ブラジル日本移民論

As teses sobre a imigração japonesa para o Brasil

On Japanese emigrants to Brazil

日伯新聞社社長 三浦鑿が1923年(大正12)に『大阪朝日新聞』に寄稿したブラジル日本移民に関する論説。これが発表された当時、移民は出稼ぎであり、いずれは日本に帰ってくるものと考えられていたが、「移民は何所でも大体に於て一度出たら決して帰るものではない。」という将来を見越した鋭い指摘がなされている。三浦鑿が同紙に寄稿したこれ以外の論説は「神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫」(http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/)で読むことができる。

巴西植民の躓く石

三浦 鑿

 上
若し距離さへ近ければ伊太利人の如く燕移民となつて北半球の閑期を南半球の繁忙期に出稼ぎに来て直ぐ帰るによい、出稼移民なる称呼は是等に与へて始めて意味を為すが日本移民は出稼移民なると同時に植民だ、此の見解が十分徹底して居ない為めに我移民業は毎時いつも失敗ばかりしてをる。

 既に北米で経験した如く最初は移民として渡航したものが何れも植民に変化してをる、即ち彼等の経済状態が善ければ善くて慾が生じ悪ければ悪くて尚更本国に帰られないことになる、其内に外国の自由な而して呑気な生活に慣れて来ると兎ても日本の様な窮屈な繁雑な社会には堪へられなくなる、帰国移民が甚だ僅少で且つ其等は多く本国の煩瑣なる社会状態に堪へずして何れも再渡航するの事実は移民が到底植民であることを如実に語るものではないか、此簡単明白に過ぐる事実が厳存せるにも拘らず日本では尚移民を以て必ず一度は帰つて来るものの如く誤想して居る、而して旧式な移民保護法なるものが存する、然し移民は何所でも大体に於て一度出たら決して帰るものではない。

 伯国日本移民などは更に此傾向が顕著だ、第一距離が遠く地球の端から端へ往来するのでかく手軽に帰られない、加ふるに伯国社会は現今の珈琲園を除いた外殆んど放漫に近き自由な所である上に国土は飽迄も富んで居て日本の様に動もすれば働いても食へないなどと云ふ箆棒べらぼうな国ではなく、働けば必ず食へる所だ、国民の主食物が年々不足するなどの末恐ろしい国ではない、苟くも生活の安定に自覚するものは中々帰らうとは云はない、自然に落付いて植民となる[、]強ち此は日本移民に限つたことではなく伊太利の燕移民でさへも然りである。
既に移民は植民となるもの一度遠く外国に出ると最早其所に移民植民の区別が無いと言つてもよい、否一律植民になるものと見て差支はない、是だけの見越を付け其方策を定めてならば契約移民の奨励必ずしも不可でない、然るに我国の伯国移民は漫然たる契約移民で出発と航海と到着と配耕との監督は厳重に受けるが移民の帰着点たる植民に変化することに就いては何等の考慮を加へてない、事実左様なことは従来我政府の毛頭考ふる所ではなかつた、然るに伯国の日本移民はドシドシ植民になる、珈琲園を卒業して土地を買ふ者、借地をする者或は請負をやる者が中々沢山にある、最近の調査では約五千家族即ち全体の三分の二が植民になり又はならんとして居る、而して此傾向は決して停止せない[、]恐らく珈琲園を足塲として交代的に殆んど総てが此の道程を辿つて行くものと見て誤りなからう。

 十五年前最初に移民を送つた時から既に十分経験されて居るに拘らず此に関しては何等の施設も方法も講ぜなかつた其が今以て同様である、低級なる農民が競争の激甚なる所に単なる真似事をやつて碌な結果の得られやう筈はない、期せずして彼等は最も勤勉して実は最も不利益な立塲に置かれ之を切抜けて行くは容易ならぬこととなつた、是れ一に移民を送り放し珈琲園に入れ放しにして用が足りると考へ其後を更に構ひ付けなかつた報いだ、銓ずるところ無理解の結果だ、之を独逸人が調査指導を先にして移植民をして大体の方向を誤らしめないのに較べると我移植民政策はテンデ成つて居ないと云へる。

