水野龍 「海外移民事業ト私」 (憲政資料室所蔵 マイクロフィルム:移(一)-D3、紙:移(一)-ブラジル-110)
第二 ブラジル移民創始期
目 次
一、日伯移民史の扉を開く
明治二十六年か二十七年の事と記憶する。当時ブラジル国サンパウロ州は他州を抜いて興隆の一途を辿りつつあつたが、産業の急速な発展に伴ふ労働力に非常な不足を来し、之が補給に就いては当局者いづれも悩まさざるはなかつた。州政府の当事者としては農務長官カンチード・ロドリゲスがこの問題の解決に懸命となつてゐたが、偶々ハワイ、北米方面に於ける日本移民の実績を聞いて、非常に日本移民に興味を憶ゆソウサと言ふイタリアの名誉領事をしてゐた者を我国に派遣して一万人誘入計画を外務省に持ち込んで考慮を求めたのであつた。この交渉を受けた外務省でも非常に乗り気となつて直ちに日本郵船に命じてサンパウロ州当局と商議に当らせやうとした。
即ち郵船会社としては移民募集、輸送並に配給の専門会社として吉佐移民会社を別働体として有してゐたので、之をしてサンパウロ州政府指定の移民会社と実際協定を行はしめやうとしたのであつたが当時吉佐移民会社はハワイ移民の仕事が手一杯で到底南米東岸へ一万人を送るなどと言ふ余裕がなかつた。政府と協議の上、対伯移民の輸送のみを以てしても別に一社を設けて専ら之に従事せしめ得る見込がついたので、茲に新たに独立した対伯移民会社を郵便の傍系会社として設立することとなつて、佐久間貞一を社長とする東洋移民会社が誕生するに至つたのである。この間外務当局、吉佐移民会社はサンパウロの当業者と種々の接衝を重ね、東洋移民設立と共に一万人送出計画を樹立し、一船約一千人、十回輸送と言ふ事になつたが、郵船には当時一千人を輸送し得る適当の船舶がなかつたので新たに外国より一隻購入することとなつた。即ち土佐丸事件で有名になつた「土佐丸」がそれで某国から廻航の上神戸で移民船として艤装せられ、明治三十年八月十五日を出帆予定日と決定し、一千五百の移民もそれぞれ船宿に集合して旬日に迫る船出を待つてゐたのであつた。
然るに八月五日に至り、突如サンパウロの当業者竝に政府筋から「珈琲価格暴落、財界に恐慌を生じ、契約労銀の支払等到底不可能故移民送出を中止されたい」と言ふ驚くべき飛電があつた。待期中の移民の間には動揺が起り形勢は重大を極めたが、東洋移民会社は逸早く移民の損害を賠償しそれぞれ国許に帰へす等手を尽したので社会の批判を蒙ることなく円満に事件を解決したのであつた。若しこれが、前章に述べた如き悪徳移民会社であつたら、必ず移民と会社との間に衝突を生じ、血を流さずには済まない事件であつたらうと思ふ。何としても、その時の東洋移民会社の態度は極めて立派なものであつた。私は今尚ほ、土佐事件があの様に無事に納まつたことを喜はずには居られない。煩幸にも、第一回ブラジル移民輸送の企図は斯くして水泡に帰したのではあるが、対伯移民史の扉を開く本事件の解決が何等の不祥事件もなく行はれた事は何たる幸であつたらう、、、、、、、。
土佐丸事件は我々日伯関係者の忘れてはならぬ歴史の一頁なのである。
二、皇国植民会社ブラジルに嘱目
さて、話は我か皇国植民会社の生業とブラジルへの進出に戻る。
明治三十七年開業以後、我か皇国殖民会社は他社の圧迫に抗軍しながらよく正義の為に闘つた。その間不正義は屢々魔力をふるつて我社の存在を脅かし、不当なる当局の営業停止処分とまでなつた我々を苦しめたが、断乎所信に邁進しつつ日露戦争の影響による苦境を切り抜けることが出来た。
明治三十八年四月前通商局長で杉村陽太郎大使の父君である杉村濬氏か駐伯弁理公使に任命せられ赴任を見たのであつた。
然るに同氏着任に先立つて日露の役は我か陸海軍の大勝利を以て終熄し、我が武勇は中外に普く宣揚せられ、杉村公使は恰も凱旋将軍の如き歓迎を受けつつジヤネイロに到着したのであつた。当時伯国が如何に日本の勝利に歓喜したかは、その頃生れた赤子にトウゴーレー・ノギなど、我が武将の勇名を附した事実に見ても判然しやう。
現にブラジルの各地を歩いて見ると、屢々トウゴーなどと言う名を有した青年に遭遇する。田舎者の青年でありながら、親から口伝への日露役に於ける日本の堂々たる勝利を述べるのを聞いてゐると今更感激を新らしさせられた。
