一世 「十年一昔」 (一)〜(三)『伯剌西爾時報』 大正7年5月3日、7年5月10日、7年5月17日
十年一昔
一世
(一)
明治三十九年末に於て日本の人口は四千九百五十八万八千百〇一人であつた。之れを我が帝国の面積二万四千七百九十四里三町平方(台湾を含まず)に比すれば其の一平方の人口稠密度は二千人の割合を示してゐた[。]そして年々約四千万の増殖があつたので当時識者はこの人口膨張に対して備ふべく焦慮し初めた。曰く移殖民、曰く海外発展。此の声は甚だ高くなつた。而かも如何なる方面に移殖民すべき地を択ぶや、如何なる方向に世界の富源地を求めて発展伸張すべきかは時の緊急問題であつたのである。
南洋諸島は天産に豊富であるけれども赤道以北の諸島は其面積余りに狭く、大々的の移殖民には適しない、赤道以南の諸島は面積広大なるも英国は我が国民の移殖を好まぬ、濠洲も亦然り、北米は門戸を閉ぢて我が同胞の移住を禁じた、加奈陀も大和民族の発展を喜んで迎えなかつた。此時に無尽蔵の天産を開放して我が民族の移殖を招呼したのは南米大陸である。南米諸国は
羅典亜米利加全土中、国広大にして天成の一大宝庫を
それに其の当時駐伯帝国公使杉村さんが熱心な尽力をしてくれたので勇気百倍せる皇国殖民会社の社長さんは珈琲産地として世界に有名なるサンパウロ州に瞳を走らせて微笑を頬に浮べた。帝国公使の強き後援を
四十年内田定槌さんは駐伯帝国公使に任命されて其の五月渡伯したに遭ふた日本の移民会社の社長さんは
そこで水野さんは時のサンパウロ州の農商務長官ドトール、カルロス、ボテリヨさんに日本移民輸入を試むべく薦めた。之又
移民契約書の交換が済むと直く水野社長さんは忽焉行李を整へてペトロポリスへ引上げ公使館に祝杯を挙げ、一方にて東京の本社へ打電して移民募集の準備に取掛らしめた。そして四十一年の初めに凱歌を奏して帰朝した。
これより先き同期生の宮崎信造君は内田公使に随従して伯剌西爾の人となつた。宮崎君が長途の旅行に上るの時、伯国果して有望ならば共に彼国に生きんと互に語りて新橋停車場に別れを告げてから一年を経た四十一年の一月皇国殖民合資会社々長水野龍と封筒の裏面に麗々敷書いてある一書が余の茅屋に舞い込んで来た[。]
余は水野龍なる人を知らなかつたので少しく不思議の念を起したが封を切つて
宮崎君の
水野さんは徐ろに口を開いて約一時間に亘り伯剌西爾の有望なること、青年の大発展地として他に其の類を
宿年の目的を得、年来の希望を実現し得る機の到来したのを太く喜んだ余は事務所を辞して芝区赤羽根橋附近に居を構えてゐた大野基尚君を訪ひ幸を頒かたんとして走つた。目差した処に大野君は住むでゐなかつた。隣の八百屋に聞き向ふの荒物屋に尋ねたけれども暗として分らなかつたので交番所に査公を煩はしたが更らに同君の居所を突き止め得ずして其の日は家へ帰つてしまつた。
其の翌日は日曜日であつたから朝より芝区の交番所を片端から尋ね廻はつて午後漸く海軍工廠の右手に大野君の下宿屋を探し出した。ベルを押して取次を乞ふと尻の脹れた赤い顔の下女が出て来て同君は不在だと云ふた。仕方なく名刺に渡伯の機会を与ふる所の神様が
次の日大野君は欣然として余の草屋に訪ねて来たから伴ふて水野さんを事務所に訪問したのである[。]大野君も余の如く直ちに伯剌西爾行を約束してしまつた。
(二)
第一回に輸送すべき一千名の移民には六名の通訳を採用する契約、六名の中一人は既に伯剌西爾にゐて日本移民の模範実例を示す為めテビリサ耕地に犠牲の汗水を流した鈴木貞次郎君が移民収容所の役員として勤務中で移民到着の上は鈴木君は通訳となり耕地へ赴任するから日本より新に行くべきは五名あればよかつた。
