日誌[芦田均日記 憲法改正関連部分]

憲法改正に関連する部分のみをテキスト化しています。

昭和20年10月16日
昭和21年2月19日
昭和21年2月22日
昭和21年2月25日
昭和21年3月5日
昭和21年3月6日
昭和21年6月25日
昭和21年7月17日
昭和21年8月10日
昭和21年8月17日
昭和21年8月18日
昭和21年8月19日
昭和21年8月25日
昭和21年11月3日
昭和21年11月8日
昭和22年5月4日



十月十六日

この部分は未テキスト化。

憲法改正問題は十月十日午前の閣議に於て松本国務大臣から発言があつたが、幣原総理は憲法を改正しなくとも、解釈に依つて如何ようにも運用が出来るとの主張である。然し自分の考は現行憲法がポッツダム宣言の第十条と相容れない点をもつて居ると思ふ。欽定憲法といふ思想そのものがアメリカ人の云ふデモクラシーと相容れないと思ふのである。其処へ新聞紙は近衛公が内大臣府御用掛を命ぜられて、憲法改正案を調査するとの記事を掲げたから内閣として此問題に対する態度を決定しなけれバならぬ破目になつた。政府は心ならずも之に引摺られたのであるが、然し松村農相の如きハ内閣が憲法修正を考慮してゐる等といふ事が外間に洩れることさへ困るとの意見であつた。私ハ率直に今日の事態に於てハインテリ層ハ明かに憲法改正を必至と考へて居るし、六三条の修正案の発議権を議会に与へないことはポツダム宣言と相容れないとも述べた。閣議ハ相当興奮したことを記憶する。かかる段階を経て漸く内閣でも松本国務相を主任として憲法修正の研究を進めることに決定したのである。

この部分は未テキスト化。



この部分は未テキスト化。

(憲法改正にBomb shell)
憲法論議第一日 二月十九日

定例閣議が午前十時十五分に開かれた。蒼ざめた松本烝治先生が発言を求めて、極めて重大な事件が起つたと云ハれた。松本さんは憲法改正案についてScapとの交渉の顛末を詳しく報告したいと前提して大体次の通り話された。
“Scap側でハWhitneyから可成早く松本私案を持参せよと求められた。よつて二月初旬に改正案文と説明書とを送付した。
先週の水曜日(十三日)に外相官邸に於て先方の四名(Whitney,Hussey等)と会見した(吉田外相も同席して)。
其席に於てWhitneyが発言して次の趣旨を述べた。
『日本側の案は全然unacceptableである。依つて別案をScapに於て作製した。この案は聯合国側でもMacArthurも承認した。尤もこの案を強制するといふには非ず。日本国民が真に要望する案なりと思ふ。MacArthurは日本天皇を支持するものであつて、この案は天皇反対者から天皇のpersonを護る唯一の方法である。日本の憲法は左翼へ移行するのが良いのである。日本国民が政治意識を得るようになれば此案に到達するに違いない。日本ハこれに依つて初めて国際社会に進出することが出来るであらう』。

以上の発言を聞いた私ハ一応総理に尋ねた後に返事するのを可とすと考へ、深く質問することを敢てしなかつた。然しScap案は日本にも一院制の採用を規定してゐる。これは全く危険であつて、而も欧洲諸国にハ其例はない。よつて自分はアメリカにも上院制は存在してゐるでハないかと尋ねたところ、米国はState代表の意味の上院ハ存在してゐるが、日本にハStateハ無いのであるから一院の方がsimpleで良いでハないかと言つた。
私ハ米国側に対して更に改正憲法案に対する追加説明書を起案した。その要点ハ次の如き趣旨である。
1、米英はDemocratic Constitutionを持つ国であるが、それでも両国の憲法にハ大差がある。それと欧洲列強の憲法ともかなりの相異がある。理由ハ専ら国情を異にするからである。凡そ一国の法制はその国独自の発達によつて成るものである。他国から移入した制度ハ容易に根を張るものでハない。例へば中南米諸国は多くアメリカ憲法に摸してPresidential Democracyを採用したが絶えず武力革命によつて動揺してゐる。そして結果に於てDemocratic institutionに到達し得ない。ドイツのWeimar憲法も亦同様であつて、この条項が実行さるればドイツは純然たるDemocratic Countryになつた筈である。然るに間もなくNazisの専制政治に堕した。これも国情を異にするものが外国の制度を植付けんとして失敗した例である。
2、以上の例によれば、憲法は国民性を基礎とすることに依つてのみ其持久性をもつのである。然らざれば専制政治又ハ暴民政治に化して了ふ。各国法は原則を同じくするも形式と内容は必ずしも同一でハない。それは恰も植物と同様であつて、欧米のバラ樹も日本に移植すれバ間もなく其香を失ふと同じである。
3、松本案ハ極めて簡素であつて、且微温的であるけれども、其内容は略イギリス型の立憲政治を覗つてゐる。これは保守派の無用の反対をさくる為めである。而も実際の適用を見るときは旧憲法に比して革命的な変化といふべきである。Democratic Institutionは憲法々文の決定するものでハはなくて、国民の政治的教育と意慾とによるものである。故に反動をさけよふとならば改革は須く漸進主義によらねバならぬ。
修正案ハ全く以上の趣旨に基くものであつて日本にハ今尚ほ反動思想的底流あるを知るが故にかような形にしたものである。修正を要すべきものあらば具体的に御指示を希望す云々と。
このNoteは二月十八日に使を以てWhitneyに送届けた。其際Whitneyは使者に向つて、“松本修正案ハScap案とハ異る。PrincipleとBasic formとがacceptableなりや否や、水曜日(二十日)午前中に返事を求む。もしacceptableでなけれバ、米国案を発表して輿論に問ふこととする”と。

以上松本氏の報告終ると共に、三土内相、岩田法相ハ総理の意見と同じく“吾々は之を受諾できぬ”と云ひ、松本国務相ハ頗る興奮の体に見受けた。
自分は此時発言して、若しアメリカ案が発表せられたならば我国の新聞ハ必ずや之に追随して賛成するであらう。其際に現内閣が責任はとれぬと称して辞職すれバ、米国案を承諾する連中が出てくるに違いない、そして来るべき総選挙の結果にも大影響を与へることハ頗る懸念すべきであると。
松本先生ハ声に応じて賛同し農林大臣も卑見を支持して先方の案ハ形に見る程大懸隔あるものとハ思ハれないから正面から反対する必要ハないとの意見であつた。
安倍文相ハアメリカ案を反駁するにハ内閣の改正案について確信のある処まで固めて置く必要があるのであるが、現在の松本案ハ内閣案として確定したものでハあるまい。内閣案を決定するにハ他の閣僚の意見を発表する機会を与へられたいと述べた。
幣原総理ハ松本案ハ松本案であつて内閣案でハない、然し問題が重大であるから至急MacArthurを訪問して話して置きたいと云ハれた。
私ハ更に発言して大体次のように先方へ申入れてハどうかと云つた。
(a)米国案ハ主義として日本案と大差無し
(b)Basic formの中にハ改正案を実施する上に我憲法と矛盾する点もあり(例へバ貴族院の協賛なくして有効なる憲法を制定すること不可能なり)今少し研究を要す。これハ四十八時間の期限付回答を求めらるべき性質のものに非ず
(c)政府ハ此点についても政党領袖の意見をも徴して回答することとしたし、そう云つたところ
(c)の点についても松本氏ハ左様に快速にハ運べないし、又自分としてはアメリカ案を基礎とする如き修正を再起稿することハいやだし、出来ないと云つた。
だが形勢がかくなる以上、遅疑すればScap案が洩れるに極つてゐる。政府としてハ何等か早く手をうたねバならぬ。
そこで総理が急速にScapを訪問されることを決定し、問題を如何に取扱ふべきやハ次の閣議で決することに発議して午前の閣議を終つた。