斯様な雰囲気の中に着任した杉村公使は、大統領の始め当局者から日本移民誘入に就ての話を持ちかけられた。然し、公使としては過去に「土佐丸事件」の如き苦い経験があるから直ちに交渉に入る訳にもゆかなかつたのであらう。ブラジルの将来に対する再検討を決意されるや、 [注 原文ブランク]を訪して具さに耕地の組織耕主生活振りなどを視察した結果、サンパウロ洲の前途に非常な希望を掛け、四移民を入れるためには絶好の土地であるとの結論を得てこの旨を本省に報告した。
この報告が一度 [注 原文ブランク]にせられると非常な反響を捲き起した。移民会社は、いつれも前述の如く移民の膏血を絞ることに汲々として百年の計を建つる如き気魄は無く、一方既に開拓せられた移民地も、移民の質の粗悪や移民会社の無責任等から次第に渡航に支障をさへ生し、前途漸く行詰りの感を与へつつあつた頃であるから、南米の一端に広大なる領域を有するブラジルか、日本移民に対して極度の好感を寄せて居ると知つて、先覚拓人の心は躍動した。
私も亦、杉村公使の報告を貪り読んだ一人であつた。予てブラジルに対する関心は多大にあつたのであるが、土佐丸事件以来ブラジルに関する情報には対伯移民送出に有利なものは一つも無く、未だ気運到らずの感が深かつた。杉村公使の調査はこの様な形勢の中身を全く新らしい局面を開かうと云ふのだ。多年の懸案であつたブラジル移民実施の機がまさに熟さうとしつつあるのを感得した私は、杉村公使にブラジル当局から着任匆々、一万人位至急入れて貰ひたいと言ふ提案があつたと言ふ情報に基いて、千人程移民を我が皇国移民会社の手で入れて見やうと決心した。
それで斎藤修一郎と私は一日東京のブラジル公使館を訪れ、我が社の手で差し当り一千名誘入をやらうと思ふが、ブラジル政府としてこの移民誘入に応ずる意向があるかと談じた処、公使館側では一も二も無く賛意を表し万全の便宜を与へるであらうと言ふ事であつた。外務省さへ承知すれば、我々は直ちに現地に急行して上陸後の準備に着手し、その間募集の方も進むであらうから比較的短日時に事が運ぶであらうと見込みをつけて、私は単独で外務省に通商局長石井菊次郎を訪れた。これが明治三十八年十二月十日の事て、石井菊次郎氏に面会して、我が社の意向する処やブラジル公使館との交渉の経緯に就て詳細に報告し、ブラジル移民実施の同意を求めたのである。石井局長は黙つて私の話を聴いてゐたが、やや当惑の面持で、
それは困つた申出だ。我々もブラジル移民は悪いとは思つて居らんが、何しろ土佐丸事件以来 ブラジルに関する報告に余り香ばしいものがない。杉村公使の調査は立派なものだが、ブラジルに関する調査としてはこれ以外に参照し得るものも無く、邦人として実際あの国を議いてゐる者が無い以上、外務省としては趣旨に賛成だからと言つて移民送出に同意を与へる訳にはゆかぬ。万一結果が悪い場合は単に外務省の責任問題となるのみならず、移民事業の発展を阻害する
と語られた。私も大変の理のある話であり、又それ同様な腹であつたから、速刻出発することに決定を見、外務省からは、着任後必要な援助を我々に与へる様、在伯公使館に公信を出して貰つた。
三、ブラジルへの旅
船の中は大して賑やかではなかつた。新航路開拓第一船と言へば、今なら相当貨物も船客もあるのであらうが、当時日本と南米東岸とを直接結ぶと言つても貨物や旅客の動きなどありよう訳もない。グレンフアノグ号は僅かばかりの雑貨と少数の船客に、船腹を高々と海上に聳え立たせながら駛走せてゐた。斯う言ふと如何にも軽快に聞えるが、船腹の軽い船程揺れるものはない。横浜からペルーのカリヤオに着く迄の廿五日間、私達少数の船客は揺られに揺られ通して、いづれも相当参つてゐた様である。
船中一等船客としては田ヶ谷と言ふ法学士と私の二人きり、それに視察に便乗してゐた東洋汽船社取締役伊藤幸次郎が加はつてたつた三人の仲間であつた。それから三等船室には鈴木貞次郎、田中某と言ふ二青年がチリーへ硝石採掘労働に行くと言つて乗つてゐた。三等の待遇が、これは亦大したもので、見てゐて気の毒になる様なことばかりであつた。例へば食事であるが、三等客は人間並に扱つて貰へず、支那人のコツクがバケツ様なものに飯を入れて投げ出してゆくのを食べるのである。散々揺られて気持の悪くなつてゐる処へ、この食物では食ひ様も無く二人とも相当苦しんでゐる様であつたから、我々一等客の者は何かと世話を見てゐた。