余と大野君とは既に契約した、そこで残りの三名を得べく余は水野さんから依頼されたけれども当時西班牙語を学んだ者で内地に蟄居してゐる者は殆んど見当らなかつた故に水野さんは母校に依頼して修学中の平野運平、嶺昌、仁平高の三君を得た、これでやつと五人男は出来上つたのである。
愈々出発準備をなす段取となつた。旅装の新調が誠に振つてゐた、洋服は山崎服洋店に、靴は鞆屋に、山高帽子は信盛堂に、鞄はズツク製が便利、シヤツは白に限る、
処が此処に一問題が起つた[。]即ち妻帯問題で、之れは会社の土井権太さんの提案であつた、家族移民の通訳たり監督たる五人の俄ハイカラは妻を娶るべく盛んに勧められた。道理至極真也。この目出度い土井さんの主張に従ふて妻帯したのは大野君と仁平君とで随分忙がしかつたらしい、平野、嶺の両君と余とは真平御免を蒙つてしまつた。通訳妻帯問題は会社の予防策であつて、移民の娘の進水式者となる勿れの暗示だが土嗅い事に其の考が到らなかつたのは噴飯の沙汰と云ふてよい。
通訳は移民がサントス港に上陸する前少くとも一ヶ月前に渡伯して移民到着に対する諸般の準備をなす義務があつたから、ハイカラに化けた五人男は四十一年三月二十七日東京を出発して
福島将軍の単騎西伯利亜横断記を読むで他日天保銭を胸間に
伯林では東亜の主筆老川茂信さんから沢山馳走を受け諸処を見物して海面より低い和蘭を抜け英京倫敦に到着したのは四月十五日であつた。伯剌西爾へ急ぐ五人は落着いて名所旧跡を探るべき余日を有たなかつたのでやつと三日の滞在に素通り見物をして十七日サウザンプトン港から英船アラガヤに乗込みサビヤが鳴くパルメーラの国へと向ふた。
(三)
大西洋は頗る平穏で未来の貧乏人に余り苦痛を与へなかつた。リスボン、マデーラ島、ペルナンプーコ、バイヤ[、]リオ、デ、ジヤネーロに寄港して五月五日サントス港に到着した。日本を出発するときサントスに着すれば州政府は楽隊を以て歓迎すると水野さんに喜ばされた余等は出迎ふ筈の楽隊の影も形も埠頭に見出し得なかつた。
余等は上陸すると直ぐサンパウロの鈴木貞次郎君に打電して到着を報じた。鈴木君は即日サントスへ来て呉れたので五ツの高帽子は鈴木君に伴はれて其夜サンパウロに着いた。翌日移民収容所に出頭して所長ブラガさん(現今サンタ、エルネス・テナ耕地支配人)に面会し、土地労働局長フエラスさん(今の収容所長)に握手した、そして州政府に総務局長エウジニオレフエーブレさんを訪ひ到着届を済した。
此日五人は移民収容所勤務を命ぜられ其の次の日から三人交代で隔日に出勤する呑気さ、難有さ、何んでも伯剌西爾に限る、月給は二百ミル、結構な事、朝九時に出勤して十一時迄執務午後は一時から四時迄仕事は煙草を吸ふこと、官給の珈琲を飲む事であつた。こんな都合のよい役所は世界にあらうか新来の腰弁は喜んだ、そして移民船は成る丈後れて着けばよいと祈つた、出来得へくんば一年後れてくれれば更らに妙と思ふた。収容所から帰る鈴木君の案内で毎日市内を散歩した、信盛堂で新調した山高帽は最新流行であると水野さんが撰んで呉れたのではあつたがサンパウロでは時世後れ、日本の流行帽を被つた五人は列をなして市内を
光陰矢如といふが余は光陰如弾丸と云ひたい、もう満十年になる、柿八年より遅い、余はやつと独り歩きが出来る様になつた、伯剌西爾に生れて十歳になつた髭の
余等が到着当時の遊び仲間であつた藤崎商会の後藤武夫君は野間さんから貰ふた紀念の二十二形の銀側時計を振り廻してゐたが今はリオの藤崎商会に司と崇められ可愛い坊やのパパイとなつてしまつた。酔へば陶然として台所に隠れ洒落た浴衣に身を包んで頭に
真面目なクリスチヤンで恋愛神聖論者であつた鈴木貞次郎君は移民の