憲法論議第二日 二月廿二日

朝の定例閣議の冒頭に於て幣原総理は昨日MacArthurと三時間に亘る会議の内容を披露された。以下総理談の要領を誌す。
“MacArthurは先づ例の如く演説を初めた。『吾輩は日本の為めに誠心誠意図つて居る。天皇に拝謁して以来、如何にもして天皇を安泰にしたいと念じてゐる。幣原男が国の為めに誠意を以て働いて居られることも了解してゐる。然しFar Eastern CommissionのWashingtonに於ける討議の内容は実に不愉快なものであつたとの報告に接してゐる。それハ総理の想像に及バない程日本にとつて不快なものだと聞いてゐる。自分も果していつ迄此の地位に留りうるや疑ハしいが、其後がどうなるかを考へる時自分は不安に堪へぬ。
ソ聯と濠洲とは日本の復讐戦を疑惧して極力之を防止せんことを努めてゐる。
米国案は憲法をproclaimするのは天皇であるとしてゐるし、第一条は天皇が相承けて帝位に留られることを規定して居る。従つて日本案との間に越ゆ可らざる溝ありとは信じない。むしろ米国案は天皇護持の為めに努めてゐるものである。
吾等がBasic formsといふのは草案第一条と戦争を抛棄すると規定するところに在る。(第一条に)主権在民を明記したのは、従来の憲法が祖宗相承けて帝位に即かれるといふことから進んで国民の信頼に依つて位に居られるといふ趣意を明かにしたもので、かくすることが天皇の権威を高からしめるものと確信する。
“又軍に関する規定を全部削除したが、此際日本政府ハ国内の意嚮よりも外国の思惑を考へる可きであつて、若し軍に関する条項を保存するならば、諸外国は何と言ふだらうか。又々日本ハ軍備の復旧を企てると考へるに極つてゐる。
“日本の為めに図るに寧ろ第二章(草案)の如く国策遂行の為めにする戦争を抛棄すると声明して日本がMoral Leadershipを握るべきだと思ふ”。
幣原は此時語を挿んでleadershipと云ハれるが、恐らく誰もfollowerとならいだらうと云つた。
MacArthurは、“followersが無くても日本は失ふ処ハない。之を支持しないのは、しない者が悪いのである。”
松本案の如くであれば世界は必ず日本の真意を疑つて其影響ハ頗る寒心すべきものがある。かくては日本の安泰を期すること不可能と思ふ。此際は先づ諸外国のReactionに留意すべきであつて、米図案を認容しなければ日本は絶好のchanceを失ふであらう。”
第一条と戦争抛棄とが要点であるから其他については充分研究の余地ある如き印象を与へられたと総理ハ頗る相手の態度に理解ある意見を述べられた。
幣原男はMacArthurに対し、主義に於て両案にハ相違なし、先日の案は松本氏が纏めたtentativeの案であつてMy mind is opened to criticismと述べ、篤と松本氏より説明を聴かれたしと云つた。更にMacArthurは、Whitneyは一見してCold blooded lawyerであるが悪気のある男でないと附言した。
以上の如き説明に対して松本国務相はかなり興奮の面持を以て意見を述べられた。
『Basic formsが果して総理の云ハれる如きものであるとしても之がWhitney等の意見であるかどうか確めたい。然し私見によれば
(1)米国式方式を日本憲法に書き下すことは議会を前にして時間的に不可能であり、正に超人的事業であるから私にハ出来ない。
(2)仮にかかる案を提出すれば衆議院ハ或ハ可決すべきも、貴族院は到底承諾を与へざるべし。
(3)独乙、南米等の前例に見て明かなるが如く外より押つけた憲法ハ所詮遵守せらるべきものに非ず、混乱とFascismの弄ぶところとなるべし。
之に対し安倍文相は彼我の案がprincipleに於て相異なしと云うハるるも--尤も自分の気持は米国案が受諾出来ぬといふのでないけれど--第一条の如きはかなり相反するものであり、戦争抛棄の如きも亦現憲法と多大の相違ありと思ハる。その点はどうかとの発言が在つた。
私ハ次のように云つた。
戦争廃棄といひ、国際紛争は武力によらずして仲裁と調停とにより解決せらるべしと云ふ思想ハ既にKellog PactとCovenantとに於て吾政府が受諾した政策であり、決して耳新しいものでハない。敵側は日本が此等の条約を破つたことが今回の戦争原因であつたと云つてゐる。
又旧来の欽定憲法と雖満洲事変以来常に蹂躙されて来た。欽定憲法なるが故に守られると考へることハ誤である。
松本先生ハ修正案を再修正するが時間的に不可能なりと申さるるがProf.PreussはWeimar憲法の起草を委嘱されて三週日の間に之を書き上げた。松本先生の学識と経験とを以てすれバ必ずしも不可能とハ思ハれぬ。是非最善を尽されむことを望む。
引続き三土内相、副島農相、幣原総理が意見を開陳し、孰れも両案妥協の余地ありとの見解であつた。安倍文相は松本案を以て政府の確定案である如く、或ハ又松本案に余り固執する如き印象を先方に与へらるることはさけ度しとの意見を述べた。
結局二十二日午后二時、松本国務相は吉田外相と同道してGHQに行くことを決定して閣議は十一時四十分事務処理に移つた。

其三 二月二十五日

朝八時の臨時閣議に於て選挙期日十日間延期の決定があつて、後に松本国務相より二十二日午后、同氏と吉田外相とがWhitney其他に面会した経緯の報告があつた。
松本国務相曰く
I、“自分はWhitney一党に対し米国司令部案は領承しました。案の根本主義は私案と差異は無いが、Basicformsとは何を指すのであるか。何章と何条とが之に該当するや”と尋ねた。之に対し彼ハ曰く、米国案はあれで一体を為すものであつて何章と何条がBasicformsを為すと指摘し得ず。然し些少の点は訂正し得べし。
II、松本曰く、現行の憲法を修正する方法にては如何。
彼曰く、一応考へて見たがそれでハ所詮目的を達し得ず。
III、米国案の前文(Preamble)と見ゆるものは憲法と一体を為すものなりや。
彼曰く、その通なり。
松本曰く、前文に誌すところものは例へば人民の意力により、人民の名に於て宣明すといふ如きは吾国現行法が天皇にのみ憲法修正を発案し得ることと為せるとハ全く相容れず、憲法修正案は天皇の発案と為すの外なし、と思ハる。
彼曰く、それはいけぬ。新憲法ハ人民の発意によるとすること絶対に必要なり。新憲法の前文に“人民の意思によつて宣明す”と記載すべきものと思ふ。
IV、松本曰く、米案の2条と現行憲法73条との関係を如何にするかと云へバ、先以て現行73条を改正して、然る後に議会にて修正案を進める外なしと信ず。それは修正案可決の定足数に相異あるを以てなり。

