥居清忠(生没年不詳)らがいます。当初の浮絵では柱や天井などを利用して、遠近法を取り入れやすい室内空間(舞台、座敷)や建築物が描かれました。その後、歌川豊春(1735-1814)により浮絵における遠近法の技法が改良され、山河や海などの広大な風景をも描けるようになり、後の風景画の発展に大きな影響を与えました。

浮絵 東叡山中堂之図の資料画像を新しいウィンドウで開きます。

浮絵 東叡山中堂之図 (新しいウィンドウが開きます) / 勝春朗【寄別2-1-1-6】

また、明和2(1765)年鈴木春信を中心に多色刷りの浮世絵版画が生まれ、錦のような美しい色合いから「錦絵」と呼ばれるようになりました。それまでは手彩色や2~3色の版彩色でしたが、錦絵では7~8色摺が可能となり、表現の幅が広がりました。それに伴い、精密な彫や、ぼかし等の摺の技法も徐々に発展し、風景や自然を描写することができるようになっていきます。

真乳山望冨岳(藍摺団扇絵)の資料画像を新しいウィンドウで開きます。

真乳山望冨岳(藍摺団扇絵) (新しいウィンドウが開きます) /
旦霞, [天保4 (1833)]【寄別7-4-2-6】

色にも変化がありました。西洋から化学顔料「ベロ藍」が輸入されて、文政12(1829)年から浮世絵に用いられるようになります。ベロ藍とはベルリン藍がなまって呼ばれるようになったもので、紺青(プルシアンブルー)のことです。ベロ藍は1704年にドイツの錬金術師J・K・ディッペル(Johann Konrad Dippel(1673‐1734))によって発明されました。浮世絵では藍の葉から生成された染料が用いられていましたが、藍では黒ずんだ紺青しか出せませんでした。ベロ藍は発色がよく鮮やかな色を出すことができたため、海、川、空などの深い色合いが表現できるようになります。天保元(1830)年には渓斎英泉がベロ藍の濃淡だけで描く藍摺で団扇絵を描いてから、藍摺が大流行します。葛飾北斎も『富岳三十六景』のうち10図を藍摺で描き、人気となりました。

人々の旅や行楽への欲求を背景に、北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『東海道五拾三次』は大ヒットとなります。これにより名所絵(風景画)は役者絵、美人絵と並ぶ錦絵の主要ジャンルの1つとなりました。

庶民の旅が盛んになったとはいえ、一生に一度行けるかどうかという時代であったため、手軽に旅行気分を味わえる名所絵は人々にとっての大きな楽しみでした。人々は錦絵を眺めては、まだ見ぬ土地に思いを馳せ、あるいはかつての旅の思い出に浸っていたのではないでしょうか。

引用・参考文献

  • 江戸名所の成立・成熟過程に関する研究-名所の魅力要素・空間構成の分析を通じて / 羽生冬佳 (都市計画論文集 39号 2004.10 p.115-120 <請求記号:Z3-992>)
  • 江戸庶民の信仰と行楽 / 池上真由美著 東京 : 同成社, 2002 <請求記号:GD15-G13>
  • 浮世絵の鑑賞基礎知識 / 小林忠 ; 大久保純一著 東京 : 至文堂, 1994 <請求記号:KC172-E56>
  • 浮世絵における「ブルー革命」 / ヘンリー・スミス (浮世絵芸術 128号 1998.7 p.3-26 <請求記号:Z11-304>)