そのうちに、私は此青年達と色々打明け話も出来る様になり、私の目的であるブラジルに移民誘入の事など話し『君達両人もブラジルに行つて見る気はないか。私はこの旅行に移民を伴ふことが出来なかつたが、若し君達が考へを変へてブラジルに行く様になつてくれれば、日本人とは斯う言う立派な人間であることをブラジル人に示す事となり、国家の為尽す処大なるものがあらうと思ふ』と語り大いに渡伯を勧めたのであつた。鈴木青年は色々考慮の末『それでは、ひとつそのブラジルと言ふ国に参りませう』と決心をした。田中青年の方は、結局考へがつかずにチリーに上陸して所期の目的に向つて進んで行つたのである。其後田中青年がどの様な人生をもつたか全く知らない。処で鈴木青年であるが、ブラジルに行くと決心はしたが、チリーからアルゼンチンを経て行くに必要な旅費など持ち合す筈も無いので、総ては私が支払ふこととし、カリヤオ港に上陸して、首府リマに入り暫時滞在附近の甘蔗畑に就労せる森岡移民会社扱の移民動静を視察したり時恰もカルナバル祭に当りその馬鹿騒ぎを始めて見て驚きたり当時ペルーに於ける日本領事館には野田良治通訳官在勤中にて万事同通訳官の指導を蒙りたり。
それより沿岸航路を頼りて智利に入りアンデスを超えて西海岸に出ることとし一切野田通訳官の肝煎にて沿岸航路の一航を捕へ特に野田通訳官の同行を得てカリヤオより乗舩ペルー智利の津々浦々に寄港し数日の後智利国バルパライザに着野田通訳官と別れ、二人はヴアルバライソから鉄道に依つて寒気膚をさすアンデスの高峰を登り始めたのであつた。
現在ではトンネルが通じ、汽車で難なく突破出来るシユールの山頂も、その頃は徒歩でアルゼンチン側へ連絡しなければならなかつた。それは今想ひ出してもぞつとする様な冒険に満ちた山越であつた。汽車が気圧の低い山頂に近づくと、山酔ひの為気持が悪くなる。終点で、私達一行十五、六人の者が車外に降り立つた時は、もう五時を過ぎ、夕闇があたりに迫つて、凍る様な寒さと共に自然の恐怖が旅人を圧し、ただただ物凄さに怖れ戦くのみであつた。我々はこの終点からら、尚ほ二千尺の峠を越えて、険阻な石ころばかりの山道を四時間近く歩かねば、シユールに至ることは出来ないのだ。互に励まし合ひ乍ら、一歩を誤まれば底知れぬ渓谷に堕ちこむ様な険路を、山賊の襲撃を警戒しつつ、我々の一隊が多勢であることを誇張するために、知つてゐる限りの歌を怒号しつつ息も絶え絶えな行軍を続けたのである。私も鈴木も、詩を吟じ小学校時代の唱歌を恥らひすらもなく唄つて突き進んだ。
[貼紙] この山越は徒歩にあらずミユールに乗りたり馬車も二三台はありたれどコレは婦人に占められて其便を得ざりしミユールは馬車路を通らず勝手に歩むゆえに別れ別れになりて淋しさ危険さ云ふばかりなり詩歌俗謡出る限りと唸るは之れがためなり
夜も深くなつた午後九時頃、一行はヘトヘトになりながら、目的のシユールに着いた。シユールは地図の上でこそ村となつてゐるが来てみれば家らしい家とてもない。一軒のホテルが我々を迎へてくれはしたが、それは家と称すべく余りにもみすぼらしかつた。この極寒に戸すらもなく、入口には一枚のカーテンが、風にあふられバタバタ音をたててゐた。遠慮なく吹き込んで来る肌を刺す寒風の中に一夜を明かさねばならないのであつた。せめて暖いベツドでもと求めたが、それさへこの旅人宿には用意されて居らず、土間に藁などを敷いて身を横へ、凍る寒さに耐えてゆかねばならなかつた。
疲労と気圧の激変に、私は貧血を起してゐた。食堂に入つても、食物を見ると却つて吐気を催ほすだけであつた。そのうちに腹痛まで加はり始めた。便所を求めたが、そこには既に先客があつて、私と同じ苦痛に嘔吐と下痢を続けてゐた。戸外に出て石ばかりの原野に、凍る様な寒風に身をさらし乍ら用をたそうとするか、腹痛のみが強くて目的を達することは出来ない。
[貼紙] このホテルは石を畳みたる(図)《コンナモノ 竈を並べたる如し》ものにて屋根にはトタン板を覆ひたるもの
仰ぎ見る底知れぬ深淵の闇黒の夜空を、突き裂いた様に青白色に輝く無数の星が、鋭い光ライト寒げに明滅させ、四囲にそそり立つ対の如く峻険な山々は、星明りにほの白く雪を戴いて風に鳴つてゐる。凄絶な高山の深夜は、神秘と荘厳に満ちて肉体の苦痛をさへ忘れしめる。今異境に志を伸ばさんとする我身にとつて、この一夜こそは艱難の絶頂であつたかも知れない。だが我が精神は海抜一万余米の山間に在つて砂礫の間に一身を挺して初めて海外発展の意義に徹したかの感があり、往かんかなの気宇は自ら大自然を支配せんとするかの如くであつた。自然の威圧は超自然の精神力を倒すべくもなかつたのであらん。