V、国策遂行の具として第2章の戦争を廃棄すとの声明は憲法Preambleに挿入してハ如何。これは宣言の一種なり。と松本の述べたるに対し、Whitneyは、前文にてハ不可なり本文に入るべきものなり。
VI、松本曰く、″皇室典範″の文字には常に「議会にて制定したる」との形容詞あり。之を変更し得ざるや。
彼曰く、“凡て人民の意思を尊重して為すべきものにして、之を変更することは不可なり”。
VII、人民の権利義務の章には吾国の現行法規と重複するもの頗る多し、かかる条文は削除し得ざるや。
彼曰く、憲法に掲ぐればsupreme lawとなるが故に荘重の度を加ふ。夫故にこそ一層保障となるなり。
VIII、松本曰く、吾国情にハ是非二院制を必要と思料す。此点の見解如何。彼曰く、上院と雖人民の選挙によるものならば或ハ差支へなからむ。
松本曰く、間接選挙にては如何。(之に対して先方は間接選挙の意味を理解せざりしものの如く、府県議員等が投票人となる場合如何との問に対してもそれが人民の代表とせば差支なからむと答へたり)。
然し勅選議員ハ絶対に認む可らずと言明せり。
IX、松本曰く、日本文にて米国案の如きものを表現することは極めて困難にして自分の力にては覚束なし。(之に対し先方ハ、松本の能力を推賞し必ず之を為し得べく三週間位にて出来るならむ等云へり)。
X、松本曰く、兎に角一生懸命に勉強すべし。二十六日にハ閣僚にも報告する考なり。

右終つて、第一章、第二章の翻案が第一稿として出来上つたからとて松本さんが朗読された。私ハ余り感心しない訳文もあると考へた。願ハくハ今少し衆智を聚めて仕事をしたらばと思つた。

この部分は未テキスト化。


憲法改正(第四) 三月五日

朝の閣議に総理と松本先生がseriousな面持で入場した。松本さんが憲法問題の其後の経過を報告すると前提して次の如く説明された。
二月廿二日閣議を了へて午后二時に松本国務相は外相と同伴、G.H.Q.にWhitney以下を往訪し、約一時間四十分間会談した。
松本氏はFundamental principlesに就てハ双方略一致してゐるがBasic formsについては尚ほ充分明瞭ならぬ点ありと述べ種々意見を交換したことハ廿五日の閣議にて報告した。
一方松本氏は十九日の閣議終了以後、米国案に基き翻訳に着手し、其第一、第二章は廿五日の閣議にて朗読せし通りなり(其日、米国案の翻訳を閣僚に配布す)。其後八日間の労作の結果、三月二日に翻案脱稿す。其間米国側より屡次督促あり。
三月四日。松本国務相は白洲君同伴、ホイットを往訪し其作成に係る翻案八部を手交し次の趣旨を陳述せり。
米国側にて取急ぎ居らるる事情に鑑み此草案ハ拙者単独にて作製せり。従つて同僚にも示しあらず、明日の閣議に於て提示する予定なり云々。
Whitneyは、松本第二案を受取ると同時に直ちに翻訳に着手することとし小畑氏井上氏の両名を米国側の二人の通訳と対峙せしめ、午前十時半より翻訳に着手せり。
間もなくケヂスは白洲を伴ひて部屋に来り松本と対談を始めたり。
彼曰く、第一条に於て米図案は・・・・之を他の如何なる源泉よりも受けず」との文句ありしに松本第二案には無し。
又第二条に「国会の制定せる」皇室典範・・・の句にpassed by the Dietなる文字なし。かくては松本案を全部翻訳する必要なし。
松本答へて曰く
日本国民至高の総意に基き・・・と書けば斯る文句は書かなくても明白也。又“国会の制定せる”との形容詞ハ後に皇室典範の条項に記入せるを以て第二条に記入する必要なし。それにて理論はー貫す。然し斯様な点に迄御異存あるならば、一々之を論ずるも詮なし。小生ハ退去すべし。
彼曰く、兎に角、私の部屋に来てくれ、とて彼の部屋に案内せり。
ケヂス更に談話をすすめて
“第三条の補弼とは何か、何故協賛と云ハぬか。”これに対してAdvice and consentと云ふ文字は其文字通り訳してハ日本憲法に適しない旨を説明す。余が内心虞れたる点ハ第七条にて天皇が官吏の任免をAttestationにて始末せる点なり。
余は夕食を終りて後疲労の故を以て退去せる処、夜に入り更に出頭を求め来れり。然し健康の故を以て辞したり。司令部にては佐藤参事官、白洲君等を引留め、MacArthurも十二時迄頑張り多くの掛官ハ徹夜して働きたる由なり。今尚ほ佐藤君ハ帰り来らず。