 親は無くても子は育つ、其でも日本人は珈琲園に抛り込まれただけで其後は銘々勝手の方角に発展して其所に自己の運命を開拓することとなつた、此には領事館の指図も移民会社の助力も何も受けない[、]全然生一本で進展した、最も早くから移植し始めたのがノロヱステ線で今でも日本人独立農の集団地としては最も大きく約二千家族から居る、其からアララクワラ線三角ミナス、今ではソロカバナ線に日本人の移動機運が向いて来た、其他遠くマトグロソ州からパラナ州迄も発展してゐる、日本に例へるなら青森から長崎あたりまでも散布してゐる勘定で之に対してサンパウロ市とリベロン市とバウル市とに日本領事館がある。

 草分の人々は先づ珈琲が有利だと直感して之を植ゑた、而も二三年後立木の儘で売抜帰国と云ふが彼等の思惑であつた、然るに珈琲は珈琲園としての設備が具つて居てこそ一株幾何の値も出るが此所に五千彼所に一万と散在して居たのでは細工にならない、之を完全なる珈琲園となすには新規に拵へるよりも金が掛るから何人も振り返つても見ない、従つて買手皆無、たまたまあつても右の理由で値段を叩かれるから悪くすると投下資本も取れぬ羽目となる、此で植民最初の思惑はマンマと外れた、誰一人売抜いたものとてはなくよんどころなく個々で経営してゐる。

 中
 尤もその後珈琲の価格も良く調節令も議会を通過して当分は高値を維持してゐるから差支ない様なものの元来珈琲は大農組織のもので区々五千や一万所有して居たとて到底完全な利益は得られない、而も之を珈琲園として設備を加ふるには余りに小に過ぎ合同しても完全な珈琲園にはならない是れ伯人の珈琲通が振向かない所以である[、]其でも日本人小農の所有に係る珈琲樹が約五百万本あるから大したものだ、此が数年後には平年にして少くとも七千五百俵の産額があり俵当り百ミルとして七百五十コントスであるが小農が区々の経営で珈琲を皮付で売ることになると半分か六掛位にしか行かない、若し始めから組織的に珈琲園を作るとしたら五百万本は数十個の立派な珈琲園が出来て居た、セメテ四五万本の珈琲園に仕立ても尚今よりは有利に経営し得べく売抜くにしても買手もある、而も日本人の珈琲は多くて一二万少きは三四千平均九千と云ふのだから何とも細工にならない、畢竟珈琲を米や豆と同様に心得て単に植付れば事足ると早合点したからである、最も研究の積んだ伯国の主産物に向つて表面だけの真似をしたからである、農民自体の考へに任せておくと得て斯様な結果を来すものである、移民を送るなら其と同時に伯国産業調査の永久的機関が出来て居なくてはならぬ、之が行届いて居なかつた為めに我植民は十年の歳月を甚だ苦労させられた、而して自然に出来上つた殖民地は頗る変なものになつた。

 移民から植民に変る道中で必ず出喰はすものは土地問題だ、日本人が独立して植民となる径路には勿論珈琲園生活の苦もあるが主として土地に対する憧れが熾烈である為めだと云へる、人口過剰土地不足一段歩何百円と頭に浸み込んでゐる日本人に取つて土地が廉価に且つ容易に買へると云ふことは何よりも耳寄りの話である、そこで新来の日本人は大抵之に迷はされて仕舞ふ、安い土地は交通不便にきまつてゐる、伯国では市街地が鉄道通過の土地でない限り地価は殆んど無いと云つても過言ではない、現にゴヤス州マトグロソ州に於ては一町歩日本金で二三十銭と云ふ所がザラにある、物の十万金も投ずるなら日本本土位の地積を買入れることは不可能ではあるまい、サンパウロ州の如く産業の発達せる比較的世智辛き所でも尚未開地二三万町歩と纏めて買ふなら大抵一町歩五六円見当だ。

