「大正五年ニ於ケル本邦移民概況報告ノ件」 外務省文書 大正5年 <MT 3.8.2.80 1770-1779>
通公第七号
大正六年一月十八日 在サンパウロ
総領事 松村貞雄
外務大臣法学博士子爵 本野一郎殿
本邦移民概况報告の件
大正五年に於ける在伯国本邦移民の概况、別紙の通り報告候間、御査閲相成度此段申進候 敬具
大正五年に於ける本邦移民の状況は、大正四年に比し更に良好の成績を示し、此間特に当館の手を煩はすが如き何等紛擾の発生を見ざりしは、一段の進歩と云はざるを得ず。其原因に至ては、大正四年在伯移民概况報告(本誌第三〇九号参照)中に於て述べたるものと殆ど同一の理由に本くものにして、本邦移民は当年度に於ては更に前年よりも当国の事情に相通じ、就働耕地の撰択、耕作農業の熟練、偽成家族の淘汰等相待つて、自然土地に落ち着くに至り、一方に於ける欧洲移民の渡来は益々減少し、前年よりも一般労働者の不足を感ずること益々適切となり、最早些細なる感情問題などに拘泥する能はざる程の困難に陥りたるのみならず、本邦移民の殊勝なる活動振の真価は既に耕主等の熟知し居る処なるを以て、益々本邦移民を自己の耕地に引入れ、又は之を内より他に出さざらんことを熱望するの余り、地方によりては耕主間に競争を惹起し、甲の耕地に於て本邦移民の家族に例へば牛乳を提供する等の好条件を与ふれば、乙の耕地に於て又之に劣らざる特典を与ふるなど、殆ど主客顚倒に類する一種の形勢を醸成するに至りたるを以て、耕主移民間に於ける紛擾問題の如きは殆ど聞くことなかりき。
而して前年以来漸次勃興し来れる農業独立自営の風は、当年に至て益々旺盛となり、各地方面それぞれ聞く処あるが、就中西北鉄道、「アララクワラ」鉄道沿線に於て最も発達し西北鉄道線路中「プレシデンテ、ペナ」駅附近には前「グワタパラ」耕地副支配人を勤めし平野の殖民地を最も大なるものとし、其殖民地内外に邦人の土着せんとするもの次第に多きを加へ、更に同線路沿線に於ける英国会社経営「ビリグイ」殖民地には我移民の続々入込んで規定の「ロツト」を譲受けて、之に定住を企つるもの相出で、既に六十余家族、購買契約土地千五百「アルケーレス」(一「アルケーレス」は我二町半)に達し、昨年一家族にて平均二、三千本の珈琲植付を了せりといふ。
概して此線路方面に於ては小面積の土地を各自独立に所有することとなれるが、「アララクハラ」鉄道沿線に至ては、我移民中の有志が相集りて一種の組合を為して纏りたる土地を購入するもの多く、其購入後は之を共有といふよりも矢張分画分有の組織に出ずる如きも、購買方法が既設殖民地の「ロツト」を買入るるが如き簡単ならざるものあるを見る。現に「リオ、プレト」に於ては福島県人の有志家が土地を購入し、之に福島殖民地の名称を附し居れり。此等の土地農業経営は、何れも創業に属するを以て、今日に於て其成績を卜知し難きも、此等地方は土地豊饒にして将来珈琲耕作の中心たる見込を有するのみならず、例へば「アララクワラ」沿線珈琲耕地の労働に従事するものの実話を聞くに、何れも珈琲の手入摘採の仕事以外、耕主より特に許与され居る雑農間作の収穫物を以て、年二「コント」乃至三「コント」半の収益を挙ぐることを得べしと称し、得々たる実際より見れば、彼等組合間に内訌を生ずるか或は天災又は意外の変を見ざる限り、数年間現状態を維持する内には珈琲樹も成熟するに至り、従つて相当の収益を生ずることを期し得べしとの想像を下すことを得。唯土地購入を熱望するの余り、多少の無理算段をなしたる結果、此持続態度を維持するに多少懸念なきものなきに非ず。
「ソロカバナ」鉄道方面「モリソン」殖民地には比較的に我移民家族の数多きも、時々我殖民者が同地を出でて他に転ずるものあるを見るは多少の懸念を抱かしむるも、同時に又殖民地に新に入るものも少なからず。殊に其の「ツルヴヰニヨー」方面に於て我殖民者増加の傾向を見る。
又「サンパウロ」市近郊に於て借地し、又は購入し、野菜雑穀の耕作及米作を営むものは、前年度より依然其事業を継続し、其間幸に挫折する処なきを見るは、従前此等連中の或者が市街浮華の生活の為したる当時に比し、堅実なる方面に向ひつつあるものと見ることを得べし。
若し夫れ「サントス」「ジユキヤ」間「アンナ、ゲアス」地方に於ける沖縄県人の独立経営の事実に至ては、実に目を驚かすものあり、従来土地低湿、気候
其他「マツト、グロスソ」州地方には当州移民及
当年中に於ける耕地労働者は、其居住せる耕地地方により其間収入に不平均あるを免れず、天災其他特別指摘すべき何等の理由なきにも拘はらず、間作の便宜を有せずして単に珈琲の手入れ摘採方面に全力を注ぐ地方に在ては三人家族より成立する一家にして五、六百「ミルレース」の純益を得るものは、寧ろ其上等の部に属し、反之新開耕地にして間作の便あり且つ収穫多き処は、一家族を以て四「コント」近くの収穫をあげ、両者間の差異余りに隔絶せるは其収益少きものに取ては気の毒に考へらるるも、耕地の配布上一々公平を期することは到底難事に属す。而して我日本移民の常として一地方が非常に好景気なりと聞けば、自己従来の耕地を棄てて直に之に趣くは移民本人に取ては無理ならぬことながら、此の如きは結局双方の不利に帰するものなるを以て常に注意を払ひ居れり。
当年に於ける農業労働者の本邦送金は、当館が依頼を受けて取扱ひたるもの九百七十五口伯刺西爾貨四百四十五「コント」五百「ミルレース」、東洋移民会社に依頼せるもの六百十四口伯刺西爾貨百九十七「コント」六百十「ミルレース」、猶当館に於て分明せる別口送金五十八「コント」此合計伯刺西爾貨七百十一[注 七百一の間違いか]「コント」百十「ミルレース」となるなり。而して「クベラン、プレト」より彼地銀行を通じて相当の送金ありしとのことなり。其他当市に於ける当本人自身に直接送金せるものあるを以て総計約七百五十「コント」以上に達するならんと思考せらるる。之を前年に比すれば百九十「コント」則二百「コント」内外の送金増額を見る。
在留者一万七千人中当年の取扱に係る出生数七百九十二件、内男子四百十七名、女子三百七十五名にして平均一ヶ月六十六名の出産数を見ることとなり。前年に比して百三十六名を増加し其割男子に於て六十名を増し女子に於て七十六名を増したるなり。之を大正三年に比すれば二百四十五名の増加なり。死亡数は二百六十八件、内男子百五十四名、女子百十四名、平均一ヶ月の死亡数十二名[注 二十二名の間違いか]強なり、前年に比して五十九名を減じ内男子十八名女子四十一名を減ぜり。全体に於て差引五百二十四名を増加したる勘定なりとす。