何故に司令部がかくも焦慮せりや。総理を始めとして二三閣僚の意見によれば、昨日の読売新聞に掲載せる天皇御退位に関する電報、及Washingtonの極東諮問委員会の悪気流は著しくMacArthurの立場を困難ならしめたるものの如く、殊に読売の記事が米国記者の手より出たる事実に照してマックに一大打撃たりしを推知しうべし。
幣原総理は昨日拝謁の際、陛下に対して読売記事に言及し、誠に困つたことを書いたものでありますと申上げたるに、あの記事の件は宮内大臣より聞けと仰せられたとて委細の事情を談られたるが、宮相の談によれば其経緯は次の如し。
実は米国のA.P.記者Brinesの電報の写ハ我手にあり。その中にHigh personage of the Courtとあるは東久邇宮なり。宮相ハ東久邇宮邸に出向したるに、殿下は顔を見るなり宮内大臣は私を叱りに来たなと仰せられた。松平氏は殿下の御言辞が容易ならぬ影響を及ぼす旨を申上げたるに『宮相がそう云ふなら、もう云ハないよ』と仰せられたるにより、松平氏ハ重ねて、“殿下自ら御反省の上、今後慎むと申されるのならば兎に角、松平が云ふから止めると申さるる如きは甚だ心外であります”と言上した。
幣原総理はBrinesの電報を詳細に翻訳して談りきかされた。皇族の多数が陛下の御退位に賛成であるとか、摂政は高松宮に極るであらうとか、退位反対ハ幣原と宮相のみだとか申されたことハMacArthurに一大打撃であると総理ハ繰返して云ハれた。そして過日の三笠宮の御発言ハ如何なる御趣意であつたのか、陛下にも御尋ねしたが、お上ハ“あれハ極めて善意で悪意からでハない”と仰せられたとも附言された。
閣議は昼食後引つづき聞かれた
午后二時十五分、白洲君は米国案(英文)十部を持参し、米国側よりのCovering Noteを渡して、今日中に之をAcceptするかどうか返事を貰ひたい、今夕Textを発表するとのことであつた。米国側は本国の空気を見て一刻も猶予し難しと感じてゐる如くである。
米国が発表するとせば我方にて発表しない訳には行かぬ。さりとて米国案を直訳したような日本文であり、殊に前文のWe, the Japanese people.....は全く欽定憲法を覆すものにて現行憲法73条とは相容れぬ。之を如何にすべきやにつき論議したが、結局之を承諾する外なきも、文句は変更しうるのでハないかとの結論に達した。
然し邦文を即刻発表することは不体裁であるから之を改鼠する必要がある。又之を受諾するとしても米案の如き根本的の大変革は陛下の御勅語を戴いて後に政府案として出す外に途ハない。
依つて御勅語案を作成することになつたが、原案ハ極めて事務的なもので短文であつた。
私ハ此機会に御勅語を以て戦争抛棄、平和愛好の御思召を明かにすることが内外に与ふる影響の重大なるべきを思ひ、原案の末項に左の如き字句を挿入するよう提案した。
「世界ノ人類ハ正義ト信義トニヨリテ平和ノ生活ヲ享有シ、文化ノ向上ヲ希求スルノ念極メテ切ナルヲ信ジ、日本国民ハ進ンデ戦争ヲ抛棄シ誼ヲ万邦ニ求メ以テ日本国ノ名誉アル地位ヲ恢復スルノ速ナランコトヲ希念ス。之ガ為メ基本的人権ヲ尊重シ吾国民ノ総意ヲ基調トスル国憲ヲ制定シ以テ国家再建ノ礎トナサンコトヲ庶幾フ。政府有司、克ク朕ガ意ヲ体シ須ク其目的ヲ達成センコトヲ期スベシ」。
閣僚ハ多く之に賛成であつたので幣原総理ハ慎重に之に加筆して新聞発表の如き案となつた。
午后四時半、総理ハ松本国務相を携へて参内せられた。吉田外相ハ遂にまだ帰らぬ。閣僚ハ憲法草案をめぐつて論議しつつ待機した。
六時十分夕食の為休憩。(小生ハ山下太郎君の招待で吉松に行つて七時過ぎに再び官邸に入つたが、)閣議ハ八時過に首相の帰りを俟つて再開された。
此時漸く米案の翻訳全部が手許に配布された。この案ハ全部で九十二ケ条より成り松本第二案の百九条に比して短かい。
幣原総理ハ陛下が、今となつては致方あるまいと仰せられて勅語案の御裁可を得た旨を述べられた。陛下は皇室典範改正の発議権を留保できないか、又華族廃止についても堂上華族だけは残す訳には行かないかと申されたといふ報告であつた。
そこで此二点について米国側と交渉すべきやについて議論があつたが、岩田司法大臣ハ今日の如き大変革の際、かかる点につき陛下の御思召として米国側に提案を為すハ内外に対して如何かと思ふとの意見があり一同それも御尤、致方なしと断念するに決した。
米国案のPreambleは今一応安倍文相の手で修辞を改めることとし、第三章は法制局の再検討を期待して午后九時十五分閣議を終つた。閣議終了の直前に総理ハ次の意味を述べられた。
“斯る憲法草案を受諾することは極めて重大の責任であり、恐らく子々孫々に至る迄の責任である。この案を発表すれバ一部の者ハ喝采するであらうが、又一部の者ハ沈黙を守るであらうけれども心中深く吾々の態度に対して憤激するに違いない。然し今日の場合、大局の上からこの外に行くべき途ハない”
此言葉を聞いて私ハ涙ぐんだ。胸一杯の気持で急いで外套を引被つて官邸を出た。春雨とも云ひたい曇りの空の下に黙つて広尾に帰つた。新聞記者が十時過ぎに門を叩いて面会を求めたけれど、私ハ懇意な間柄とハいへ、逢ふ気分にハなれなかつた。

三月六日 (憲法第五日)

今日も引続いて朝の九時から閣議が開かれた。今朝は憲法の前文を検討することを手始めとした。机上には安倍文相の翻訳文と法制局案とがあつた。それを折衷して字句を修正したが総理と三土内相とが最も細かい注意を払つた。
(その次に地球節の参賀の為閣僚は十時に一斉参内した。親任官の裡に二人の婦人が在つた。鈴本員太郎夫人と松平恒雄夫人とであつた)。
十一時に又閣議を聞いたが、昼食前に漸く前文の修正を終つた。
午后一時半に閣議再開。総理大臣談話の案文を検討した。これも案として余り上出来でなかつた為め、総理、内相、私自身が多く発言し、今日ハ珍らしく大蔵大臣も発言した。
午后四時一応の検討を終つたので午后五時に新聞に全文を発表することとなつた。
松本博士ハ円卓の周囲を歩き乍ら『私は二、三日休ませて貰ふ。新聞記者に攻められたらどうもやり切れぬ。宅で病気することです』と云ハれた。心中は思ひやられる。私なら昨日頃辞表を叩きつけたらうと考へた。
帰り途鳩山邸へ立寄つたが鳩山君は土浦へ遊説に行つたとかで留守であつたから鳩山夫人に逢つて、憲法案に対する自由党の態度について卑見を述べた。

この部分は未テキスト化。



この部分は未テキスト化。

憲法審議
六月廿五日 記

新憲法の審議はいよいよ今日から始まつた。午后一時半に開会。吉田総理から提案理由の説明があつたけれども、我国の劃期的憲法として何等ふさはしき説明が聞かれず、極めて事務的な熱のない説明であつたことを遺憾とする。
第一陣の北れい吉君の質問ハ自分の予想以上によかつた。只後半に至つて頗る形式的な字句に拘泥した逐条的な質問に堕したためOratorical successを贏ち得なかつたことは惜しかつた。
憲法審議の特別委員会にハ私が委員長に据ることになつた。これは劃期的な仕事であるだけに私にとつては厚生大臣や国務大臣であるよりも張合のある仕事であると考へてゐる。
憲法の審議は全院委員会に於て行はふとの論も小会派から提議されたが、全院委員会は此種の仕事にハ適しないことが判明して、特別委員会を設けることになつたのである。
東京新聞ハ逸早く二十三日にInterviewを求めて次の如く記事を書いた。

[新聞の切抜を貼付]

