第5章 ナショナリズムの昂揚と日本人移民の排斥(1)

二分制限法の成立と日本移民排斥への動き

排日論の高まり

1930年(昭和5)10月ジェトゥリオ・ヴァルガスの革命により成立した新政府下、大恐慌により失業者が増大する中、ナショナリズムが昂揚し、国民の間に外国人排斥への共感・支持が浸透し、同年外国人移民が制限された。しかし、日本移民は唯一その制限を免れたため、突出して入国者数が多く、とかく目につきやすい存在となっていた。
他方では1931年(昭和6)の満洲事変以降、ブラジルにおいても日本の行動に対する反感が生まれていた。特に1933年(昭和8)4月8日東京発のUP電として、リオデジャネイロのポルトガル語紙が日本の軍部がブラジル行移民を満洲行移民に振り替えようとしていると報ずると、親日家は満洲のためにブラジルを袖にしようとしていると不快感を覚え、排日家は日本がブラジルに多数の移民を送り込む背後に日本の侵略的意図を読みとり、警戒感を強めた。
このような状況のなかで排日論が活発に議論されるようになっていった。

二分制限法の成立

1933年(昭和8)11月30日以降、憲法制定会議の委員会で連邦新憲法案の審議がはじまると、人種による移民制限規定、実質的には日本移民制限規定を挿入する修正案4案が提出された。その提案理由として、日本移民に同化性がないこと、人種構成上アジアおよびアフリカ系の混入が望ましくないこと、ブラジルの満洲化の危険性があることが挙げられた。これらの案に対し賛成反対の立場からさまざまな議論がかわされたが、最終的には1934年(昭和9)5月24日、排日派のミゲル・コート(Miguel de Oliveira Couto)教授の提出による各国移民の数を1884年(明治17)から1933年(昭和8)までの50年間の定着数の2%に制限するという修正条項の追加が本会議で可決された。これにより日本移民の定着数142,457人を基数として、法定入移民数はその2%の2,849人に制限されることになった。
ただし、実際にはこの措置は即時に実施されず、かつ、14歳未満は割り当て数に加えないなどの措置が取られため、1937年(昭和12)まで5千人内外が入国した。

訪伯経済使節団

二分制限法の成立に対し、日本では日伯間に学術、芸術、宗教、経済、スポーツ等を通じた民間外交がなかったという反省がなされ、日伯両国の親善増進と貿易促進を目的に、1935年(昭和10)5月から6月にかけて日本商工会議所により訪伯経済使節団(団長は平生釟三郎(海外移住組合連合会理事長))が派遣された。
綿花の輸入については、1934年(昭和9)日本綿織物振興会の代表が訪伯し、すでに研究をはじめていたが、経済使節団の訪問により、日本移民の栽培・生産した綿花を買付・輸入する道が開かれた。この結果、1936年(昭和11)以降、太平洋戦争勃発まで対日綿花輸出が急増した。使節団は綿花の買付けという面では成功を収めた。

アマゾン・コンセッション契約の否認

しかし、このような経済的な友好関係の構築も、日本人排斥の動きを抑制することにはつながらなかった。新憲法第130条により1ha以上の土地のコンセッション(無償譲与)契約はその都度連邦議会上院の許可を要することになり、1936年(昭和11)3月、アマゾニア州によりアマゾニア産業研究所との間のコンセッション契約が上院に提出された。ちょうどそのころから排日団体トレス協会が黄禍論によるコンセッション反対運動を開始していたところで、ポルトガル語紙には日本がパナマ運河をうかがい、アマゾンを海軍根拠地としようとするといった扇情的な排日記事が掲載された。
議会内外で賛否両論の意見があり議論は紆余曲折を経たが、結局同年8月24日国防的見地から州政府の申請を拒否すべきとの上院調整委員会の報告が本会議において全会一致で採択され、コンセッション契約は否認された。

日本語教育の禁止

10歳以下の児童への外国語教育禁止

サンパウロ州では、1920年(大正9)12月に成立した州教育法の改正で、私立学校での10歳以下の児童への外国語教育が禁止されたが(公立小学校では外国語教育をしない)、その後も日本人集団地の小学校では、教育自体が日本語で行われているのが実情であった。
1928年(昭和3)10月、ブラジル人の教師もおらず、10歳以下の児童に日本語を教授しているとして、サンパウロ州の学務当局によりノロエステ線沿線の数十の小学校が閉鎖を命じられるという事件が発生した。その後、無認可の日本人学校のなかには、州当局からブラジルの小学校としての認可を得て、付属的に日本語教育も行うことができるよう手続をとる学校が出てきた。

日語学校の閉鎖

1936年(昭和11)9月、サンパウロ州教育長がバストスなど奥地の学校を巡視した際に、サンパウロ市の『フォーリヤ・ダ・マニヤン(Folha da Manha)』紙に日本人児童のポルトガル語習得状況がすこぶる不満足な旨の視察談が掲載された。他紙もこの記事を引用して、日本人の不同化を問題視した。これに対し、日本人教育普及会は早急に対応策を協議し、10月15日、「伯主日従主義」の教育方針を採り、10歳以下の児童への日本語教育を原則禁止することを申し合わせた。
しかし、ナショナリズムに基づく政策はこの後も展開し、1938年(昭和13)5月4日には、農村地域の学校において14歳以下の学童への校内での外国語教育を禁じ、教師もブラジル生まれのブラジル人に限定する外国人入国法(Decreto-Lei N. 406. Dispoe sobre entrada de estrangeiros no territorio national)が制定され、同年12月21日から施行された。これにより、農村地帯(連邦府・州の首府および外国人入国港以外の地域。サンパウロ州ならばサンパウロ市とサントス市以外の地域)での日本語学校は閉鎖を余儀なくされた。
日語学校閉鎖後、日本語教育は、家庭教育や巡回教授を中心に行われることになった。だが、巡回教授は子どもを4, 5人集めて行うため、しばしば違法な日本語学校として密告され、ブラジル当局の摘発を受けることになった。
こんななか、ブラジルでの教育をあきらめ、子どもを日本に遣って教育を受けさせようとする人も出てきた。

二世の成長

1935年(昭和10)前後になると、サンパウロ市で150人ないし200人の日系人が中学校以上の学校、10人近くが大学に在籍していた。1934年(昭和9)10月21日には、中学生以上の日系学生の親睦団体として聖市邦人学生連盟が結成された。
二世の考え方は、自身の成長の過程でのブラジル社会への接触の度合いによって違いが出てきた。奥地の日本人集団地で育った二世には、ブラジルの国土に愛着を持っているが、日本語もよくでき、一世の日本に対する愛国心を受け継いでいる人がいた。これに対し都会でブラジル社会との接触が多かった人には、父母の国として日本を尊敬するが、日本はあくまで父母の国にすぎず、自分たちはブラジル人であり、ブラジル人としてブラジルを愛すると考える人もいた。
二重国籍を持つ二世の中には、日本に行き入営する人がいた一方で、第二次世界大戦へのブラジル参戦後(1942年(昭和17)8月22日、独伊両国へ宣戦布告)、ブラジル兵士としてイタリア戦線に出征する人もいた。