斯うした寝もやらぬ一夜を、私は野蛮と仮の臥所の傍に明かしたのであつた。暁の光が戸口に薄見えた頃、疲労のため思はずトロトロと睡りに陥ちたのであつたが、御来光を拝さんものと自分は頑として睡りを退けた。間も無く壮大な日の出が始まつた。寒さに震えながら、一刻も早く温い陽光を浴びようと旅人達は戸外に飛び出した。不思議なことに、誰も彼も今見ると昨夜の苦しみを忘れた様に朗らかな様子をしてゐる。高山の気圧に馴れたのであらう。
汽車は午前十一時発車して、険阻な山膚を歩一歩パンパの大平原に向つて降りて行つた。その日の夜、私達はメンドサ市に着き、ここで寝台車に乗り替えてアルゼンチン首都ブエノス・アイレス市に入つた。
ブエノス・アイレス市は約十日程滞在の上、ロイド・ブラジレイロ社の船でリオ・デ・ジヤネイロ市に向つたが、今日なら四日足らずで行ける伯亜間の航路を、その頃のロイド・ブラジレイロ社は沿岸航路線をブエノス、アイレス迄延長してゐたので十日以上を要する有様であつた。ブエノス港からモンテ、ビデオを経てリオ、グランデ港に入つたが、ここに三日間滞在した。それからフロリアノポリス、サン・フランシスコ、パラナグア、サントスなどの港々を見物しつつ、三月二十七日リオ港に着くことが出来たのである。
当時、我が公使館は地図のそれと同様、首都リオ市にはなく、避暑地として今日有名なペトロポリス市に在つた。私は上陸と同時に、ペトロポリスに赴き、杉村公使と会見して意のある処を述べて協力を求めた。既に外務省からは、私に就て直接紹介があつたこととてサンパウロ州の実際を見聞し当局者とも充分意見を交換する様勧められ、特に三浦通訳官を同伴せしめられた。
四、サンパウロ州に入る
四月中旬、私は三浦通訳官に伴はれてサンパウロ市に入つた。直ちに、同州で最も有力な移植民事業会社々長であるベント・ブエノ氏を訪問して、来意を述べると非常に喜んで是非とも日本移民をブラジルに入れなければならずと大変な熱心さであつた。ベント・ブエノ氏はサンパウロ州でも最大耕地とされるチビリツサ耕地の所有者で前には州政府の司法内務長官だつた人物で相当の有力者である上、同人の奥さんが時の農務長官カルロス・ボテリヨ夫人[の妹]に当る関係もあり、ベント・ブエノの意見と言ふものは州政府部内でも幅を利かせてゐたと言はれる。そんな訳で、ベント・ブエノは私の日本移民誘入計画に全幅の賛意を表し、それでは農務長官に諾して有利な条件を決定する様にしやうではないかと言ふことになつた。
ベント・ブエノの紹介でボテリヨ農務長官と会つて、移民誘入に関する私の意見を述べ当局の援助を期待すると、相談を持ちかけた。会見の時の印象から言ふと、ボテリヨ長官は非常に理解の早い人で、実行に当っては果断である様に思はれた。他の人々も左様に噂してゐたのであつた。だから、私の話もすぐ理解してくれ大いに結構です。私も日本移民には大賛成で、実現に尽したい」と、至極旨く運んだ
そこまでは好都合だつたが、その後に至つて話の模様が変つて来た。それ迄、私はベント・ブエノと契約条項その他実行に関する相談を進め、耕地を観察して最後の話を纏めるべく資料を蒐め案を練つてゐたのであるが、ボテリヨ長官の方から突然「自分は日本移民には賛成であるが、今直ちに契約などすることは出来ない。責任上日本移民の素質に就て尚更充分研究を遂げた上で確答を与へることとしたい。日本移民観察に就ては、当方の事務官を北米、ハワイ等日本移民就働地に派して調査を進めたいと思ふが、その報告は恐らく来年でなくては纏まるまいと思ふ」と言ふ話で、初めの歓迎振りとは大分違つてゐる。
勿論これは話として当然でもあつたが、余りにも唐突な態度の急変に、私も多少不安を感じて相手の真意を確めるべく探りを入れて見た。色々調べて判つたのである
これ以上無駄な時間を費やしたころで局面が
事ここに至るまでに、私の保護者とも言ふべき杉村公使は急性脳溢血に倒れ、臥床一週間にして五月十九日他界せられた。私の落胆は何にも例へようもなく、悲しみを懐いて明治三十九年七月ランクホルト、ライン号に乗じてニユーヨーク経由帰朝の途に就きニユーヨークからシヤトルに出て、そこで杉村公使未亡人、令嬢と一緒になり、日本郵船会社の信濃丸で横浜に帰着した。
[貼紙]杉村公使未亡人とはリヨより同舩紐育にて別れたり依てシヤトル横浜間は同舩ならず