私が憲法改正案委員会の委員長に就任することは私個人に対する嫉妬から多少の反対もあつたらしい。然し自由党から出すとなると差当り世間の納得する人間はゐない。そこで大野伴睦君(幹事長)の言葉を籍りて云へば“君に据つて貰ハなければ格好がつかない”ことになつたのである。
私ハこの地位が実質的には左程重大とハ思ハない。だが議会三分の二の数を以て可決される為めにハ修正案の取扱にも細心の注意をしなけれバならぬ。
かかる意味から吉田内閣の一閣僚たることよりも寧ろ委員長たることを栄誉なりと考へた。愈委員長に当選した六月廿九日の午后から心気明朗にして″志気方自得″といふ心特になつた。

[新聞の切抜を貼付]

六月廿九日に委員長に就任して引続き委員会を開いた。総括質問で大体の論議をしたが質疑の申込は七、八十名を数へる。総括質問の締くくりといふ訳で私が最後に質問を試みたが、好評であつた。
それを朝日と毎日とが大きく取り上げJijiが英文で出した。それは別添の通りである。

七月十六日の委員会にはNorthwestern UniversityのProf. Colgroveが傍聴に来た。私ハ委員会を五分間休けいして彼を委員長席に迎へ昨夜から考へた短かい挨拶をした。全文は次の通。
Prof. Colgrove,
On behalf of the members of the Com. I want express our greeting and sincere appreciation for the interest which you have taken in our business. I understand that you are going home soon. When you arrive at your homeland, please tell your countrymen that the Jap. people are doing their best to rebuild new & democratic country and are looking forward to collaborating as soon as possible with the peace loving peoples of the world.
彼氏も亦之に答へて簡単な挨拶をしたので満場拍手して之を迎へた。僅か五分問でハあつたが議会にハ珍らしい光景であつた。
先日の総括質問と今日の挨拶とは新議員諸君に良き印象を与へた。
口の悪い北君迄が芦田君は外交官をして居たから英語も良いし、立派な挨拶が出来たとほめた。正直に云へバ私の英語は外交官の英語でハないのだ。
(以上七月十七日記)。


皇室財産の処理
八月十日 夜

この日誌を誌さないこと一ケ月余、この間は専ら憲法委員会にて忙殺せられ、真に愉快に働いた。“終始一貫、立派な委員長振りであつた”と日本経済で褒められたりして益々気をよくしたせいもあつたらう。
憲法小委員会の修正は八月二日を以て一応実質的に終了した。問題ハ84条の皇室財産の条項のみがG.H.Qと揉み合ふことになるのであらう。現在ハそうなつてゐる。
八月七日にGovernment sectionのWilliamsが議会に来て話したいといふので三、四十分間話した。私ハ委員会の立場を説明して次の如くサンマライズした。
When we got the draft of Constitution in the Diet we were told (1°) that the Draft was approved en bloc by the Scap, (2°) that except the articles concerning the basic problems the details are opened to the discussion of the Diet. We proceeded along this line in discussing the amendments.
So we left the basic principles untouched. 0nly amendments we made are on three articles, that is, arts. 97. 84. 92.
Williams interrupted, "Art.84 is very important and it involves the basic principle..."
"Well," I said, "we do not think the question of the Emperor's property constitutes the basic principle of our Constitution."
In any way when we stipulate that "All Imperial property shall belong to the State" even hat and pencil must be turned over to the State. According to our legal conception the proprietor must not be deprived of his income of the property. Why the Emperor's property right is restricted to this extent?
Williams said, "We recognize the private property of the Emperor.
We have no objection on it. But among property of the Imperial Household there are many things which we can not consider as the Emperor's personal belong. The art 84 stipulates exactly that case.
I said that "You recognize the Emperor's private property, that's good, then why we can not say so clearly in this article"
こんな風な問答を繰返した後私は皇室財産の問題ハ政府と宮内省とG.H.Qとの間の協議で解決しうる問題であつて之を憲法に記入することは必要なしと思ふ。憲法に書くには皇室の支出ハ毎年国会の議決を必要とすと規定すれば足ると云つたら、その点ハ上司に話して何分の返事をすると答へた。

私の印象ハWilliamsは上官たるWhitney,Kades等の意中を充分に知らないし、又上司をinfluenceする力もないと感じたから彼の約束にハ重を措かなかつた。
C.L.Oの役人は皆弱腰でどうにもならぬ。幣原男が直接に処理しなければ解決の端緒ハ見付からないと思つたから、此点ハ幣原男に八日にも十日にも進言した。然し幣原男ハ腰を上げそうもない。
この間憲法の小委員会は附帯決議等でゴマ化して時々集つたが、政府とScapとの交渉ハ進まない、と云ふよりは終戦連絡局の役人は吾々の手でハどうにもならぬと匙を投げて八月八日以后は行動を中止した形である。法制局長官の入江君が時々ケヂスと交渉して案文を練つてゐる。
十三日に幣原男が大臣室で逢いたいと云つて面会した。“私ハ色々考へたが、修正案を引込めて原案に帰る方がよいと思ふ。どうだ”といふ事だ。私ハ「それは大問題です。国の為めなら自由党も考へるでしようが、私からそれを発議する立場にハない。私ハ委員長を辞めることになるかも知れませぬ」と答へた。「然し一応進歩党に話して下さい。その態度によつて自由党も考へます」と云つて別れた。幣原氏は斉藤君を伴つて進歩党へ勧誘に出かけたが進歩党でハ承諾したといふ話だつた。
十四日に又幣原男が呼びに来た。午后一時に大臣室で面会すると“今日ハ君に二杯の熱湯を飲ませることになつた”と云ハれた。



