第3章 日本人集団地の建設(1)

コロノから独立農へ

生活の安定

移民がコーヒー園に配耕されてから、3、4年もすると移民たちの生活は次第に安定してきた。例えば、第1回笠戸丸の移民が配耕されたソブラード耕地は、配耕直後には1人1日平均910レイス=54銭にしかならなかったが(前述のように明治35年の地方の人力車夫の日給は40~50銭)、その後、次第に作業に慣れ、同じ年の11月には60銭から1円20銭を稼ぐようになっていた。
コーヒー園の労働からの収入が少ない場合でも、コーヒー樹の畝の間の間作地やコーヒー園外の土地(外作地)で土曜日の午後と日曜日に作物(米、とうもろこし、豆、さとうきび、野菜)の栽培や家畜の世話をして、自家消費用以外を販売することにより、副収入を得ることができた。
こうして同耕地では、3年後の1911年(明治44)7月には年収が1,200ミルレイス(840円)ほどとなり、日本に平均350~420円の仕送りができるようになっていた。ほかの耕地でも状況は同じであった。

自営農への独立

移民のなかにはコーヒー耕地で貯めた資金をもとにして、あるいは大した資金を貯蓄していなくても、労働契約期間の満了後にコーヒー農園を出て、利益を地主と分け合ったり(分益農という)、土地を借りたり、あるいは分割払いで土地を購入したりして、自営で農業をはじめるものが出てきた。(なお、出稼ぎ目的でいずれは日本に帰るつもりであったため、土地を買うと損と考え、なかなか土地を買おうとしない人たちもいた。)
日本人がコーヒー耕地に入ってから3年後の1911年(明治44)には、イツー地方で1家族3人が10haの山林を借り入れて自営農を始め、利益を上げていると報告されている(同年7月の藤田敏郎代理公使の本省への報告)。この同じ年には、1909年(明治42)に連邦政府が開設したモンソン植民地(ソロカバナ線バウルーの手前のアグドス(Agudos)駅と同中線セルケイラ・セーザル(Cerqueira César)駅との間)に自作農として日本人家族が入植したと言われている(1915年(大正4)3月の松村貞雄在サンパウロ総領事の報告では1910年(明治43)長崎県人3家族入植とある)。

日本人集団地の形成

このころ以降、各地で日本人が自営の農業を始め、1915年(大正4)末までサンパウロ州内だけでもその数は400家族に達した(1916年(大正5)1月の松村総領事の報告)。まだ言葉も不自由であり、風俗習慣の異なるブラジル社会のなかで、日本移民は誘い合ってコーヒー農園を出て同じ土地に入り開拓をはじめた。日本人のいる場所には後から日本人が続々と入ってきて日本人集団地(植民地)が形成されていった。
集団地には親睦・互助のために日本人会が組織された。日本人会では、日本に帰っても困らないようにと移民の子弟を日本語で教育する学校を真っ先に設置した。
この時期に形成された主な日本人集団地(植民地)には以下のようなものがあった。

サンパウロ市近郊

ジュケリー地区

1911年(大正10)サンパウロ市近郊(同市の北33km)のジュケリー地区(現、Franco da Rocha)に最初の日本人(第2回の旅順丸移民の馬見塚竹蔵)が移住しバタタ(じゃがいも)栽培をはじめ、1913年(大正2)10月には秋村長寿ら9家族が土地を買って移住したといわれている。この集団地には後年、ジュケリ農産組合が設立され、この組合は、戦後に巨大組織の南伯農業協同組合中央会に成長した。

コチア村

1913年(大正2)、サンパウロ市で大工などをしていた独身青年たちとグアタパラ耕地を出てきた家族者たちが、サンパウロ市近郊(同市の南西27km)の教会が所有するモイーニョ・ベーリョの土地を借り、農業を始め、日本人集団地が形成された(コチア村と呼ばれた)。この地方では従来焼いた畑を耕さず、肥料も使わない粗放的な農業が行われていたが、日本人たちは日本式に土地を鋤を使って耕し整地し、金肥(当初は家畜の臓物肥料、1923年頃から化学肥料)を使いはじめ、サンパウロ市へバタタ(じゃがいも)を大量出荷し、経済的に大成功をおさめた。この集団地でも後年、コチア産業組合が結成され、戦中・戦後に発展し、南米一の規模を誇る農業組合に成長した。