五、再び渡伯して契約を定結す
ペルーからブラジルへ同行した鈴木青年は日本移民の見本と言つた格式で、ベント・ブエノのチビリツサ耕地に残ることとなり、傍々ブラジル耕地事情の体験を積み、実際の情況を研究報告して貰ひ、後から来るであらう同胞の為に指導者となつて貰ふつもりであつた。当時の貨幣相場も安かつたのであるが、鈴木の月給が三十ミルだつた。この月給に不平があつた訳ではあるまいが、私の帰朝後、鈴木から来る報告がどうも思はしくない。鈴木からは、色々悪い情報が来るが、私の視察とは種々相違する処もあり、チビリツサ耕地のみの事情を以て全般を予断することは出来ないので判断に惑ふこともあつた。
歳が更新しい明治四十年の春、私は再び太平洋を渡つてニユーヨークに赴き同地から大西洋を南下してサンパウロ州人となつた。到着してみると、州政府派遣の事務官はハワイ及ペルー両地の視察の旅からまだ帰へつて居らず手続上の法規などの改正は出来てゐたが日本移民誘入契約の最後の問題たる適、不適と言ふ個条が解決されないので、私はリオ府に来て内田公使と種々打合せをなし、州内及附近各地の視察旅行をして時を過してゐた。
九月、事務官帰国の報を聞いて、三浦通訳官と共に再びサンパウロに乗り込んだ。面白い事、その際鈴木の月給が五十釬に昇給してゐた事で、これは日本移民誘入の可能性が事務官の報告によつて確実となつたので、私のサンパウロ市に入るに先立つて行つたものだ。彼も仲々上手な男である。
私達は先づ、カルロス、ボテリヨ長官を訪ねて日本移民観察報告の結果並に長官の決断を求めた処、案の条
[「]報告には日本移民誘入を阻げる何物もなく、自分としてもこれで最後の決心がついた。日本移民を州が契約して誘入することに決定したが、契約案文などはまだ出来て居らぬ。これが出来るまで待つて貰ひたい」
と言ふ事であつた。これで問題は九分通り片がついたので私も久しぶりで荷を降ろした気持になつた。数日後呼び出しに応じて行つて見るとチヤンと案文が出来てゐる。
三人以上の家族移民三千人を三年間に誘入し、之が船賃十ポンドは政府が立替へ後刻傭ひ主たる耕主をして四ポンドを負担せしめる。更に耕主は右の四ポンドを移民の労銀中より控除することを得えると云ふのが骨子で、後は入耕後の諸規定等である。
大体異議はなかつたが、当時の移民は今日の如き真の移住精神をもつてゐなかつたから、最も肝芯な家族移民の募集が最難関であるそれも一年に千人の大量家族移民などとても見込がたたなかつた。私はこの点で非常に苦慮し、この条項は緩和せしめやうとして種々交渉してみたが
家族を構成したものでなくては、州として旅費の立替をすることは出来ぬ。但し旅費自弁の者ならば単独でも何でもよい。
と言つて容易に我々の主張を容れてくれなかつたが、最後に相手の方から
そんなに堅苦しく考へずともよいではないか。家族嗅いものを構成して来ればそれでいいではないか
と言ふ事なので、それならばどうにかなると思つて契約書の調印を了へた。明治四十年十一月六日の事である。
六、「家族移民」の条件で難問題を惹起す
とにかく交渉はまづまづ成功に終つたと言つてよい。宿望は達せられたのだ。今私に残されてゐる任務は、契約に従つて第一回移民を五月迄に出発せしめることである。遅くも六月中に移民を入伯せしめる為には、内地の準備だけでも相当なさねばならぬことがあるので帰国を急がねばならぬ。旅装は直に整へられ、船室は予約された。、、、、、、、、洋々とした気分、重大懸案を果して身も心も軽やかな私は、大西洋の波濤を蹴立てて進む船上で、遥かなる積乱雲の巨大な姿を眺めつつ我が意を得たと言ふ感慨で一杯であつた。雄大な海洋は、我が事成れりと思ふ心に果し無き愉悦を与へるに相応しいものである。
長途の旅は終つた。明治四十一年一月二十日、私は再び横浜港の古びくすんだ家々の屋根に迎へられ、意気洋々と祖国の土を踏んだ。直に外務省に赴いて顛末を詳細に報告したのである。処が意外にも外務省側は私の報告を聞いて喜んでくれる代りにブラジル移民取扱の許可さへ出さぬと云ふ態度であつた。
最初一応の説明を聴取した外務省側では、契約書の検討を行つた後、俄然不満足の意を表明して曰く
「契約書に依れば家族移民と言ふことになつてゐるが、一体今の日本でブラジル行家族移民などを募集して、志願者があると思ふか。一家を挙げてブラジルへ移民する者が果してあると言ふのか。この点充分の成果があつての上で調印したのであるか」