この部分は未テキスト化。

昭和二十一年 日誌第二巻

戦闘準備 廿一年 八月十七日 誌

敵は愈鋒鋩を見せて来た。話は八月十五日に遡る。その日は降伏の記念日であつて、議会も休むかとの噂もあり希望もあつたけれども、何しろ予算も審議を了らず、憲法もウロウロしてゐるので、休めなかつた。
丁度昨日から今朝にかけて政府とScapとの交渉が纏まり、(纏まつたと云ふよりも十三日のMacArthur吉田会談で押しつけられて)第八十四条の修正案が出来た。自由、進歩両党は真先にそれを飲むことになり、十五日午前に自由党の幹部会と代議士に図り、附帯決議と共に諒承を得た。よつて十五日の午前の小委員会にそれを附議することになつた。
八月十六日の十時頃に幹部室へ行くと葉梨、大久保の両君から、第八十四条の案はウッカリしてゐたが事極めて重大であつて、国民感情にも響くから委員会で決定することを止めてくれとの話だ。葉梨君の如きハ頗る激昂して紅くなつてゐる。私としてハ党の決定によつて委員会に臨んでゐる以上、三四の人の依頼によつて委員会の進発を中止する訳にハ行かない。そう明言して委員会に出た。そして修正の八四条を各派の提案として小委員会に出すよう相談が纏つてその通りに通過した。
委員会が終る頃加藤一雄君が来て代議士連が八四条で騒いでゐるから来て下さいといふ。『アレは私に対する嫌がらせで敵本主義だよ』と吐出すように答へた。私ハ一切とり上げないで午后の議院法調査会に出席して四時過に議会を出た。
十七日の朝、衆議院公報を見ると九時半から緊急総務会を開くと広告してある。私ハ其処へ出て一応の事情を説明するために最善を尽そうと思つた。
十時過に幹部室へ行くと予算の件で論議中であつた。
幹事長が一キリとなつた頃“憲法の件を”と云つたが、却つて進行を抑へる態度をとつたから“いよいよ、彼も一味だな”と思つた。向ふの連中は大久保、葉梨、大石倫治、高橋英吉、有田二郎、荒船清十郎といふ顔ぶれである。それに督軍然として議長の樋貝も来てゐる。
私は84条の修正案の行さつを話した。植原君が来て政府の立場を詳細に話したので空気ハ一変したかに見えた。然るに予算に関する代議士を開くといふので幹部会は散会した。正午過になつて再開された幹部会でハ又しても同じ論議が繰返された。そして結局政府はこれ以上どうにもならぬといふのか更に努力するといふか一応確めようといふ事になつて、樋貝、葉梨、大野の三人が出て行つた。
帰つての報告に総理ハ今一つやつて見よう、然し来週になるぜ、と答へたと云ふ事だつた。
私ハその経過を進歩、社会、協同の外他の二会派に伝へて今日の委員会ハ止めますと云つて歩いた。然し腹ハ治らないから吉田総理に直談しようと思つて大臣室へ行つたが留守。折柄居合ハせた斉藤、植原両国務大臣に対して、所謂政府の最終案が最終案でないとすれバ、憲法委員はどうすればよいのか、と云つてゐる処へ原夫次郎君が来て進歩、社会両党共あれでハ治らぬ、何とか小委員会を開いて相談してくれと云ふ。
尤だと思つたから、廿日出君(幹部室で激論中の)を拉して三時過に小委員会に出て行つた。進歩、社会両党ハカンカンに怒つて、政府も政府、自由党のボスも怪しからむ、吉田首相に直談しようと云ふ。そこで法制局長官と副書記官長をよんで総理との会見を申込み委員会の空気を伝へた。

午后五時、小委員十二名(高橋、廿日出、江藤(自)、犬養、原夫次郎、吉田安(進)、鈴木、森戸(社)、林平馬、笠井、大島)は外相官邸の二階で総理と会見した。和服姿の総理は何と思つたか84条についての今日迄の経緯をくだくだと話して、どうかアノ案で直進して下さいと云ふ。
吾等ハあきれた。話がマルで違ふ。
『今日は二度も三度もあきれて居ますが、吾々が此処へ来たのは、先刻三人の人が帰つて来ての話に..』と一応の経緯を述べた。
社会党の鈴木君は総理が自由党の有志を引見してアンナ話をされるのはどういふ訳かといふ。
『私ハ憲法委員会の人々と思つた。殊に議長が居たものだから・・・』と吉田氏の答。
『一体修正案はあれが最後案と考へてよろしいか』。
『あれが最後案であります』。
鈴木君は更に吉田総理に向つて『自由党の馬占山と綽名される人は新聞記者に向つて“芦田委員長ハG.H.Qと通じて陛下に不利益を図つてゐる”と放送した。云ハバ芦田委員長を毒殺せんとしてゐる。甚だ不快な話です』といふ。之に応じて吉田安、森戸、林君等が私を正当とする理由を縷々述べた。私ハ感激を覚えた。
そこで私ハ鉛筆をとつて今日の会見についてのStatementを書き一同の同意を得て、林書記官長に発表を求めた。
次に私ハ吉田総理に向ひ、『自由党首として、私のとつた措置を正しいとして支持されなけれバ私ハやつて行けませぬ。それでなけれバ私ハ委員長をやめます』と云つた。吉田氏ハやや不明乍ら之を承諾した。
結局十九日朝から憲法委員会を開くことを決定して会見を終つた。
私ハ心から勇気に満ちて帰途についた。
戦は既に開かれてゐる。いよいよやるんだ。

八月十八 夜誌

昨夜総理官邸で作つたStatementはドノ新聞にも出てゐない。不思議といふ外はない。
小島徹三君が来て大勢はこちらのものだ、じつとしてゐらつしやいと云ふが、戦ふ以上そうはならぬ。
七洋寮に高山義三君を尋ねて最近の事情を話した。
ときわに開かれる総務会に出席した。
憲法問題について昨日吉田氏と会見の事情を話して、“何とか始末をつけねば”と云つたら樋貝君が専ら口を出して大野と二人で小委員会の案を呑む外あるまい。然し宮廷の問題等については政府側の明確な答弁を取つて置いて貰ひ度いとの話であつた。敵は明かに妥協を策して来たことが判明した。
大会の行事はすらすらと進んだ。然し最も不愉快であつたことは誰もが追放者の事を引合ひに出して弔辞を述べること、河野や辻嘉六が出席してウロウロしてゐる事だつた。
江藤夏雄君がカンカンに怒つて、“吉田、林書記官長ハ約束を履行しないでハないか。これでは自由党と憲法委員会とは正面衝突を行ふ外はない”と云つてゐる。尤だ。明日はどうするかを考へねバならぬ。

樋貝不信任の旋風 八月十九日 夜

朝登院して憲法小委員会を召集した。犬養、原、鈴木等の一言居士不参で決定は出来ないが、憲法に関する自由党の紛糾は一応納まつた旨を報告してなるべく審議を促進するよう希望した。委員会はその点で異存はない。
私ハ次に十七日夕方吉日総理邸で作製したCommuniqueが林書記官長から発表されなかつた旨を告げ私からは昨日抗議したことをつけ加へた。西尾君は事件ハ重大だと言つて留保した。
午后一時半再開して原夫次郎君、鈴木義男君も出席した。その直前政府からの使が来て一寸大臣室へ来てくれといふ。
大臣室に白洲君(C.L.O)と法制局長官、金森君等が鼎座して、G.H.Q.が又注文を出して来たと云つてTypeした英文を示した。憲法63条、64条とに関する注文である。“大体承諾できるがCivilianたる条件ハ蛇足であり且つ書きようがない”と法制局は頭痛だ。兎に角此点ハ今一応押返すことにして白洲君は出て行つた。委員長から委員会へ伝へて貰ひたいとの事だつたが、“明朝邦文のテキストが出来たら、金森君から委員会へ話して貰ひたい。今日は時機が悪い”と答へて委員会に出た。
委員会で簡単にその経過を話した。
問題は十七日事件に入つた。原君と鈴木君が事態を明白にしなければならぬと主張する。吉田安、江藤夏雄君も強硬だ。
それでは声明書を作らうといふ事になつて私から江藤、吉田、鈴木、大島の四君を依頼した。時に二時半。
すると鈴木君は自由党の諸君、議院職員ハ退席して下さいと云ふ。私達は三時半迄休むことにして、再び法制局に引返した。G.H.Qは.“Shall be civilian”を削ることに同意した。
三時四十分再開。鈴木君が声明書の草案を読んで皆から意見が出た。この声明書ハ吉田総理の粗忽、林書記官長の怠慢に言及してゐるが、主力は議長の越権追及に置かれてゐる。
委員長として私ハ之に参加出来ないと云つたので、“御尤だ。退席して下さい”といふから出て行つた。
今日欠席してゐるのは北君と笠井君だが、自由党の江藤君と廿日出君は参加した。
確かに一つのBomb shellだが、この儘帰宅する訳にも行かぬ。控室で石井元次郎君を誘つて首相官邸で支部長会議に出席中の大野君に通告に行つた。
“まさか進歩党が樋貝不信任に賛成もしまい”と云つて大野君は案外平気でゐた。
私ハこの声明書に対する新聞の反響を見ることにして夕方帰宅した。この問題は進路如何によつて政界に意外の反響を惹起するに相違ない。明日の新聞を待つことにしよう。