 日本で官有地払下は必ず有利のものと極まつて何人も先を争うて之を得んと試むるが伯国では夫は無意味である、若し之を敢てする者あれば夫は伯国事情不案内でボロを掴んだ物笑ひだ、元のブラジル拓殖会社株主が官有地五万町歩無償払下に釣られたなどは日本に於てのみ有り得べき現象で伯国内若しくは伯国を諒解せる欧米では何人も決して陥らぬ所である、伯国の官有地、其はヤクザなものに極つてゐる、無償払下を受くれば必ず買ふより高く付くのが普通である、此点が動もすれば日本の資本家連の感違ひをする所で将来ともに必ず誤つてはならぬ点である、

 伯国共和政府は皇室ではない、四年を限つて交代する人民のものである、従つて目欲しい土地が政府財産などとして残つて居やう筈がない、又残しておくやうな愚直な者は一人も居ない、鉄道の利権を得ただけでもモウ其附近には政府の土地は影を没する、鉄道敷設に有望だとの風説が流布するだけでも官有地は無くなる、伯国の未開墾地は日本の御料地と同じく税金のかからぬ代物だから何人も之を所有して居るに疲労つかれない、従つて目欲しい所は皆政治家の所有になつて居る、昨今地租問題が稍論議されるやうになつたが之が実施は容易のことではあるまい。

 流石にサンパウロ州は伯国随一の雄州だけあつて小農奨励も他州に冠絶して土地の小売も中々盛んである、一アルケル(二町五段歩)が五六十ミル乃至百ミルで買へるのだから日本人誰しも気が気でない、金さへ出来れば先を争うて之を購入する、即金は稀で多くは三箇年年賦払だ、所が日本人は大抵余裕があつての土地買でないから鉄道から隔つた安価の土地でなければ買ひ得ない、此が恰も地主の思ふ壺に嵌つて所有地地価を釣上げんが為めには奥に日本人を投入して開墾させる、すると自然其前部一円が騰貴する、日本人は旨くダシに使はれた形である、中には鉄道支線の敷設を口実に欺かれて遠隔交通不便の地点に放り込まれたものもある、ビリグイ植民地などは正に其である、斯くして日本人は何れも鉄道沿線より少きも十五基米突キロメートル多きは二十基米突の地点を買はせられた而して永久に交通不便と闘つてゐる、多くは第一期分を支払つて入植し残部は作物を収穫して支払に充て大体に於て切抜けて来た、只切抜け得ないのは交通不便で此は百姓の手に終へない[、]個々の百姓が鉄道沿線に土地を購入するなどは日本人に限らず何人も伯国では殆ど不可能である、将来の新鉄道予定線附近と雖も会社か何かが余程巧妙に手を廻さないと買入れは困難である、既に土地が売物に出たとなれば何れも遠隔の塲所である、此が珈琲園退去後の移民の方途に就いて多少とも考慮しセメテ移民会社をして適当の地点に土地を購入せしめ適宜農民を抱容するとしたら今日の如き散漫無秩序な状態にはならなかつた筈である、而して其は是からでも決して遅くはなく同時に資本家に禍する如き危険なものでもなく斯して移民の保護は徹底する。

 下
 移民から植民になる道筋の中に新珈琲植付請負なる者がある、多くは三四年の契約で満期に際し一本幾何いくらの代償を受くるもので其期間内の間作物は全部請負人の所得となる、耕主は山林を伐採して珈琲の種子を給与するに止り坐して三四年を経過せば立派な珈琲園を受取るによく請負人亦珈琲園の王国的生活から逃れ植民同様の気儘なる労働生活が出来る所から自他共に之を便利として居る、年の豊凶農産物価格の高下に依り珈琲園の契約労働よりも比較的有利で資金を作るに早しと云ふ所から日本人の之に従事する者も少くない、これも亦経験に教へられた一道程に過ぎないが殖民地移住の練習として恰好のものである。