と厳重な追求である。勿論自分としても、家族移民募集に自信があつた訳ではない。その点に就ては、既に交渉の時、当方で問題にした処であるが、ブラジル側で「家族くさいものをつれてくればよいではないか」と言つた相手の言葉を信用しての上である。然も三浦通訳官が左様に通辞されたものであるから、自分としてはそれ以上の保証も求めなかつたのである。私は、以上の経緯を説明して安心して貰はうとしたが、外務省は流石にそんな事では承知しない。
「その様な諒解が本契約書中に何等かの形をとつて記載されて居るならばよいが、全然触れてゐないではないか。口約束などは何の効力もない。そんなあやふやな事でブラジル移民送出に許可を与へる訳には参らんではないか、、、、」
と言つて頑として許可してくれない。然し移民契約は厳然存在するのであるから、そんな点に拘泥する必要はないと思ひ「左様に融通のきかぬことは言はないで諒解して欲しい。相手は日本移民を欲してゐるのだから間違ひの起る筈はない」と、こちらも頑固に突張つた。
然し外務省としては家族の定義を明かにする必要があるので、それから電報の往復を重ねられ、結局「戸主の兄弟、姉妹、従兄弟姉妹までを包含するものを家族と認める」ことに双方の間に正式の諒解が成立して、ゴタゴタも一応解決した。どうやら、これで家族くさいものの正体がはつきりした訳だ。斯うして、愈々許可になる段取となつたのであるが、そこで此問題を後になつて考へてみると、日本とブラジルの国情の差や人間の気質の相違などがこの交渉を通じてよく表現されてゐて面白い。
この交渉に於て家族くさいなどといふ曖昧な話合ひが、ブラジルでは平気で行はれたのである。然も三浦通訳官にも私にも、家族くさいものの話合ひを公式の交渉中に何の不思議もなくやつてゐたのである。そして当然の帰結の如くに双方から諒解事項として受容れられてゐる。それが内地で大問題となつた。考へてみれば大問題になるのが当り前だ。だがこれは如何にもブラジル式な考へ方であり、他は日本式な几帳面な行き方で、甚だ面白い対照をなしてゐる。こうしたブラジル人の傾向は現在でも多分に存在してゐるが、当時のブラジルは想像以上にのんびりしてゐて、万事がこんな調子で処理されてゐた。それなればこそ、欧米各国が思ふ存分に利権漁りをやり、搾取の限りを尽し得たのである。
さて、以上の如き経緯の後に外務省がブラジル移民取扱を私に許可することが巷間に伝はると、それ迄沈黙を守つてゐた移民会社三十数社が沸騰し出した。ブラジル移民事業にも喰ひついて、一儲けしやうと言ふ魂胆なのだ。水野に独占されては、それが出来ないと言ふので、猛烈な運動を開始した。決裁になりそうだつた取扱許可も之が為一時は宙に迷ふ有様で、事態は紛糾を重ね複雑怪奇な様相を呈してきた。
三十社の先頭に先ち、外務省に対して運動したのが東洋移民会社だつた。同社は既に述べた通り正義の会社であつが、明治三十年八月の土佐丸事件で莫大な損失を蒙つて居り、ブラジル移民に就ては重大関心をもつてゐた事は当然の事であらう。そうした行き掛り上私の対伯移民事業に対しても黙視することを得ず、他の三十社を叫合して外務省と交渉を開始したのである。総代となつて外務省に繰り込んだのは森岡眞、佐久間綱三(三か二か一か覚へず)郎(貼紙 吉佐移民会社の□は佐久間貞一で鋼一郎[注 正しくは鋼三郎]の父なることを思ひだしました)の両名であつた。彼等の言ひ分は斯うだ。「ブラジル移民の草分は吉佐移民会社である。しかも此ブラジル移民事業は日本郵船会社が政府の命令に基いて着手し、子会社の東洋移民会社をして之を行はしめたのである。その為土佐丸を購入し当局の命令によつて莫大な資金を投じて、移民輸送に適する様に艤装までしたのである。その揚句の果が、電報一本で契約を破棄せられ、而も一文の賠償金すらブラジル側は支払ふてゐない。
それのみならず、会社は神戸に集合したる移民団の解散に巨額の失費さへして居り損害金額は相当なものとなつてゐる。そう言ふ歴史があるのに、水野の交渉が成立したからと言つて今更水野に特許を与へて独占でやらせると言ふ事には、我々として直ちに承服する訳にはゆかない。外務当局としても、此間の事情を篤と御諒察あつて、ブラジル移民送出には我々も参加させて戴きたい。兎に角、水野の独占には断じで反対である。」
[貼紙] 吉佐移民会社は布哇移民のために設けられ東洋移民会社はブラジル移民のために設けられたもので共に郵舩会社の分身なり