樋貝議長飛ぶ 八月廿五日

連日の紛糾で日誌を怠ること四日間。記臆を辿つて一括して書く。
二十日の朝日新聞其他は憲法小委員会の声明を大きく取扱つた。党内は旋風でユラユラしてゐる。其際に更に修正の問題が起つた。二十日朝小委員会を開かうとしてゐる時、大臣室から来てくれと云ふことで63条、64条の相談をして委員会に出た。委員会としてハ承諾に困難しない点であつたから問題は簡単に片づいた。十一時頃に終つて党の幹部会と代議士会で修正の承認を得た。
然し議長問題は益々火ノ手をあげて来た。社会党の議長不信任案に協同党、無所属、新政会が合流したから自進両党の数で押切る外ハないが進歩党も若手は不信任に賛成してゐる。犬養君は恐らく社会党に約束したと思ハれる節がある。そこで代議士会では憲法通過後にハ樋貝がやめるとの諒解の下に不信任案ハ否決することに決心したらしい。尤も犬養君にハ幣原男から懇々と話があつたものだ。幣原男に逢ふと、『不信任案が通過すれバ内閣ハ潰れるんです』といふ。
自由党でハ大野、葉梨、その背景者の運動があつて樋貝を救ふべく働いてゐるが、社会党ハ強硬である。
二十一日に憲法委員会を開く。北浦、木島、木村の三君は最も強く小委員会の行動を非難しようとしてゐる。北浦君は総理から、木島ハ大久保の手で、木村ハ辻嘉六の手で動いてゐる。
憲法委員会ハ緊張裡に開かれた。北浦、木村の議事進行に関する質問があつたが、相当押し切つて午后〇時四十五分頃に委員会ハ憲法を可決した。これで小生の任務は90%終了。ほつとした。

憲法審議終わる

[新聞の切抜を貼付]

[新聞の切抜を貼付]

二十一日の日程には憲法と出てゐる。然し社会党でハ樋貝議長の下でハ憲法審議は行ハないと頑張つてゐるからどうにもならぬ。各派交渉や四頭目の会議をやつて見たが、片山が承知しないので、廿一日の夕頃になつて、木村副議長で本会議を開いた。
社会党の動議で不信任案を上程したが自由党ハ数で押切つて樋貝を援助することに決したが、党内でも樋貝を辞めさせよとの論は相当に強かつた。
廿一日の夜の会議ハ社会党のFilibuster政策で見事に自由党ハ破れた。私ハ副書記官長の自動車で一時に大森へ帰つた。
廿二日は朝から幹事長が左往右往してゐる。木村副議長は病気で出られない。山崎猛君を仮議長として夕方から会議を開けた。
然るに弁明に出た樋貝ハ散々ミソをつけ、弁士山口が又脱線して議場はどうにもならぬ。いよいよ樋貝がやめなけれバ憲法の審議ハ出来ない形になつた。
二十三日午后樋貝は辞表を出した。昨日も今日も議長室に辻嘉六が据り込んでゐたといふ。
そこで夕方に会議を開いて山崎を議長にした。進歩党でハ代議士会で川崎、吉田両君が芦田を押せと演説してゐたし、社会党も芦田ならば自党候補ハ立てぬと云つたそうだ。私ハ他党からいつもほめられる。

[新聞の切抜を貼付]

夕方七時半本会議が終つて外相官邸で夕食。明日は愈本会議に憲法が出る。
委員長報告は二十一日に浄書が出来て、印刷に附したパンフレットも廿二日にハ出来た。
原稿ハ時々図書館に持つて行つて読み返した。殊に最後の結論は廿三日の夕方迄にほぼ暗誦した位だつた。

八月廿四日
廿三日の夜は外相官邸から帰つて早くねた。それには前夜の睡眠不足を補ふ意味もあつた。
廿四日は六時に起きて又も報告演説原稿の初と、結論とを読み返した。
九時過に登院してモーニングに白チョッキをつけて、今朝登院された尾崎先生を無所属控室に訪ねた。先生は顔色はよくないが元気だつた。
十時半に本会議を開く筈が十時四十分になつた。私は十一時五分前に登壇した。左右、前面からの照電を浴びて一種神厳な気持になつた。声も存分に出した。結論に入ると共に原稿を机上に置いてキッと向き直つた。
新聞に出てゐる通り『真に痛恨の極であります・・・』といふ処へ来ると涙が出て泣声になつて了つた。拍手の音が耳に入る。幸にして涙ハ止んだ。そして予定の通りに終つて降壇したが涙がまだ眼底にあつて、笑顔にもなれぬ。
数人の人が席に来て祝つてくれた。演説を終つた時、この演説ハ成功したと直感した。拍手が白波のように眼に映る。ゆるゆると段を下りて議席に帰る時、私ハまだ感傷的な気分であつたが、其間も拍手はまた起つた。はつきりと意識しないが私ハ確にshyであつた。傲然たる態度などは出もしないし、又そんな気持でもなかつた。翌朝の時事新報が書いてゐることが、外から見た光景であつたのだらう。

[新聞の切抜を貼付]

翌晩の九時から放送座談会のRadioを聞くと北れい吉、犬養健、水谷君等が憲法討論の話をして、三人共に私の演説を褒めてくれた。北君は“芦田君の演説は情理兼ね備ハり立派なものだつた。芦田君は冷徹の人だと思つてゐたが、過去を追憶して声涙共に下るところ、私も貰泣きした。芦田君は冷頭熱腸の人だつたので私ハ芦田君を見直した”と云つた。
水谷君は“今日の演説の白眉は何と云つても芦田委員長と吾党の片山さんだ。芦田さんハ時勢に押されて、林内閣の時に佐藤外相に向つて質問演説をした昭和十二年以来、始めて議会演説をされたのだ”と云ふような事を云つた。共産党の志賀君は“芦田さんは喜ぶべき処を泣かれたような感がした”と云つた。監獄から出た人は成程そう感じるのであらうと思つた。
井上知治君は私を祝つて、『アノ演説は一個の芸術品だ』と云つた。私にとつて一番嬉しい讃辞であつた。或人はアノ演説を聞いて泣かない者は日本人でないとも云つて呉れた。
昨日、今日、逢ふ人毎に“御苦労でした”“御成功でおめでとう”と云つて呉れる。時たま“ははー憲法会議でしたか”等とまるで無関心な言葉を洩されると不快な気持にさへなつた。

