「満洲事件ニヨリ濃厚ノ度ヲ加ヘタル排日気運ニ関スル件」 (昭和8.5.10 林久治郎駐ブラジル大使より内田康哉外務大臣宛)
外交史料館所蔵
Arquivo do Ministério das Relações Exteriores
公機密第五八号
昭和八年五月十日
在伯
特命全権大使 林久治郎
外務大臣 伯爵内田康哉殿
満洲事件により濃厚の度を加へたる排日気運に関する件
伯国に於ける一部人士の本邦移民反対意見は、従来多くは間歇的に発表せられたるを以て、単に表面に現はれたる事実のみを基礎として判断を下すときは、一見偶発的現象に過きざるかの如く思惟せられるるも、深く裏面の実情を探査するときは、伯国人中真に排日家と称すべき者は幸にして其の数未だ多からざるも、其の間に永続一貫して流るる所の一条の暗流伏在し、何等かの動機が少しにても之に衝動を与ふるに於ては、忽ち奔騰して表面に溢出し、与論を刺戟して言論界に排日論の頻発を促す次第なることは、数年来、
伯国人中の本邦移民反対論者が従来提唱したる理由は、区々且雑多にして一定せざるも、我移民渡伯開始当時に於て一般に奇異なる移民として、其の価値に就ても懐疑の眼を以て見られたる時代と、其の後年所を経るに従ひ、我移民の長所短所共に漸次認識せられ来れる現時とを比較する時は、其の間に相当顕著なる変遷ありたる形跡を認めざるを得ず。
即ち、日本移民は珈琲園及一般農業の労働者として不適当なり云々等の昔日の反対理由は、殆ど消滅に帰し、其の代り近来は、
一、日本人は固有の高給文明によりて、訓練せられたる優秀民族にして、其の優秀民族たるが故に却つて同化至難なり。従て永く癌腫となりて遺留し、将来伯国民の人種構成上妨害となるが故に其の多数入国は之を遮止せざるべからず
二、仮りに一歩を譲りて日本人は伯国に同化し雑婚するとしても、人種改良上より見て日本人の多数混入することは望ましからず
との二点(何れも異人種たるに基因す)を以て主たる反対理由とし、別に医学者等の間には、日本移民は伯国に無き危険なる疾病を輸入する恐ある事、又結核、トラホーム等の患者多き事等を挙げて、国民保健の見地より反対意見を発表する者尠からず。
要するに近来の日本移民反対理由は不同化性乃至人種改良分子としての不適性等人種の相異に基くものを主とし、之に保健上の理由を幾分加味せるものと見るを得べく、我移民の大数入国を政治的に危険視する論者は、従来其の数極めて少く、従て此の理由に基く排日論は頗る影薄きの観ありたるも、一昨年の満洲問題発生以来、我国を以て徹頭徹尾帝国主義を奉ずる軍閥跋扈の国なりとし、或は支那及国際連盟に対する我国の態度を憤るの余り極端なるは排日家となり、然らざるも我国に対して好感を抱かざるに至りたる伯国人士決して尠しとせず。
而して此等の人士、
今其の顕著なる一実例を挙ぐれは、当国新聞の泰斗ジヨルナル・ド・コメルシオが、従来の親日態度を急に一変して、最近、
本邦の対満及対支行動並之に伴ふ国際連盟脱退は、伯国が既に脱退国なること又国内の政争の為に多くの注意を利害関係少き極東問題に注ぐの
伯国行日本移民を満洲に転向せしめんとする運動増大しつつあり、在満洲日本陸軍に於ては、移民部を設け且来年度の予算中に伯国行移民補助費として計上せられたる金額を満洲国行移民の資金融通に適用せんことを
日本陸軍の意見に依れば、日本か連盟を脱退したる上は其の国人を伯国に移民することは最早勧奨すべきにあらず。何となれば若し世界の外交的反日運動が進展する場合、不利に陥るべきか故なり。之に反し満洲国に向ふ移民は歓迎せられたる上に尚皇軍の適当なる保護を受くべし。
との一見甚た無邪気なるか如き報道なりと雖も、伯国人にとりては其の親日家たると否とを論ぜず、一般に一読不快を感せざるを得ざる底のものにして、日本移民を賛成若は歓迎しつつある人々は日本か満洲の為に伯国を袖にすることを不満乃至遺憾とすべく、又排日家は日本が果して満洲に対すると同様の企図を以て伯国に大数の移民を送出し、而して其の背後に軍部の支援ありとせば大に警戒を要すとの念を益強大ならしむるや必せり。