 従来日本移民は土地代並に伐採費のみを用意して入植するを常とし収穫時までの糧食は総て地方商人の懸売に依頼し出来秋の産物を以て支払つて居る、所が之が現金買よりは大抵三、四割高価なる上支払に充つる農産物は時価より一二割方安く引取らるるを常とする、新開地に到る程此弊風は甚しく懸買と現金とでは全体に於て殆ど倍額の相違がある、伯国では如何なる商品と雖も都会で仕入れ地方に売捌くならば之が倍額にならねば承知せぬ、実際多くは倍になるのだ、農産物仲買にしても一秋の田舎稼ぎに資金が倍にならねば誰も悦んで行く者はない、一部の新聞紙と雖も都会を離れた汽車内では倍額であり二日目の汽車内では既に三倍となり三日目の汽車内ではモウ原価の四倍に売つてをる、随分乱暴のやうであるが事実だ、其他の商品はマサカ此の率で騰貴しては居ないが地方に行くに従つて何品に拠らず五割七割高価だ、交通不便物資の供給不足は自然物価を騰上せしめねば止まぬが此間悪辣なる商人の跋扈は更に之を甚だしからしめてゐる、然るに日本人には購買組合も販売組合も作る能力が無い、久しきに亙つて外人から膏血を吸はれてゐる。

 日本移民も足一度伯国の土を踏むと不思議に投機気分が旺盛となり、百姓と云はんよりは相塲師と呼ぶを当れりとする位である、殊に移民から植民に変じた塲合に於て甚だしい、流石に珈琲園に契約労働に従事して居る間は年期奉公の身で動きの取れぬ所から柔なしいが一度独立農になると忽ち思惑農業を試むる、米豆棉何によらず価格の良好な品に向つて単一農法で勝負を決しやうとする、之が為戦時中は多数の米成金、棉成金を輩出した、而も一朝不景気に遭遇すると百姓の癖に家に食物がなく買つて食ふ様の変態を生じた、加ふるに粗笨そほんなる農法のこととて最初の一二年間は誰しも一家族十町歩内外を耕作し得たものである。其が三年五年を経過すると雑草に追はれ日雇人夫を入れれば利益の大半を食はれて仕舞ふ羽目となり折角の開墾地もみすみす放棄した者も少くない、尤も此気分を煽つたものは間接に大戦中の物価狂騰にありとも云へるが尚大体に於て一攫千金の夢が醒めず単一農法で勝負を決しやうとする傾向が抜けない。植民地の金利が法外に高い上に金融が甚だ円滑でないのは植民の最も不便とする所だ、素より買手の付かぬ珈琲は銀行の抵当物にはならない只地方商人が出来秋の産物をあてに短期の融通を為すのみである、而して其が悪辣な高利で大抵は月三歩四歩、月一歩は法定利息で植民地に於ては到底左様な生優しい金などは夢にも見られない、思惑投機気分に囚はれたる日本植民の多くは失敗時に際して高利の厄介になることが最も多い、勤勉にして而も最も不利益な立場に置かれて居ると云ふは全く此点にある、之を放任しておくか或は何等かの保護機関を設くるのは刻下の重要問題で同時に甚だ困難なことである、自然に発生せる植民地は之に保護機関を設くるとしても之を受容れる条件が調つて居ない、初めから植民地を計画したものだと多少の無理を忍べば保護機関の設置も強ち不可能でないが、恰も区々の珈琲が珈琲園とならぬが如く普通の保護機関其儘を据付けやうとしても其は遂に用を為さない[、]何しろ青森から長崎へん位迄に撒布してゐる植民のことだ、生半可な保護機関を設けても到底及びも付かない。

 移民から植民になることは厳然たる事実で而も中々に旺盛である、然し自然に発生した日本植民は何処までも野生である、而して何人も之を顧みなかった結果従来は事実上棄民として扱はれた、其にも屈せず我植民は発展した、将来も尚大に発展する、勿論多大の犠牲は払つたが決して頓挫しては居ない、経験の教ふる所は次第に我植民を巧者にして初期時代の不利を繰返すことは少いが、其でも調査の行届いた保護指導機関の備はつて居る抱容地があるのと無いのとでは我植民発展の上にも勢力を集中する上にも異常な相違がある、放漫なる現在の植民地を整理して之に相当機関を設置することは困難であるが将来の伯国日本植民を継続し拡大して行く為めには是非とも抱容地を選定し之が方途を誤らしめないだけの用意が必要である、単なる移民送附は現代の実情と併行しない。