皇国殖民会社による第1回移民送出
杉村公使復命書
1905年(明治38)、ブラジルに赴任した杉村
復命書の反響
この復命書は、その年の11月には外務省通商局の海外通商情報誌である『通商彙簒』にまず掲載され、次いで年末には『大阪朝日新聞』に掲載された。反響は大きく、地方の市町村から外務省に問い合わせが殺到し、同省では、「ブラジル行移民の件は調査中で回答が難しい」という文言の回答を印刷して準備するほどであった。新興の移民会社である皇国殖民合資会社の業務担当社員 水野龍は、この記事を読んでただちに在日ブラジル公使館と外務省に相談に行き、12月にはブラジルに向かった。また、この記事を読んで直ちにブラジルに渡った人も何人かいた(水野龍著 『南米渡航案内』)。その中には、家族を伴って渡った鹿児島県の弁護士 隈部三郎もいた。
皇国殖民会社による契約締結
皇国殖民会社の水野龍はペルー、アルゼンチン経由でブラジルに向かった。船中でチリの硝石鉱山に採掘労働に行こうとしていた青年 鈴木貞次郎に出会い、鈴木は水野の誘いでブラジルに同行することになった。水野は1906年(明治39)4月サンパウロ市に到着し、日本公使館の助力を得て州の有力者と接触したが、法律上の問題があるということで、契約締結には至らなかった。同年7月、水野は、鈴木を労働の実地体験をさせるためにコーヒー農場(耕地と呼ばれていた)に一人残して、一度帰国した。その後、日本移民のための法改正がなされ、水野は翌1907年(明治40)再びブラジルを訪れ、サンパウロ州のボテリョ農務長官と交渉し、11月6日正式契約調印に至った。
契約の要点は、
- 皇国殖民会社は、向こう3年間にコーヒー農場の農業労働者として家族移民3千人を募集し、ブラジルのサントス港まで輸送すること。第1回は1908年(明治41)5月中に千人到着すること
- 移民の船賃の補助10英ポンドは州政府が立て替え、そのうち4英ポンドは日本移民を雇用する耕主に償還させ、耕主は移民の給料からそれを差し引くこと
ということであった。
家族を要件としたのは、出稼移民ではなく、耕地に長く定着する移民をブラジル側が求めていたためであった。だが、これまで各地に送られた日本移民は、いずれも単身であり、家族の募集は実際には難しかった。水野はこの条件を緩和するよう交渉したが、ブラジル側は譲らなかった。水野は後年、ブラジル側から「家族くさいものを構成してくればよい」という言葉を引き出したので、それで引き下がったと回顧している。
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杉村濬公使復命書
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(鹿児島)隈部三郎君
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新聞・雑誌の記事から
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原資料から
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ブラジルへ対する我移民誘入の創始者水野龍氏
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新聞・雑誌の記事から
外務省の許可
契約の調印を済ませると、水野は急いで日本にとって返し、翌年1908年(明治41)1月に横浜に到着した。直ちに外務省から許可を得ようとしたが、家族移民の条項が障害となった。外務省は5月までに多数の家族を集めるのは到底不可能として、半年延期の可能性を現地に打診した。しかし、内田公使から来た返信は、延期が受け入れられる情況ではないので、各府県に家族の証明の面で便宜を図ってもらい、とにかく5月までに渡航させるようにしてほしいというものであった。
移民の募集
こうして皇国殖民会社は、2月にようやく募集の認可を得ることができた。その時点ですでに3月出発、5月到着は不可能となっていたので、サンパウロ州に6月まで延期することは認めてもらい、大急ぎで千人の募集を開始した。募集は、各県の代理人を使って行われたが、4月末の出航までに集められたのは、781人(男600人、女181人)にすぎなかった(ほかに自由移民12人がいた)。特に家族の移民を集めるのは苦労し、実際は偽装夫婦、偽装兄弟よりなる「構成家族」であった。
応募したのは、渡航にはまとまった金が必要とされたため、借金することが可能な多少の資産のある人たちであった。府県別には沖縄県325人、鹿児島県172人、熊本県78人、福島県77人、広島県42人といった順序で、農民でない者が多数を占め、元の職業が警部、巡査、教師、僧侶、車掌、活版職工といった人も混ざっていた。ちなみに、当時の移民先としてのブラジルの人気は、北米、ハワイには及ばないが、ペルーよりは上というところだった。
渡航支度費用 | 20円ほど |
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旅行用印紙代 | 1円 |
渡航周旋料 | 25円 |
サントス港迄汽船賃 | 60円(12歳以上)* |
検疫及消毒費種痘料等 | 2円75銭 |
はしけ賃及手荷物運搬料 | 50銭ほど |
乗船地宿泊料 | 3円ほど |
準備携帯金 | 20円 |
郷里から乗船地までの汽車賃 | |
計 | 132円25銭+汽車賃 |
*30円(7歳以上12歳未満)、15円(3歳以上7歳未満)、無料(3歳未満)。汽船賃は、実際は160円(12歳以上)、80円(7歳以上12歳未満)、40円(3歳以上7歳未満)、無料(3歳未満)であったが、そのうちそれぞれ100円、50円、25円をサンパウロ州政府が補助。うちそれぞれ40円、20円、10円はコーヒー耕主に後日労賃から償還。なお、サンパウロ州政府は後払いであったため、皇国殖民会社は募集に際して、州政府負担分を立替え払いした。