右は単なる推測に止まらず、実際此等両様の感想か新聞の評論となりて現はれたる次第は、往電第四六号、第四八号及第五三号を以て報告し置たる通にして、本件に関し伯国人の誤解を避くる為め、我方に於て不取敢実行したる対策は去四月二十六日附通三機密第五十一号公信を以て具報せる所の如し。
次に公衆保健上より真剣に重大理由と認め、若は既に抱ける排日意見を高唱する為の好箇の口実として本邦移民の衛生状態不良なるを非難攻撃したる最近の実例としては、往電第五六号及第五八号を以て不取敢報告し置きたるりおでじやねいろ丸輸送移民の件を挙ぐることを得べく、更に既往に溯りて幾多の実例中顕著なるもの二三を数ふれば、大正十四年には我国の一部に先づ嗜眠病(脳脊髄膜炎)、続いて虎疫[注 こえき 虎列剌の意]流行せりとの新聞電報か伝はりたる丈けにて、尚且日本移民反対論の頻発を見たる上、サンパウロ州衛生局長パウロ・ソウザ氏より日本移民は性質未詳の一種の病菌保有者なるを以て其の入国許可を見合す方、然るべしとの意見を州政府に上申し、該上申は連邦政府に進達せられたることあり。
越へて昭和二年にはウ・パイース新聞に衛生医セバスティアン・バルローゾの日本には二十種以上の寄生虫病あるを以て、乗船前伯国衛生医をして検査を行はしめたる上、伯国に到着の際更に厳重なる衛生検査を行ふ必要ありとの論説現はれ、昭和三年七月にはリオに入港したる若狭丸検疫の際伝染病の疑ある患者ありて一時交通遮断を命ぜられたることが動機となり、諸新聞に日本移民誘入を不可とする論説掲げられ、同年はわい丸伯国に向け印度洋航行中輸送移民の間に虎疫患者を出すや、当国の与論は明に同船の入港及移民の上陸を拒むものと観測せられたる結果、中途より一旦之を本邦に送還せしめたるに拘らず、新聞紙の評論の目的となり、殊に昭和五年中鎌倉丸もんてびでお丸か多数のトラホーム移民を搭載し来り、衛生検査の結果前者は家族とも八十八名後者は同百二十九名の本国送還を余儀なくせられたる等、伯国官民か保健上より我移民に対し深甚の注意を払ひ、排日家は之を理由として我移民誘入に反対せんとの意図あるを察するに難からず。
加之近年欧洲移民の入国数激減せるに反し、我移民は漸進的に増加して入国移民統計上国籍別として上位を占め、一般世人の注意を惹くに至れると共に、益排日家の神経を尖らしめ居れる際なるを以て、僅に上記の如き新聞電報若は移民衛生状態不良の報道の如き一小石を投ずるも其の波紋の及ふ範囲は以外に広く、決して油断すべからざるを以て当館としては常に与論の善導を怠らざると同時に、上記の如き動機により与論の悪化せんとする場合には、之に対して最善と思料する対策を臨機講じ来れる為、幸にして今日迄は其の延焼拡大を防止し得たる次第なるも、事件発生後に当方に於て執る所の対策なるものは、畢竟するに病むて後に治療を行ふの類にして、我国に於て其の病根を絶つの勝れるに如かざるを信ず。
而して其の方法としては在本邦外国通信員の操縦、移民の厳選、宣伝上の注意等を主とすべく、従来伯国に於て対日物議の種子となりたる新聞電報が十中八九ユーナイデツド・プレスにより供給せられ居る事実に鑑み、特に同社通信員に対しては今後一層の御配慮を煩はし度く、尚在亜山崎公使発貴大臣宛電報第四二号記載の我伯国行移民と軍部との間に連絡あるかの如く思はしむる行動を始めとし、伯国に新日本建設を高唱する如き移植民勧誘の宣伝は、何時かは当国人間にも知悉せらるる機会あるべく、従て排日の動機となるべき可能性を有するものなるに付、之か適当なる取締方に就ても充分御注意相成る様、致し度事情、具報
本信写送付先 在サンパウロ 内山総領事