此問題に就て、石井(菊次郎)通商局長は当事者である私の意見を求められたので、国家の為に始めた仕事であり、大和民族の海外発展の目的を達成すれば本望である。個人の利益等眼中にない私は石井局長に私の胸底にある理想を語り共同一致して対伯移民事業に従ふ用意があることを彼等に伝へて貰つた。そこで石井局長は一同を呼んで
水野は独占の意志等少しもないと言つてゐる。皆が一致団結してやりたいと言ふのなら、それも結構だから一緒にやらうと言つてゐる。水野と談合して案を樹てるがよい。
と告げた。そこでブラジル移民募集並に送出の具体的計画を樹立することとなり私とサンパウロ州政府との契約内容等を皆で検討することとなつた。当初は皆御国の為に大いにやりませうと言ふので、大変話は旨く運んでゐたのであるが今回の契約の内容を知るに及んで果然営利目的の移民屋根性が露呈されるに至つた。問題はやはり家族移民の事であつた。如何に家族嗅いものと言ふ寛大な家族構成条件と雖も、当時の我が国の事情からすれば一家を挙げて海外に発展しやうなどと言ふ事は痴人のたわごとに比すべきことであつた。一方金儲けの為の移民事業家からすればそれこそ「とんでもない契約」であつたらう。
先づ佐久間の態度が一変して
「家族移民などと言ふ馬鹿気た条件では仕事にならない。いくら金と太鼓で宣伝してみたとて家族移民等集まる訳はない。諸君どうです、、、、、、、、」
と言ふ話に私を除いた一同が忽ち賛成しサンパウロ州政府との移民契約を遣り直さうと言ふ議が持ち上つた。代表者が選ばれて石井局長との談判が再び開始された。
「水野の契約は実質的ではない。特に家族移民等と言ふとんでもない条件があつてはとてもブラジル移民は実施出来ぬ。此の際水野の契約は之を一応破棄して各社連合で遣り直すべきであると思ふ。」
此要求に対する石井局長の態度は実に毅然たるものがあつた。勝手気儘な一同の言ひ分に対して石井氏は一言の下に之を退けて曰く
移民事業が商売になるとかならぬかで契約を破棄するなどと言ふ事は絶対に認めぬ
「ブラジル」移民契約は水野の取極めた個人契約であるかも知れぬが、外務省としては移民問題は重大な責任があるので個人契約と雖も無関心には看過し得ない処である。水野の契約は、外務省が充分審査し承認を与へたものであるから、君等の勝手な理由から之を破棄する訳にはゆかない。問題は簡単である。この契約に依つて共同で移民送出をやるかやらぬかである。若し君達が、どうしても嫌だと言ふのならば止むを得ない。之は皇国植民をして行はしめるのでみである。
七、第一回渡伯移民に就て
この決断に対しては誰一人文句を唱へるものもなかつた。さりとて、彼等は如何なる形式にもせよ家族移民を取扱ふだけの勇気も成算も持ち合せないのだから、前述の強談にも拘らず私と共同で事業をやらうと言ふ者は一人もゐない。結局最初の話通り、皇国植民の独占に於て、対伯移民事業が行はれることになり、明治四十一年二月二十五日外務省から正式の許可が降りた。六月中には移民を「ブラジル」に送り込まねばならないので、神戸出帆は遅くとも四月下旬と予定して準備に取り掛つた。ところが会社自体の問題が多々あつて、それに相当の時日を費したので、正味の募集期間は僅に一ヶ月余である。この間に全国から一千名の家族移民を募ることは仲々大変な仕事であつた。
会社が特に苦心した処は財政上の問題と船会社との契約に関してであつた。従来「ハワイ」の例では、移民取扱人が政府に対して用意すべき保証金は一万円であつたが、我々の場合には、種々の理由からこの保証金が五万円に引上げられた。創立間もない貧乏会社にとつては由々しき金額である。そんな金など保証金として遊ばせて置く様な余裕などあり様訳もなく、交渉交渉を重ねた末やつと三万円に値切ることに成功して「ホツト」した。ところが、実際に移民を募集してみると、前述の如く、募集期間が短く加ふるに家族構成を条件としてゐた為、一千人を集めるのは容易でなく、結局神戸に集つた移民の数は七百八十一名で、予定よりも二百十九名の減少である。
当初移民輸送に関しては、東洋汽船会社と交渉して一千名送出に必要な準備を行はしめたのである。之に付て東洋汽船会社では、嘗て「ロシア」の病院船であつた笠戸丸を選定し、一名の輸送費百六十円、一千名で十六万円と言ふ計算で契約を取り決めてゐたので、皇国植民としては二百十九名分の輸送費が欠損になる訳である。さきに、思はぬ保証金の増額で貧乏し、更に四万円程の損失を蒙つたのであるから会社としては相当な痛手であつた。その結果会社は一時非常な窮境に陥り、之が打開は非常な苦労を伴つた。