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ノロエステ線沿線等

平野植民地

笠戸丸移民に付き添って耕地に入ったいわゆる五通訳の1人で、グワタパラ耕地に派遣され、同耕地の副支配人に抜てきされていた平野運平は、同耕地やその他の耕地の日本人家族から入植者を募集して、200余家族の応募を得て、ノロエステ線のバウルー駅から125kmのプレジデンテ・ペンナ駅(後、カフェーランジア(Cafelândia)駅)から東北13kmにあるドラード河畔の原始林1,620アルケール(=3,920ha)を購入した(平野植民地)。1915年(大正4)8月、先発隊が原始林に入り、12月には82家族が同地に入植し、稲作を開始した。ところが、11月頃からマラリアに感染する者が出始め、翌年2月にはほとんど全員が病床につく事態となった。一説には80人近くが死亡し、ブラジル日本移民史上最も悲惨な被害を出した。この植民地の土地は稲作の適地として選ばれた低湿地であったが、このような土地にはマラリアの危険があるという知識を、この当時まだ移民たちは持ち合わせていなかった。
平野植民地の入植者たちの苦難はさらにつづき1917年(大正6)にはイナゴの大群に襲われ、作物はひとつも残らず食い荒らされ、1918年(大正7)には大干ばつにあった。そんな中、1919年(大正8)2月、平野運平も急逝した(享年34歳)。入植者たちは、このような筆舌に尽しがたい苦労を乗り越えて、開拓に専心し、その後コーヒー、綿花の栽培に成功した。

上塚第一・第二植民地

皇国殖民会社の現地代理人であった上塚周平は、リンス(Lins)の北西、ノロエステ線エイトール・レグルー駅(後、プロミッソン(Promissão)駅)から4km余のところから広がるイタコロミーに1,400アルケール(=3,388ha)の土地を1918年(大正7)に購入し、上塚第一植民地を創設した。この植民地には上塚を慕う青年たちが集まったといわれる。上塚は、1922年(大正11)には、リンスの西方に第二上塚植民地を創設した。

ビリグイ植民地

ノロエステ線のバウルーから260kmのビリグイ駅を中心に1913年(大正2)サンパウロ土地・木材・植民会社が開設した5万アルケール(=12万ha)の土地の中にビリグイ(Birigui)植民地が設置された。1915年(大正4)に初めて日本人が入植し、1916年(大正5)には日本人部代理人に日本人青年 宮崎八郎が起用され、日本人の入植を支援したことにより、1923年(大正12)には296家族に達した。

バイベン植民地とブレジョン植民地

ソロカバナ線には、ブラジルにおける最初の邦字紙『週刊南米』の発行者で知られる星名謙一郎が1917年(大正6)にバイベン(梅弁)植民地、1918年(大正7)にブレジョン植民地を創設し、自らの新聞を使って土地を売り出した。ブレジョン植民地は開拓期に風土病、食料不足と過労による結核により多くの死者を出している。

サンパウロ州外

三角ミナスにおける米作

サンパウロ州の北部に隣接する、ミナス・ジェライス州の西方に突き出た三角ミナスと呼ばれる地域のリオ・グランデ川右岸には、サンパウロ州のコーヒー園を出た日本人が入植し、米作をはじめた。1919年(大正8)には410家族に達したといわれるが、第一次大戦後の不況、稲田の地力衰弱により日本人は四散してしまった。

沖縄出身者が集まったカンポ・グランデ

サンパウロ州の西隣のマット・グロッソ州のカンポ・グランデ市には、明治末から大正にかけてペルーからボリビア、アルゼンチンを経てラプラタ川を遡行してノロエステ線の鉄道工事に従事した人たちが住みついたのが最初で、以後、沖縄県出身者が集まった。

サンパウロ市内

サンパウロ市内には、第1回移民開始前から藤崎商会の店員、玩具の行商人、ホテルの下働きの人、など日本人が住んでいた。笠戸丸の契約移民のなかには大工などの職工移民が含まれていた。これらの人たちや自由移民のなかには、最初からサンパウロ市に住み始める人がいた。また、耕地から逃げ出してきて住み込みの家事労働者、大工、工場労働に従事し、サンパウロ市内に住み着く人が出てきた。
1910年代前半にはコンデ・デ・サルゼーダス街(略してコンデ街)に日本人が住みはじめ、日本人街ができていった。1914年(大正3)には大正小学校が創設された。