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憲法公布の式典 十一月三日 夜誌す

今日は何といふ素晴らしい日であつたか。
生れて今日位感激にひたつた日はない。それは簡単には書けない。
朝十時登院した。私の書いた憲法解釈のパンフレットは今朝出来上つた。庄司一郎君が行きなり二千部買つてくれた。各方面で申込があつた。用紙配給委員会へ五万部の用紙を頼むことにした。
十一時貴族院で行ハれた公布式典ハ物静かな会であつた。食堂で衆議院の会食が行ハれた。何となく皆が朗かであつた。
然し午后二時から宮城広場で行ハれた祝賀都民大会は素晴らしい会合であつた。秋晴に推進されて数十万の民衆がこの広場に集つて来た。一尺でも式場に近附かうとして左に揺れ右に揺られつつ群集は汗をふいてゐる。
式は二時少し前から始まつた。私は演壇の上で群集の様子を見入つてゐた。米国兵がCameraをもつて左往右往してゐる。内外の新聞記者が高い台の上で写真器を握つて立つてゐる。
都の議長や副議長が次々に登壇して、総理、貴衆両院議長が祝辞をのべる。
二時十分頃両陛下は馬車で二重橋を出られた。群集ハ早くも帽子やハンケチを揮つて波立つ。陛下は背広、中折の姿でゆるゆると歩を運バされる。楽隊が君が世を奏すると会者一同が唱和する。何故か涙がこぼれて声が出ない。私許りでハない。周囲の人々ハ皆そうらしい。
首相の発声で万歳を三唱すると民衆は涌き立つた。陛下は右手で帽子をとつて上げて居られる。皇后陛下はにこやかであらせられる。
陛下が演壇から下りられると群集は波うつて二重橋の方向へ崩れる。ワーッといふ声が流れる。熱狂だ。涙をふきふき見送つてゐる。群集は御馬車の後を二重橋の門近くへ押よせてゐる。何といふ感激であるだらう。私ハ生れて初めてこんな様相を見た。

自由党本部へ行つて、本多市郎、山本勝市、小野孝、小峯柳多、小島徹三、江藤夏雄、青木  の諸君と共に新しい政調の部門を相談した。兎に角、大に新規蒔直しでやらうといふ元気を出した。

五時半総理官邸の祝賀会に行つた。貴衆両院の憲法関係者、枢密顧問官、官庁関係者等。私は枢府議長、両院議長、安倍貴族院議員(委員長)の次に坐席を与へられた。なごやかな会食であつた。
七時に終了。総理から一寸と云ハれて部屋に入つた。
“憲法制定の功労者に、本来なら叙勲といふ処だが、時節柄とて評議の結果、御写真を賜ハることになつた。これは陛下が御署名の時の御写真に御名をしるされたもので、総理と幣原、金森両相、枢相と両院議長、貴衆両院の憲法委員長、法制局長官等十一名だけに下賜されたものです”。そう云つて賜物を渡された。私ハ又感激した。
省線に乗つても、頭は今日一日の感激で一杯である。そして涙が流れ出る。
大森駅から人力に乗つて急いで家に帰つた。三史君夫妻、長谷の親子三人も居た。御下賜の写真を机上に置いて、都民大会の話を初めたが、とうとう泣いて了つた。スミ子もミヨ子も泣いた。
“今日は生れてから始めての最も感激した日だ”と一同に話した。
私にハ何の慾もない。総理になつても総裁になつても、何になる。一番役に立つ仕事なら何でもしよう。差当つて政務調査を軌道に乗せること、政党を良くすることだ。

その前後
十一月八日 記

人間は引込みが大事だ。この年になつて自己宣伝をする気にもなれない。高橋均君の云ひ草ではないが「芦田の名が新聞に出ないことを祈つてゐる」のに、又しても話の種になる。
憲法精神普及会の相談が四日と五日の両日、引つづいて議長応接室で聞かれた。五日にハどうしても普及会の構成を纏めねバならぬ。私ハ木村副議長と事前に打合せようと思つて副議長を訪ねた。山崎議長を会長に、貴族院と内閣の代表を副会長にと提案した。処が山崎君ハ“多忙”といふ理由の外に議長は議長一本鎗で行くべきだと云ふし、副議長は、“事の真否ハ別として、世間でハ金森、芦田といふ二人を憲法と切離して考へ得ない状態だ。だからソノCombinationが人の買ふ取組である”といふ。山本実彦氏は議長が会長はまずいといふ。無所属の福田君は「芦田さん、事の序にやつて下さい」といふ。原夫次郎君は私と同意見で国民代表たる国会の議長が名義だけでも受けるが筋道だと再三主張し、小生も極力原君の説を支持したが、大勢はとうとう僕が会長といふ事になつた。副会長は金森君と安倍能成君、理事長は林内閣書記官長と内定して散会して了つた。
私は普及会長にならう等とは夢にも考へてゐなかつた。そして最後迄山崎君を推した。
だが考へて見ると人間は引込み勝の態度になればなる程引出されるものと見える。私の今日の場合がそれだ。

一昨日小山田医院に行つてMetapolineの注射をした。今朝ハ始めてホルモンを注射した。僅か三回の注射であるけれど、体の調子は頗るよい。今二三ケ月前に試みればよかつたと思ふ。
思出した一つのEpisode: 五日の夜、鶴見総持寺で講演を頼まれて行つた。聴衆は老若の男女、小学生まで居た。それに憲法の話をしようと云ふのだから少々困つた。話も大抵結論に達した際、聴衆の中から二、三の者が質問!質問!と叫んで立ち上つた。講演会をつぶそうといふ企図である。それを抑へつけ乍ら相当に反撃を喰はした。聴衆は大多数、私を支持した。散会後二三十人の仲間が質問すると云つて寺の玄関に頑張つてゐたそうだ。私ハ案外平気だつたが坊さん達が心配して国民服の若僧六、七名を護衛にして裏門から駅へ、駅から大森駅まで送つてくれた。
“君達も本堂で念仏を唱へて衆生済度をする時代ハ過ぎた。辻説法に出なさい。それが時代の要請です”
と云つたら、“そうです、そうです”と云つてゐた。

[新聞の切抜を貼付]



この部分は未テキスト化。

憲法施行日の式典 五月四日 朝

雨のふりしきる昨日の一日を思ひ浮べて漸く任務の終了したことを思ふ。午前十時から雨に打たれ乍らの式、天皇陛下の御臨幸、群集の熱狂、いづれも昨年の公布の式日と同様であつた。午后の帝劇の祝賀会、その挨拶、進駐軍の将兵と其家族等の集り、何となく戦争の幕が平和の空気に代つたように感ぜられた。私ハ極めて満足の感を以て家に帰つた。家族達は三日の式場及帝劇からのRadio Broadcastingによつて私の演説等一切を聞いた。私の演説は好評を以て迎へられた。四日の新聞は三日の式を大書した。
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