愈々出発の日、四月二十八日は到来した。当日は神戸、東京間の電信が不通となる程の春の日の大雪であつた。移民達は、宿舎を出て、雪の中を荷物の重さにも負けずに波止場へと急ぐ。女も子供も男達は負けずと旅屋の使用人などに援けられながら列に加はつた。「ブラジル」へ、、、「ブラジル」へ、、、起運の野望、雄渾な南の志、失意のどん底から起ち上らうとする勇猛心、自棄破境の心魂、疲れ果てた肉体と精神―移民達は思ひ思ひの夢を抱き或は悲しみを包んで笠戸丸の船室へと吸ひ込まれて行く。だが然し今は過去の総てを清算して新たなる人生への再出発点に立つ彼等である。一度船上の人となれば、誰も彼も家族と共に異境万里の彼方に開拓の歩を進めんとする決意に満ちた拓人である。そこには、敗残者もなければ失望の人もない。前述には総ての者に公平な運命の神が、双腕を拡げて彼等の到来を待つてゐるのだ。逞しい意慾が今離れゆかんとする祖国の風物に見入る移民達の表情に明朗に浮び上るのを眺めて、何か力強いものが心底から湧き上つてくるのを感じた。彼等は「ハワイ」やその他の国国へ一攫千金を夢見て渡航する出稼移民とは根底に於て異るものがあるのだ。一家を挙げて外国へ移住することは、当時の我が社会情勢を考慮すれば、相当重大な決心なくしては決行し得ざる処であつた。勿論その後日本の移民政策が漸次進歩し、移住者個個の自覚も亦海外発展の真義に徹する様になつた近時の状態とを比較すれば、そこに著るしい移住精神の差は認められる。渡航の方法が安易確実となり、移住地の文化、就働施設等が保証される様になつて、千万里と雖も隣家を訪れるが如き今日の心易さと、初めて地球を半周して国情や言語の全く不通の「ブラジル」へ住み慣れた内地の生活を捨てて押し渡る心境は、蓋しその後の渡航者の窺知を許さぬ特殊なものがあることを認めなければならぬ。
移民達の仲には幾年か働けば相当の金を残して家族ともども内地に帰還し得るであらうと言ふ夢を抱いてゐたものも決して少くはなかつたであらう。然しながら、それは出発前或は船中に於ける仮定の着想であつて、「ブラジル」に上陸したその日から、現実は彼等移民達に委嘱民の何たるかを厳酷に教へるであらう。これがため私は募集に際しても又乗船後も機会ある毎に大和民族の海外発展の意義日本帝国国威の四海に及ぶべき時代への先駆者としての使命を説いて、新天地の開拓は出稼根性では完遂出来ない所以を力説し、永住の精神が時だに至らば彼等の胸底に湧き出ずべく様配慮したのであつた。その後第一回移民の後身指導が在伯同社会の建設に如何に大なる影響を与へたから検討する時私は彼等がその後の時代に「ブラジル」へ流入した失業移民や我利我利亡者移民に比較して、常に理想に燃え熱烈なる開拓精神を把握し得てゐることを実証し得たものとして満足に思はざるを得ない。第一回移民入伯直後生じた逃亡事件や同盟罷業の如き問題も以上の観点からすれば移民の質の優劣などを論ずる資材とさへならぬ。彼等はそうした事件や生活難等を経験して初めて外国を識つたと言ひ得るのである。若し専ら温順にして勇猛心のないのを以て良質の移民とせられるるならば彼等は困難に際会して自ら之を打開するの力に欠け、独立自営の能力さへ無い「ヨーロツパ」の劣等なる労働者移民と何の変るところもない存在であつたらうし、今日「ブラジル」産業界に欧米人の追従を許さぬ足跡を印する者は唯一人も無かつた筈である。私は彼等の意気と「ドン」底から起ち上つた生活への意慾が今日「ブラジル」邦人社会を貫く拓人精神」を築いた素地であると確信するものである。
近来移民会社関係の紳士や移植民史を論ずる士にして、「ブラジル」移民に関して述ぶるに当つて、真の拓人精神を想はず、移民達の敢闘した当時の環境を察することなく、雑多な事件のみを拾ひあげて論難攻撃をするものが屢々あるが、これは移民を人間として劣等視し自らを高きに置く、人間味を忘れた優越感に生くる紳士の盲言であると断ぜざるを得ない。今対「ブラジル」第一回移民の船出を誌すに際して一会社や官吏に何がしかの迷惑を及ぼしたと言ふことのみを以て、移民の本質を云々するの誤なるを茲に明言し、移植民史や諸報告中には此点について考慮さるべきものが幾多あることを指摘して置きたいと思ふ。